日付:1996年4月5日
場所:コダイカナル
コダイカナル連続講話より
神の愛の化身たちよ、
すべての名前は神の名前であり、すべての姿は神の姿です。どの人も神の化身です。人間の体は神を知るために授けられました。
誰もが平安や至福や幸せを欲します。不幸や心配ごとや問題を欲する人は誰もいません。真の幸せの本質とは何でしょう? 人は、本当の幸せとは何なのかを理解しようと努めるべきです。もしあなたが誰かにそれを尋ねたら、困難や不安がないことだという答えが返ってくるでしょう。五感の喜びは本当の幸せではありません。たとえ人がそれこそが真の幸せだと思っていても、そうではないのです。人がおぼれる五感の快楽は、人を獣と同じくし、五感の快楽を調べてみると、その持続時間は一瞬であることが分かります。古代のリシたちは、本当の幸せを与えてくれるのは世俗の快楽なのか、それとも主の近くにいることなのかを示してくださいと祈って尋ね、主こそが本当の永遠の至福を与えてくれるということを見いだしました。
かつて、ドイツは第二次世界大戦でフランスを破りました。フランス軍の元帥は、国が破られたのは国民が五感の快楽におぼれすぎていたからだと述べました。以来、彼らは五感を制することを促進しています。
本当の幸せは、神を固く信じること、そして、体とマインドと知性が完全に花開くことから生じます。私たちは、自分の体とマインドと知性が間違った道に入ることを許してはなりません。
体よりも上級で微細なものがマインドであり、マインドよりも上級で微細なものが知性です。知性は体とマインドの統率者であり、これらの主人はアートマすなわち神霊です。私たちは、「これは私の体、私のマインド、私の知性」などと言います。しかし、「私」とは誰でしょう? 主人は道具が正しく使われるよう見るべきであり、そうすれば、神との結合という本当の幸せを実現することができます。 五感との結合は不幸を引き起こします。
創造物の特質とは何でしょう? 神の意志が創造物に伝わることです。誰もが、神すなわち創造主への信愛を持つべきであり、そうすれば、彼らの意志は神の意志と一致するでしょう。シーターとは、母なる大地の娘、そして、神の特質である犠牲、思いやり、慈悲、恩寵、人の内にある平安などを意味します。シーターはいつもラーマと共にいました。あなた方は真理と平安と愛(ラーマ)の化身なのですから、外で平安を探す必要はないのです。
ナポレオンは霊的な成長を遂げていました。戦争で残りの国々を征服するために、ナポレオンは、まず自分の睡眠と空腹を征服する必要がありました。ナポレオンは、いつどんな時でも眠ること、起きることができるよう自分を鍛えました。ある時、彼は戦いの中で矢を何本か撃たれて負傷しました。医師たちはすぐに処置をしたがりましたが、ナポレオンはそれを拒み、自分はまず瞑想をすると言いました。ナポレオンは医師たちに、夕刻に自分が瞑想している間、麻酔なしで刺さっている矢を抜くようにと言いました。ナポレオンは自分のマインドを完全に制していたので、マインドを超越することができたのです。
体にとっての主人はマインドであり、マインドにとっての主人は知性であり、知性にとっての主人はアートマです。ですから、人生の主人はアートマです。もし知性を神と融合させれば、五感はすべて支配下に置かれるでしょう。マハートマ・ガンディーは、すべての人が良い知性を持つことができますように――「サブ コー サンマティ デー バガヴァン」と祈りました。清められた知性にはアートマの光が映り、本当の英知を授けてくれます。知性が神で満たされると、人は自然と正しい道を歩むようになり、平安と至福を味わいます。もしマインドが五感に従うなら、人は身を滅ぼします。
主人に従い
悪魔に立ち向かい
最後まで戦い
ゲームを終わらせなさい
誰が「主人」ですか? あなたの良心が主人です。ですから、良心に従いなさい。「悪魔に立ち向かう」とは、悪い仲間、悪い思考、悪い行いを避けることを意味します。「最後まで戦う」とは、無法者の五感を支配下に置くために働くことを意味します。このように言いなさい。「おお、悪い五感たちよ、そっちには行かず、ひたすら神を目指して行きなさい。目は神だけを見て、耳は神の栄光といったものだけを聞きなさい」
悪を見ず、善いものを見る
悪を聞かず、善いことを聞く
悪を考えず、善いことを考える
悪を語らず、善いことを話す
悪をせず、善いことをする
これぞ神への道
「good」(善)という言葉にはゼロ(0)が二つ含まれています。一つのゼロは世界のことです。もしこの一つのゼロ(世界)を取り除けば、神だけが残るでしょう。ですから、神に融合するためには、善を見て、善を行い、善でありなさい。あなたのすべての行いを神に向けなさい。キリスト教では、「すべての人は一つ、誰に対しても等しくありなさい」と言われています。
もしあなたが、自分の体は自分のものだと断言するのであれば、どうしてあなたは体を制御することができないのでしょうか? それができないなら、あなたの体はあなたのものではないということになります。 同じようにあなたの制御下にないあなたのマインドを、どうやって神に捧げることができますか? 体が麻痺すると自分の体を動かすことができないのはどうしてでしょう? もしあなたの体が完全にあなたの制御下にあるならば、当然、あなたは体を動かすことができるはずです。ハンカチを例にとりましょう。ハンカチをしっかりとつかんでいるとき、ハンカチはあなたの手にあります。ハンカチを手から離して下に落とすと、ハンカチはあなたの制御下にないということになります。
ブッディ(霊妙な知性)には識別力がそなわっています。識別には二つのタイプがあります。個人的なものと根源的なものです。根源的な識別には、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ」(すべての世界が幸せでありますように)という祈りの中で示されているような、普遍的は特質があります。個人的な識別は、もっぱら個人に傾いており、「自分の体、自分の友人、自分の身内、などといったことだけを考えます。個人的な識別はとても限定的で、狭量で、自分本位であり、真理(真実)でないものを象徴しているのに対して、根源的な識別は真理に基づいています。知性は、神すなわち一なるものに到達するために、すべての人に対して善意の気持ちを抱く、根源的な識別の道に従うべきです。
人の個々のアートマと呼ばれるものは、他のどの人のアートマとも同一です。この部屋にはたくさんの蛍光灯がありますが、そのすべてを通っている電流はただ一つです。私たちの体はどれも、電球にたとえられます。それぞれの体すなわち電球の容量はさまざまですが、そのすべての中に存在する神霊すなわちアートマはただ一つです。「エーカ プラブ エーカ ナーム」とは、一つの神が存在しているのみであり、それゆえ一なる神性が万人の中に存在している、ということを意味しています。
いつも惜しみなく施すべきです。バーラタの文化は、与えることと犠牲を教えています。私たちはいつも、自分はどれくらい、そして、どのように与えるべきかを識別しなければいけません。通りでお金を求めて手を伸ばす物乞いを見かけたら、識別を働かせなさい。その人には着る物か食べ物を与えなさい。お金を与えてはいけません。なぜなら、その人は悪いお金の使い方をしてお酒を買い、喧嘩をすることになるかもしれないからです。あなたのお金は無駄になり、和は崩され、問題を引き起こすことになるでしょう。「職を見つけるようにしなさい、人の体は働くために与えられているのですよ」と、貧しい人を励ましなさい。けれども、もし障がいのある人を見かけて、あなたがその人にお金を与えることでその人の助けになるようであるならば、結果として傷つけることにならないということが十分に分かった上で、与えるようにしなさい。常に助け、決して傷つけず、あらゆる側面において注意深く識別しなさい。
霊性を志す者は、あちこち動き回らずにしっかりと腰を据えて、静かな場所で、一人で至福を体験することに集中すべきです。アートマとの一体感を通じて生じる至福は、あなたの人生を救ってくれるでしょう。ここにあるハンカチは数え切れないほどの糸でできています。織られた何本もの糸が一つになって、布に強度をもたらしています。それと同じように、体とマインドと知性と五感が一つになると、力と強さがもたらされるでしょう。
スワダルマ〔自己のダルマ〕こそが本当のダルマです。ダルマというものは、宗教や信仰と結び付いているのではありません。「スワ」とは自己すなわちアートマという意味です。「ダルマ」は良心すなわち照覧者を意味します。「サット」と「チット」は、永遠なるもの、すなわち、絶対的な実在と意識を意味するのであって、半端な知識を意味するのではありません。実在すなわち「サット」は、いつでも甘い、純粋な砂糖に例えられます。「チット」は、変化し続ける(動き続ける、流れ続ける)純粋な水に例えられます。この二つを混ぜるとシロップができますが、それは至福すなわち「アーナンダ」に例えられます。これは物質世界で見つかる至福ではありません。物質世界があなたに与えることができるのは、至福ではなく永続しない幸福のみです。
この世で見いだすことのできる知識には5種類あります。1つめは本で得る知識、2つめは表面的な知識、3つめは一般的な知識、4つめは違いを見分ける知識、5つめは実際的な知識です。この世の幸せはサントーシャと呼ばれるもので、これはいくらかの幸せを意味します。たとえば、あなたはお腹がすいてチャパティを2枚食べましたが、その2時間後にはまたお腹がすいてしまいます。このように、食べることで得る幸せは一時的なものにすぎません。それは頭によるものであって、頭は至福の源泉ではありません。アーナンダ(至福)はハートからのみ生じるものであり、それは永続します。人生の最高のゴールはハートから幸せを引き出すことにあります。ハートを表す語〔サンスクリット語〕はフルダヤ〔フリダヤ〕ですが、それはハート(フル)+慈悲(ダヤ)を意味しています。
「mankind」(人類)の真の研究対象は「man」(人間)です。「kindness」(親切心、優しさ)は「man」(人間)のハートから成長して、満開になるべきです。神には引き付ける性質があり、何であれ善いものを自分に引き付けます。黄金には価値があり、人を引き付けますが、真鍮(しんちゅう)は人を引き付けません。鉄だけが磁石を引き付けるのは、鉄と磁石の関係によるものです。磁石はパラマートマ(至高の神霊)に例えられ、鉄は個々の神霊〔ジーヴァートマ〕に例えられます。二つが引き付け合うのは、個々の神霊と神は一つだからです。神は一つです。私たちは自分自身の神の性質を理解すべきです。時たま、磁石が鉄を引き付けないようなことがありますが、無知な人は、それは磁石に力がなくなったのだと言うかもしれません。しかし、磁石が鉄を引き付けなくなったのは、鉄に汚れやほこりがこびり付いてしまったせいです。それと同じように、悪い仲間、悪い話、悪い行いは、ほこりのようなもので、さびの原因となり、恩寵を引き付けなくします。
神はテストを与え、罰も与えます。私たちは一連のテストを歓迎し、合格しなければいけません。というのも、それらは昇級のための道具だからです。試験に合格するには、テストの準備をしなければいけません。今では、一年生から十年生に上がるまで進級テストはありません。残念なことに、今、人々は怠け心のためにどんなテストも受けたくないのです。たとえ事務員の職でも、応募したいと思ったら、面接を受けなければなりません。不屈の精神で、人生におけるあらゆるテストに立ち向かうべきです。
人生は挑戦、挑みなさい
人生はゲーム、プレイしなさい
人生は夢、それに気づきなさい
人生は愛、楽しみなさい
私たちは、この人生を得られてラッキーです。人間として生まれるのは、とても神聖なことなのです。ハートを浄化し、怒りを根絶させたのちに、人生を神聖な方法で活用しなさい。 怒りのコントロールの欠如は、識別力を壊滅させ、人を悪事へと追いやります。怒りは動物の性質であって、人間の性質ではありません。怒りが出てきたら、静かな場所に行って「私は犬ではない、私は人間だ」と繰り返しなさい。ろうばいしたら、「私は人間だ、私は猿ではない」と10回繰り返しなさい。多くの人がごまかしをしますが、そんなときには、「私は詐欺師ではない、私はジャッカルではない、私は人間だ」と繰り返しなさい。ここに来る外国人は皆、善良な帰依者ですが、いくつか欠点があります。彼らは、不必要なものに多くのお金を使っています。人付き合いをしすぎています。家から家へと訪問しすぎています。
体は家に例えられ、五感は窓に例えられます。口は正面玄関です。そこをきれいに、神聖に保ちなさい。動物の性質を追い出して、家の中に入ってくることを許してはなりません。五感の快楽を追い求めている人々には従わず、神に従いなさい。残念なことに、人々は悪い性質を歓迎し、神の命じていることに従いません。ラーマの御名を唱えるときには、口を開いて「ラー」と言って悪い性質を追い出し、それから、入ってきた神が永遠に中に留まるように「ム」と言う〔口を閉じる〕ようにしなさい。なぜ、他人の末来は語るけれども自分の末来は語ることのできない街角の手相見のところに行くのですか? 帰依者は常識を働かせなければいけません。信愛とは何ですか? それは清らかな愛です。神への信愛は清らかな愛から発達していきます。夫と妻の間の愛は執着です。霊的な愛は生じては育つのに対して、世俗の愛は生じては去っていきます。ですから、最期まで神の命じることに従いなさい。
昔、マドゥカールという名前の年若い牛飼いの少年がいました。少年はある日、川岸で牛たちに草を食べさせていたときに、一人のブラフミンがプラーナーヤーマ〔呼吸法〕をしながら「オーム ナーラーヤナーヤ ナマハ」〔ナーラーヤナ神に帰命いたします〕と繰り返し唱えているのを見かけました。それはマインドを制するためでした。しばらくしてから、牛飼いの少年はそのブラフミンのところに行って、何をしていたのですかと問いました。ブラフミンはこう説明しました。「ソーハム」と唱えるときには、「私は神である」と宣言しているのだ。息を吸うときに「ソー」(神)、息を吐くときに「ハム」と言う。これはマインドを制するために行うのだ、と。少年は神を体験したかったので、ブラフミンの言ったことを完全に信じて、早速その教えを実行しました。少年は牛を一方に行かせて腰を下ろし、プラーナーヤーマを始めました。少年は「神さまは、本当はどんな格好をしているんだろう?シヴァ神は牛に乗っていて、ヴィシュヌ神は鷲に乗っているのを絵で見たことがある」と思いを巡らしました。
少年はブラフミンの言葉を完全に信じていたので、「ソーハム」マントラを繰り返しはじめました。少年は、神を得るためには自分の体も捨て去るつもりでした。確固たる信心があるところには、成功があります。神だけに心を寄せるべきです。少年にはその姿勢があったので、ナーラーヤナ神が姿を現しました。少年は「あなたはどなたですか?」と問いました。ナーラーヤナ神は「私はヴィシュヌである」と答えました。少年は「私はあなたを見たことがないので確信ができません。ブラフミンに頼んでここに来てもらって、あなたが誰かを特定してもらいます」
少年はたいそう純真無垢でした。少年はヴィシュヌが逃げ出してしまうのではないかと恐れてヴィシュヌに縄をかけ、それからブラフミンのところに行きました。ヴィシュヌ神は少年の信愛をとても喜びました。しかし、ブラフミンは少年の話を信用できず、どうしてヴィシュヌ神がただの少年の目の前に現れることなどあろうかと疑念を持ちました。ブラフミンの信心は表面的なものであったのに対し、少年の信心は心からのものでした。二人でヴィシュヌ神が縛られている場所に行くと、少年はブラフミンに、「見てください、ここにおられます」と叫びました。不幸なことに、ヴィシュヌ神は少年にしか見えず、ブラフミンには見えませんでした。少年はヴィシュヌ神に、「どうして彼には主が見えないのですか?」と問いました。ブラフミンに見えないのは、彼のマインドが汚れていてハートが清らかでないせいだと、主は答えました。すると少年は、「せめて私に免じて、ブラフミンにも見えるようにしてください」と、主に頼みました。少年の私心のない態度を喜んで、主はブラフミンに対しても姿を現しました。この話は、神への道を示すというグルの役割と、信心と信愛を深めるための帰依者の努力を示しています。
バーラタ文化の神聖な金言に、
マートゥル デーヴォー バヴァ 母は神
ピトゥル デーヴォー バヴァ 父は神
アーチャールヤ デーヴォー バヴァ グルは神
というものがあります。私たちにとって、母親と父親と師すなわち先生は、体をとった神の姿です。私たちは、自分は両親から来たと言いますが、それは正しくありません。私たちは両親を通じて神から来たというのが正しいのです。神を得たなら、それ以上、何が必要ですか? すべての行いを神のためにすることで、神を喜ばせなさい。マインドと体と五感と知性を神に捧げなさい。もしあなたに信心があれば、神はあなたの前に現れるでしょう。
あなたがどこに行こうとも、神の御名を唱えて祈りなさい。仕事は礼拝であり、義務は神です。神はすべての生き物の中に、サット(実在)・チット(意識)・アーナンダ(至福)として存在しています。あなた方は、座って「サイ ラーム、サイ ラーム、サイ ラーム」と言いますが、心はドービー(洗濯屋)の家へとさまよい、「彼は今日、自分のシャツを持ってきてくれるだろうか」といぶかしんでいます。心を野放しにして行うジャパや瞑想は、時間の無駄です。真理と善と美という神の三つの特性はどれも、人のハートの中に存在しています。ハートから心底祈りなさい。思いやりと愛の両方を持ちなさい。もし愛をもって祈っても、思いやりを持っていなければ、その祈りは役に立ちません。コーヒーをいれるには、コーヒーの粉とお湯の両方がなければなりません。穏やかに話し、絶えず神のことを考え、悪い仲間と他のあらゆる妨害物を避けなさい、
(スワミは「ハリ バジャナ ビナー スカ シャーンティ ナヒー」〔神への讃歌なくして幸福と平安はない〕のバジャンで御講話を終えられました)
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Discourses in Kodaikanal April 1996” Ch1