日付:1996年4月7日
場所:コダイカナル
コダイカナル連続講話より
神の愛の化身たちよ、
あるとき、ナポレオンは兵士たちに、「清らかであれ、そうすれば他のすべてはついてくる」と説きました。彼が意味していたのは、清らかな感情と行いは清らかなハートをもたらすということです。全世界は神が作ったドラマであり、そこでは誰もが俳優で、神が監督です。監督である神が俳優たちを創り、すべてのシーンを企画するのです。何が起ころうとも、それはハートから花開いた、神の行いの現れです。どの人間も人の本質である愛を伴った神の火花であり、すべての人間と動物のゴールはその神性を悟って顕現させることです。宇宙規模のこの生命のドラマにおいて、私たちは皆、愛を表現するために行為をしているのです。変容の最終目的は、愛の化身になることです。その愛に先立つものは情報であり、生涯を通して集める情報(知識)は、最終的にその人に霊的な変容を遂げさせます。どの人も愛から創られているというのに、人間の責務であり、ふさわしい役割である、愛するということが忘れられているのは、なんと残念なことでしょう。このドラマの中で、誰もが自分の役を上手く演じるべきです。というのも、そうしないなら、その人は自分の評判と敬意を失ってしまうからです。誰もが神の火花なのですから、誰もが神の愛(プレーマ)の性質を表現すべきです。
あるチンナ・カター、小話があります。昔、愛情深い男が川で泳いでいました。豪雨があったため、川は激しく荒れ狂って流れていました。ふと、サソリが水に浮かんでいるのが男の目に入りました。男は気が優しかったので、サソリをすくい上げて自分の手のひらに載せました。咬むのはサソリの性分ですから、サソリはその男を咬み、男はあわててサソリを川に戻しました。しかし、男はサソリが溺れそうになっているのを見かねて、再びサソリをすくい上げ、また咬まれてしまいました。牛飼いの少年がやって来て、「咬むのはサソリの性分なのに、どうしてサソリを助けようとするのですか?」と問いました。その優しい男はこう答えました。「咬むのはサソリの性分かもしれないが、私は人間であり、私の性分は愛することだ。どうして私は自分の性分を無視することができようか?」
決して自分の性分は変えずに、愛から行動するよう計らいなさい。決して愛を貪欲や怒りに転換させてはなりません。全世界は愛を必要としています。あるとき、ゴーピカー〔牧女〕たちが主クリシュナにこう祈りました。
この乾燥した干からびた土地で愛の若芽を育てるために、
愛の雨を送って、愛の川を流してください
そうすれば、私たちは愛という収穫を得ることができます
人の一生は愛で満ちているべきです。人生の本当の意味は、愛です。愛は人生に不可欠です。マインドは愛で満ちているべきであり、ハートは思いやりで満ちているべきです。
人としての真の人生には、真実と愛がなければいけません。今、人は快楽のために愛を投げ捨てています。なぜなら、愛の本質を理解していないからです。この世の生活は、一過性の、つかの間のもの、はかないものです。先ほど女性たちが「I am God」(私は神です)と歌いました。すべてのものは神の姿であり、神は無数の姿を持っています。この真理に心をとどめる決意があれば、愛は自然と流れ出てきます。
人は、生まれてから死ぬまで至福を探し求めています。少年は、高校の進級試験に合格して上の学年に進級すると喜びます。しかし、その幸せはいつまで続くでしょう? しばらくすると、彼は大学で優を取りたいと思います。次は、大学院生になりたいと思います。それがかなうと幸せを感じますが、それはどのくらい持続するでしょう? 次は職を得たがり、その次は奥さんを欲しがります。それらを得ると幸せを感じますが、それはどのくらい持続するでしょう? 次は息子を欲しがり、その次には娘を欲しがります。彼は幸福を求めてもがき続け、隠居するまで次から次へと対象物を欲しがります。次に、彼は平安を欲します。このように、幸せは生まれては消えていきます。幸せは永遠に続くものではありません。この世の幸福はアートマの霊的な幸福と同じではありません。
真実(真理、サティヤ)とは何でしょう? 無私の愛を表現するとき、真実は明らかです。真実に生きる人生は至福です。人生は愛に満ちたものであるべきです。愛のないハートは有毒です。あなたは笑顔を浮かべて「こんにちは」と言うかもしれませんが、もしそれがハートから出たものではなく口先だけのものならば、それは本物ではないもの、すなわち真実のものではありません。今、世間はそうした表向きの態度をとり、誰もが嘘偽りばかりに引き付けられています。たとえば、あなたがハンカチを落とし、誰かがそれを拾ってあなたに渡すと、あなたは「ありがとう」と言いますが、それはしばしばうわべだけの「ありがとう」です。清らかな無私の愛だけが神の愛であり、他の愛はうわべだけのものです。
困ったときだけ神に祈り、困ったことがないと神を忘れている人々がいます。感謝の気持ちを持って人生を送り、何かお返しをしていくことが、人生ドラマという、神が監督であり、愛が神の本質である中での正しい役割です。この神のドラマは、一つの表現であるだけでなく、愛と真実を広めるものでもあります。私たちが現実だと思っているこの人生はすべて、一つの夢であるのみであり、人が体験して味わう喜びはすべて、真実ではありません。
昔、妻子を養いきれなくなった貧しい男がいました。そのため、男は出稼ぎに行きました。その間に息子は死んでしまい、男はそのことを知りませんでした。ある夜、男は夢を見ました。夢の中で、男は大金持ちで、5人の元気な息子と大きな屋敷に住み、住み込みの使用人たちがいて、あらゆる快適さを有していました。夢から覚めると、自分の屋敷も5人の息子も見当たりませんでした。男は妻のところへ行き、一人息子を失ったことを知らされました。その時、男は考えました。「私は、自分が今苦痛に感じているこの貧しさと一人息子を失くしたことを嘆けばいいのか、それとも、5人の息子と富を失くしたことを嘆けばいいのか? どちらが真実なのか?」
どちらも真実ではありません。「私」が真実です。「私」は、起きている状態では問題を抱えていて、夢を見ている状態では問題がありませんでしたが、どちらも偽りです。真実とは神であり、「私」は神です。過去は過ぎ去ったことであり、決して取り戻すことはできず、末来は不確かです。今は現在(present)ですが、現在は単なる現在ではありません。現在は遍在(omnipresent)です。起きている状態も夢を見ている状態も、どちらもマインドの中に存在しています。マインドに従ってはなりません。なぜなら、マインドは狂った猿のようなものだからです。肉体に従ってはなりません。なぜなら、肉体は水の泡のようなものであり、いつ破れるか分からないものだからです。本当は、あなたは究極の至福、不二、永遠、清浄、無垢、照覧者、理解を超えたもの、属性のないものの姿です。サイは究極の導師です。神は永遠の照覧者です。ところが、今、そうした神性は忘れられ、人々はいつしか消え去るものを求めて、もがいています。
神の近くにいるのは誰でしょう? それは、神の命じることに従い、神の属性を表す人です。そのための秘訣は、神を完全に信じていることです。そうであれば、その人は真の人間です。人間を意味する単語に「マナチ」(manaci)という単語があります。人間は愛の化身です。「マナチ」を逆さにすると「チナマ」(cinama)になります。現代人はチナマな人間です。表面的で、思いやりに欠けている、ということです。一方、もし神の命じることに従うなら、それ以外のことはすべてついてくるでしょう。あなたは純金(神)を持っていて、それでどんな種類のジュエリーをこしらえること(神の恩寵を受け取ること)もできるというのに、あなたは「私は至福と恩寵と愛が欲しいです」と祈っています。これはまったく無知な発言です。正しいゴールは、「神様、私はあなたが欲しいのです」という祈りにあります。神がいなければ、すべては無です。この世の物質はすべて、実際には無です。この真実に耳を傾け、この真実を体験することが、本当の幸せであり、愛なのです。
一日を愛で始め
一日を愛で過ごし
一日を愛で終える
これが神への道
しかし、それとは反対に、人々は一日を悲しみで始め、悲しみで終えて、泣いています。ナポレオンは、「清らかであれ、そうすれば他のすべてはついてくる」と言いました。ナポレオンは自分のマインドをしっかりと制していました。マインドを制している人は、仕事を礼拝へと変えることができます。すべての行いを、それが奉仕であれ自分の職務であれ、神を喜ばせるために行いなさい。
人はどうやって神を体験するのでしょう? 働いているのは自分だと言うのは間違いです。たとえば、家を建てる計画を練るとき、そのアイデアはまずハート(神)から出てきます。ハートから出てくるものはすべて、神から授かったものです。行為者はあなたではなく、神が行為者です。お腹がすくと、あなたは自分のために空腹を満たします。あなたが子供を愛しているとき、あなたは自分の満足のために子供にキスをします。このように、すべての行為は自分を満足させるために行われます。この真実は認識されていません。行いはすべて、神すなわちアートマ〔本当の自分〕のためだけに行いなさい。マインドや、自動力のないものである肉体を満足させるために行ってはなりません。
医者は手術をするときメスを使いますが、手術をしたのはメスでしょうか? いいえ、違います! 医者がメスを道具として使って手術をしたのです。それと同じように、あなたは主人(アートマ)なのですから、肉体とマインドと知性というあなたの道具を適切に使いなさい。
神が計画したこのドラマの一役を演じることができるのは幸運なことです。この劇で演じることは、誰にでもできるものではありません。この劇では、神があらゆる役を割り振っています。そこには選抜があります。今、この世の生活には選抜はなく、あるのは選挙だけです。選挙では何が起こりますか? 候補者は神が選んだ人ではなく、候補者は票を得るために紙幣(お金)を配らなければなりません。選抜においては、神はあなたの中に良心として存在しています。もし神によって選抜されたのであれば、その人たちには神に耳を傾けるというこの上ない特権があります。
愛が最も大切です。愛を超えるものはありません。すべては愛です。ですから、愛に生きなさい。幸せでいなさい。神に奉仕し、神を礼拝しなさい。そうすれば、あなたは永遠の至福を得るでしょう。誰も苦虫を噛みつぶしたような顔をしてはいけません。笑顔でいなさい。なぜなら、ババは笑顔を見るのが好きだからです。笑った顔には二種類あります。一つは笑顔で、もう一つは映画で見るような大笑いです。大笑いをすべきではありません。神の言語は沈黙です。
ハートが清らかな、確固たる信愛を持つ人でありなさい。ハートが愛でいっぱいなとき、そこには甘さがあります。女性たちは、「主よ、あなたの愛は日ごとに甘くなります」と歌いました。その甘さは、神以外のどこにも見つけることはできないということを認識すべきです。聖典やその他のものから学んだことは、すべて実行に移しなさい。それをしないなら学びは無駄です。あらゆる行いは肉体を通じて行われるのですから、あなたを通じて愛が発せられるようにしなさい。水の入ったコップにおいて、コップは容器にすぎません。しかし、コップがなければ水を入れることはできません。それと同じように、肉体は神の愛がいっぱい入ったコップのようなものです。
ジャヤデーヴァは祈りました。「おお、舌よ、味を知り、神と話すことを知る者こそが、価値のあるもの。おお舌よ、誰もおまえほどの忍耐力は持っていない。おまえはどれほど慎重に、そして平安に、敵たち(32の鋭い歯)の間を動き回っていることか。甘味と苦味の両方を知り、甘いものだけを食べ、苦いものは吐き出しなさい」
舌は、良いものと悪いもの、何を入れて何を入れないかを識別する、神聖な性質を備えています。舌は誰とも関わりを持たず、誰のところも訪れません。舌はずっと口の中にいます。人々の中には、ネズミや猫のように家から家へと行き来する人たちがいます。舌は、人を責めたり、嘘をつくのに時を費やしたりしてはなりません。舌の上では神の御名だけが踊っているようにさせなさい。舌はナルタキ、つまり踊り子です。ナルタキとは何を意味しているのでしょう? ナルタキは、マーヤーすなわち迷妄の「乗り物」です。ナルタキはずっと踊り続けます。どうすればナルタキを制することができるでしょう? 「ナルタキ」を逆さにして覆し、「キルタナ」〔キールタン、歌〕にすることによってです。愛をもって絶えず神の栄光を歌うことが、迷妄を覆す唯一の方法です。力(force)によってではなく、源(source)によって、です。これは、すこぶる良い評判を得るために、人がドラマの中で演じるべき役割です。
神の愛に値するようでありなさい。神に認められていないとき、あなたは安価です。神の愛は母なる女神の愛と同じようにとても大きいので、あなたの模範的な行動によって、そして、神の命じることに従うことによって、あなたは神によって神自身を示されるでしょう。神は帰依者を創り、帰依者も絶えざる憶念によって神を創ります。帰依者は、神がいなければ価値はなく、帰依者がいなければ神はいません。神と帰依者の一体性は人間性を高め、神と帰依者は一つであり同じであるということを証明します。この神聖な真実は、今、神聖でないものにされてしまっています。
生まれたとき、人は「コーハム? コーハム?〔オギャー、オギャー〕」(私は誰なの?)と言って泣きます。死ぬときには、「ソーハム」(私は彼〔神〕である)という答えを持っているべきです。試験では、正しい答えを書けば良い結果を得ます。よく学び、進級試験に合格し、学位を得なさい。そうすれば、神は、「あなたは私のものだ」と断言するでしょう。神がそう言うなら、それは大いなる幸運です。この幸運を守るには、絶えず神を思い、愛をもって神の御名を唱えることです。
(スワミは「プレーマ ムディタ マナセー カホー ラーマ ラーマ ラーマ」〔愛と喜びに満ちた心でラーマ、ラーマ、ラーマと御名を唱えよう〕のバジャンで御講話を終えられました)
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Discourses in Kodaikanal April 1996” Ch2