サティヤ サイババの御言葉

日付:1993年10月7日
場所:プールナ・チャンドラ講堂
パードゥカ・プラティシターにおける御講話より

主の蓮華の御足の栄光

正しい行いを守ることは減り
ダルマは危機にひんしている
道徳は行き場を失っている
人間の存在について何を語ることができるだろうか?
道徳と倫理は書物の中にしかなくなった
ハートは汚ないゴミ箱と化してしまった

神聖アートマの化身たちよ! 湿り気は水の自然な特質です。硬さは石の属性です。甘さは砂糖にとって自然なことです。熱は火の特性です。

これらは物質のダルマ(自然な生態)です。個々人にとってヴァーンチャ(欲望)があるのは自然なことです。なぜなら、人間は欲望によって支えられており、それは人間のダルマ(自然な性質)であると考えられているからです。「ダーラヤティ イティ ダルマハ」(ダルマとは支えるものである)。人間は欲望によって支えられています。人間の第一の義務は、自分の欲望をすべて神に捧げることです。

これは、ダルマの実践には、現世の欲望をすべて神に捧げ、内なる目を発展させることが必要だということを意味しています。「サルヴァダルマーン パリッティヤッジヤ マーメーカム シャラナム ヴラジャ」――すべてのダルマを手放して、私だけを拠り所としなさい――とギーターの中でクリシュナは述べています。これは、人は外的な感覚的、肉体的な欲望をすべて神に捧げ、永遠なるものを軸とした霊的な思考を培うことを第一に目指さなければならないということを示しています。

ハートの純粋さは霊的英知に不可欠

こうした霊的な展望を身につけて、他の人々を感化するには、チッタ シュッディ(ハートの清らかさ)を持っていなければなりません。霊的な英知は、ハートの清らかさがあって初めて姿を現すことができます。雑草を取り除き、土地を耕し、種を蒔き、水をやることが、その土地で作物を収穫する前に必要であるのと同じように、人のハートの土地も、悪い考えや悪い感情を取り除き、愛を含んだ水をやり、霊性修行で耕し、神の御名という種を蒔かなければなりません。そうして初めて、人はグニャーナ(神聖な英知)という収穫を得ることができるのです。

今日では、霊性修行は話を聞くことだけになり、教えを実践することはなくなっています。聞くことは一種の病気になっています。人々は、話を聞いただけで、自分は何でも知っていると自慢します。このおかしな自慢話は人の無知を深めています。

人は聞いたことを反芻(はんすう)すべきです。反芻した後に、ニッディディヤーサ(教えを実践すること)をすべきです。そうして初めて、思考と言葉と行いの三重の清らかさが得られるのです。今日、人々はただ講話を聞くだけで満足しています。これでは悟りには至りません。

シュリーニヴァーサラガヴァンは、「ナーマ・リキタ・ジャパム」(霊性修行として主の御名を繰り返し書くこと)の実践について言及しました。この修行は、思考と言葉と行いの調和を促進します。これら3つの過程(まず主の御名を思い、次に御名を口に出し、次に御名を書く)はすべて、清らかなハートで行うべきです。

「サッティヤム」は人間の真の姿を示す

どのサーダナ(霊的規律)にも、完全な清らかさが不可欠です。この清らかさを達成するためには、シュレーヤス(霊的な幸福)とプレーヤス(俗世の幸福)の違いを理解しなければなりません。真の人間らしさとは、アートマ(内在する魂)の本質を知ることにあります。ヴァーク(話す言葉)、マナス(マインド)、プラーナ(生命力)が一体となってアートマを構成しています。「サッティヤム」(satyam)というサンスクリット語に含まれる3つの音節は、人間の真の姿を指しています。「サット」(sat)は食べ物、「イ」(y)は水、「ヤム」(yam)はスーリヤ(太陽)を表しています。この言葉の中にある意味は、太陽は人が食物を育てるのに役に立つ水を供給している、ということです。「サッティヤ」(satya)を逆の順序で解釈すると、真実は苦行と感官の制御によって悟られる(「サット」(sath)は真実、「タ」(t)はタパスすなわち苦行、「ヤ」(ya)はヤマと感官を制御する他の形態)という意味になります。

感官とそこから生じる欲望を制御することは、ほとんど不可能です。そこでできることは、すべての欲望を神に向けることです。これは、目、耳、鼻、舌といった感覚器官はすべて、それぞれが働く力をアートマ(内在する魂)から得ている、ということに気づけば可能になります。感覚器官を動かして、目が見ること、耳が聞くこと、舌が味わうことを可能にしているもの、それはチャイタンニャ(アートマの意識)です。意識の役割は、電球が光を放つのを可能にしている電流のようなものです。このアートマ意識はすべての存在に内在しているので、ブラフマンと呼ばれています。

人間の体は神を悟るための道具

世俗的な欲望にとらわれて、人は自分の神性に気づいていません。体は一時的なものであり、滅びゆく、ということに気づかずに、人は体と自分を同一視しています。人間の体は、自分に内在する神を悟るための道具にほかなりません。人は宇宙のすべてを知ろうとしていますが、自分は何者であるかを知ろうとはしていません。人は自分の実体を知らないために、不自然な人生を送っています。人間の第一の努力は、自分の神性を悟ることに向けられなければなりません。人は単なる人間ではありません。人は真に神であり、この根本的な真実に気づかなければいけません。

人は、自分の体の各部は、それらを動かしている神の力のおかげで機能しているということに気づかなければいけません。体の各部を重視しすぎてはなりません。目の見えない人は、目がなくても生きているのではありませんか? 耳の聞こえない人は、聞く力や話す力がなくても生きているのではありませんか? 重要なのは、これらの器官をどのように使うかです。

聖者スールダースは、魂を揺さぶる歌の中でこう嘆いています。

「おお主よ! 目を授かっているというのに、人々はあなたの美しさを見ることができません。耳を持っているというのに、人々はあなたの美しい声を聞くことができません」

人は役に立たない噂話ばかり聞いています。吉兆な神聖なことには耳を傾けません。せっかく目を持っているのに、憎しみと嫉妬で人々を見ています。

猿も、ロバも、犬も、豚も、人間と同じように視力を持っています。こうした動物と人間との違いは何でしょう? 動物は、食べて、寝て、子をもうけます。人間もこれらのことをしているなら、動物と人間とは何が違うのでしょうか? 動物は自分の子供を愛しますが、その愛は一時的なものです。しかし、人間の場合、その愛は一生続きます。

どうすれば体を聖化できるのか?

人間は、それがなければ自分は存在することができないものは何か、を理解しなければいけません。目や耳や他の器官がなくても生きていくことはできますが、プラーナ(命)あるいはアートマがなければ生きていくことはできません。これはプラーナ・プラティシタ(人の中に神聖な生命力を入魂すること)と呼ばれています。人体という鏡には、神の姿が映し出されています。人間は愚かにも、その鏡をチャイタンニャ(意識、実体)だと思っています。人ができることはすべて、この意識がその担い手であり、体ではありません。

では、体はどのように聖化されるべきなのでしょうか? それは、体をアートマ意識と結び付いた行為に従事させることによってです。この教えは、ハヌマーンによってヴィビーシャナに説かれました。ハヌマーンは、ラーマの御名をただ繰り返すだけではラーマの御姿を見ることはできない、とヴィビーシャナに言いました。ラーマの御名を唱えつつラーマへの奉仕に身を捧げることによってのみ、彼(ヴィビーシャナ)はラーマとのサーユッジヤム(一つになること)を経験することができる、と。

ギーターの700のシュローカをすべて唱えても、ギーターの教えを一つも実践しないなら、それがいったい何の役に立つでしょう? 「アドヴェーシター サルヴァ ブーターナーム」(いかなる生きとし生けるものに対しても悪意を抱いてはならない)。これは人類に対するギーターの第一の禁令です。これは、一なるアートマ(神)がアンタラアートマ(内在者)としてすべての生きとし生けるものの中に宿っている、という声明に基づいたものです。他の人に憎しみを抱くなら、ギーターを唱えることに何の意味があるでしょう? 皆さんは、神を礼拝し、他の人の中にいる神を憎んでいます。その礼拝と憎悪は互いに打ち消し合い、皆さんには何も残りません。

ラーマ神の命令に従いなさい

ラーマーヤナは定期的に読まれ、ラーマはバーラタ〔インド〕の大多数の人々に崇拝されています。どの村にもラーマ寺院があります。しかし、何人がラーマの命じたことを守って生活しているでしょうか? ラーマは父親が交わした約束を貫くために森に行くことを選びました。今日、父親の命令に従う人はどれだけいるでしょう? ラーマは、真実を貫くために、王国と快適さの一切を犠牲にしました。ラーマは、自分の唯一の目的は人々の福祉を促進することである、と言いました。ラーマは人々の中に神の姿を見て、人々に仕えようとしました。

どんな苦行も、どの聖河への巡礼も、
どの経典の研究も、主の御名を唱えることも、
サッジャナ〔善人〕に奉仕をしないなら
サムサーラ〔輪廻〕の海を渡る役には立たない

サッジャナムとは、サット、すなわちアートマが宿っている者のことです。アートマがすべての存在に宿っているように、サッジャナムはあらゆる人を指します。すべての存在の内なる実在であるサットに奉仕するとき、あなたはチット(意識)の気づきを得ます。この気づきによって、ハートはアーナンダ(至福)で満たされます。

アンナマーチャーリヤは、主の御足はブラフマー自身によって洗われたものであり、ブラフマンそのものであり、全宇宙の重荷を負い、すべての人間の体の重荷を負うものである、と称賛しました。これはどのように行われるのでしょうか。神はプールナ・スワルーパ(すべてを包み込む姿をとる存在)です。個人の足がその人の体の重さを負っているように、神の微細体は、その足で全宇宙を負っています。足がなければ、体は動くことができません。

主の御足に与えられた偉大さの意味

人は、大宇宙と小宇宙が同じ五大元素によって構成されていることを認識し、すべてのものの中には神が存在しているということを悟るべきです。ですから、人は心の底から主の御名を唱え、主の御足を拠り所とすべきなのです。アンナマーチャーリヤはこう宣言しました。

「おお、心(マインド)よ! 主の蓮華の御足を拠り所としなさい。蓮華の御足はおまえをすべての災いから解き放ち、神の世界へと導いてくれるだろう」

バラタがラーマのパードゥカ(サンダル)を安置し、アヨーディヤーは実際にラーマのサンダルによって守られました。バドラーチャラ・ラーマダースも同じ調子で歌いました。

「おお、ラーマ! 私はあなたの御足をしっかりと捕まえています。あなたが私を守ると保証してくださるまで、私は一歩たりともあなたを行かせません」

ティヤーガラージャも同じ調子で、自分はタンジャーヴルのラージャ〔藩王〕が差し出す財宝に誘惑されることを自分に許さない、自分はこの世のあらゆる富よりもシュリ・ラーマの蓮華の御足を好む、と言明しました。

「御足」というのは、金や銀でこしらえたサンダルのことではありません。御足とは、すべてのものを支える神のことを指しています。どうして足にそれほどの偉大さが与えられているのでしょうか? 科学の観点から見てみると、血液は足から上に向かって体のあらゆる部分に流れていることが分かるでしょう。この血液こそが全身を養っているのです。全身の重荷を負う足は、生命それ自体にとって不可欠なものです。主の御足を拠り所とするならば、あなたは神の御姿を見ることを確実にすることができます。

ヤショーダーは足跡のおかげでクリシュナを捕まえることができた

主の御足が何を意味するかを示すために、幼少期の主クリシュナのゴークラムでのちょっとした例を挙げてみましょう。クリシュナは、あらゆる家からバターを盗み、友人や遊び仲間にも食べさせることで知られていました。このいたずらっ子に対するたくさんの苦情が来る中で、クリシュナの母ヤショーダーは、ある日、逃げ回るクリシュナを捕まえて尋ねました。

「家でたくさんあげているのに、どうして他の家からバターを盗むの? あなたの口はいつもバターの匂いがする。盗み癖をやめなさい。さもないと、臼(うす)に縛り付けて動けなくしますよ。こんなに小さな子供なのに、どうしてそんなことをするの?」

クリシュナは、にっこりと微笑み、走って逃げていきました。ヤショーダーはクリシュナを探して家々を回りました。クリシュナは小さないたずらをしました。ヤショーダーは体重が重かったので、速く動くことができませんでした。ヤショーダーは、どうやってクリシュナを探し出せばいいのか困り果ててしまいました。

クリシュナは、ある家で牛乳の中に足を浸し、その場から逃げ出しました。そのため、足跡が残りました。その足跡のおかげで、ヤショーダーはクリシュナを捕まえることができました。実のところ、ヤショーダーがクリシュナを捕まえたいと強く望んだために、ヤショーダーが自分の跡をたどれるよう、クリシュナ自身がその助けをしたのです。ヤショーダーは、主の足跡のおかげで、主を捕らえることができたのです。

主の御足は、さまざまな点で栄光に満ちています。けれども、主の御足が祝福を与えてくれるのは、本当に信じて求めた場合に限られます。主の御足には、シャンカ(法螺貝)とチャクラ(円盤)という神の印が付いています。シャンカはシャブダ・ブラフマン(神なる宇宙の音)の象徴です。円盤は時間の輪の象徴です。音と時間は共に、主のさまざまな宇宙的側面を表しています。全宇宙は音の振動から生じました。その振動は時間と相関しています。音と時間は切り離すことができず、相互に依存しているのです。

悪いことをしてしまった人に対して、その相手(被害者)の足をつかみなさい、と勧めるのが、農村の人々の一般的な習慣です。ひとたび相手の足をつかんだならば、それは、相手に許しを求めて許しを得た、ということを意味します。現在では、裁判所や法的な手続きがすべて整っているため、相手の足をつかもうとする人はいません。昔の村では、もし誰かが自分の足にひれ伏してきたら、その人を許すしかありませんでした。

主の御足を求めることは、許しを求めること

主の御足を求めることの内的な意味は、そうすることで、主はその懺悔(ざんげ)している人の罪を許してくれる、というものです。けれども、ただ御足をつかむだけでは十分ではありません。心から悔い改め、二度と同じような罪を犯さないと宣言しなければいけません。そうして初めて、その人は贖罪(しょくざい)を確実なものにすることができるのです。

神聖アートマの化身たちよ! サーダナの種類は人それぞれです。人々はサーダナの恩恵を得るためにアシュラムに行きます。彼らは年長者を敬愛し、年長者に礼拝を捧げます。これらの実践は、自分にエゴが残っている限り、何の役にも立ちません。あなたのエゴは、あなたがアシュラムから追放されることにさえ、つながりかねません。ですから、あなたの真の人間性に気づくために、エゴを抑え、所有欲を消し去り、アートマへの執心を強めなさい。妬み、憎しみ、怒りが、人間の間に大混乱を引き起こしています。アシュラムの住人たちでさえ、怒りに満ちています。怒りは罪に捧げられたお香である、と言われています。ですから、蓮華の御足を礼拝している最中、主の御名を書いている最中には、これら3つの邪悪な性質を追い出さなければいけません。

エゴを破壊し、義務を果たし、互いに助け合う

最初に、エゴを破壊しなさい。そうすれば怒りは収まるでしょう。自分の義務を果たしなさい。エゴを出してはいけません。互いに助け合う心を育みなさい。喜びをもって仕事を続けなさい。互いに友好的でありなさい。このように振る舞うときにのみ、皆さんはリキタ・ジャパム〔神の御名を繰り返し書くこと〕とパードゥカ(主のサンダル)への礼拝のご利益を得るでしょう。

サイ・オーガニゼーションにおいて第一に必要なのは、団結と互いの信頼です。団結があってこそ、世界の幸福を促進することができるのです。組織の中に不和があれば、どうやって他の人々に奉仕できるでしょうか? 忍耐をあなたの装身具にしなさい。愛を通してあなたの悪い特質を取り除きなさい。ナーマ・リキタ・ジャパムやパードゥカ・セヴァのような神聖な活動に着手する、サイ・オーガニゼーションの指導的なメンバーたちは、神聖な資質を身につけるべきです。

タミル・ナードゥ州では、多くの村で、帰依者たちがナーマ・リキータ・ジャパを行い、パードゥカに礼拝を捧げています。それと同時に、自分のハートも清めるべきです。今日、世界の多くの地域で、自然が地震、飢饉(ききん)、洪水、火山の噴火など、さまざまな災害を引き起こしています。その理由は何でしょう? 人間の霊性の低下がそうした災害の原因です。ハート(人のハート)の乱れが地震に反映されるのです。あなたの心(マインド)を善い思いで満たし、善い行いに従事しなさい。主の御名を唱えなさい。空間が神聖な御名のバイブレーションで満たされると、環境全体が浄化されます。そうした神聖化された空気を吸う人は、清らかな思考を持つようになります。今汚染されている大気を、浄化しなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.26 Ch31