日付:1996年4月9日
場所:コダイカナル
コダイカナル連続講話より
神の愛の化身たちよ、
私たちは、あらゆる富の形態を、もっぱら自分の言葉を介して得ています。私たちは、自分の言葉を介して、友情や人間関係を深めたり、知識を得たりしています。悪いことも自分の言葉のせいで起こります。私たちの言葉は、神聖なもの、ヴェーダに則ったものであるべきです。霊性の本質は、どの聖典の言葉を読むことでも知ることができます。人は適切に語るためにあらゆる努力をすべきです。スワミはいつも、「いつも親切にすることはできないが、親切に話すことはできる」と言っています。
創造物は創造主の顕れですから、自然は神のあらゆる属性を有しています。どの人も自然の中の神性を映すために生まれてきました。プラクリティ(自然、原質)とは何でしょう? それは単なる物質的な快適さの形態ではなく、神の富の形態でもあります。
ストリーとは女性のことですが、それは身体的な意味に限りません。「ストリー」という言葉は、「スト」と「リ」と「イー」という三つの音に分けられます。「スト」はサットウィック〔浄性〕を、「リ」はラジャスィック〔激性〕を、「イー」はタマスィック〔鈍性〕を表しています。どの人もどの生き物も、この世に生まれてくるものはすべて女性であり、この三つの性質(浄性・激性・鈍性)を有しています。人は、神と融合することができるよう、神性と神聖な感情と信心が含まれているサットワという性質を有しているべきです。ここでのタマスィック〔鈍性〕は、鈍さを表すものではなく、従順、謙虚さ、道徳心、誠実さを表すものです。ここでのラジャスィック〔激性〕は、激情や怒り、横柄あるいは自己顕示を表すものではなく、堪忍寛容、辛抱強さ、慈悲の心を表すものです。
誰がマーナヴァ、人間でしょう? 人間とは中心に神聖な感情を持っている人です。人間性は、神聖な思考と言葉と行動が完全に調和しているものです。だからこそ、人間にふさわしい研究対象は人間である、と言われているのです。自然という物質界は清らかさを持ちあわせており、人は自然の中の清らかさから学ぶことができます。霊性は、苦行や儀式や瞑想などだけから成っているのではありません。これらの側面は、もっぱら、ハートを清らかにするため、人がはかない世の中を遠ざけることができるようにするために、行うのです。真の霊性は、神を思うことだけでなく、神聖でないあらゆる行いから離れていることでもあるのです。霊性は永遠の真理を体現するものです。
自然は最良の教師です。自然を学ぶことで、人は何がつかの間で何が永続するものかを知ることができます。自然の中の神聖さは神性です。あなたは、自分には神が見えないとか、神を体験していないなどと言います。なんという愚かさでしょう! あなたは神です。自然の中のすべてが神の姿です。装飾品の金はどれも同一であるのと同じように、自然の中の一切は神なのです。
どの人も、女性の属性である、サットウィック、ラジャスィック、タマスィックを有しています。この世の物質的な観点においては、誰もが男か女です。誕生や死、飢えや渇きは万人に共通です。喜びと苦しみは男女双方に共通です。男女双方における唯一性の原理は一つです。等しいことは神性です。女性は女性的な性質があるがゆえに弱いものだと、人は言います。女性は弱い、付属品だ、ただ台所で働くためにいる、などと言うのは間違っています。誰もが弱いのです。「弱い」を意味する語〔サンスクリット語〕は「アバラ」〔ア=~でない、バラ=強い〕です。弱さを持っていない唯一の男がいますが、それは神です。
神の持つ女性の側面が「プラクリティ」すなわち自然であり、それは物質でできています。神性はエネルギーです。プラクリティが神性を有していないというのは不可能なことであり、両者は相互に依存しています。ですから私たちは、どんなものでも、それを悪いものだと考えるべきではありません。なぜなら、すべてのものは神であり、神聖さに満ちているからです。私たちに創造物を変えることはできません。私たちは自分のものの見方を変えなければいけません。サーダナとは人の見る目を神聖にすることを意味します。バガヴァッド・ギーターは、女性は男性よりも高次の力を持っている、女性には多くの称号もある、と述べています。古代バーラタ〔インド〕では、女性はより高次の、より高貴な性質を示していました。家庭では、その家の威信は完全に女性が置いた基準しだいであったため、女性にはグリハラクシュミー〔家庭の富の女神〕という称号が与えられていました。古代のバーラタ人は、妻を注意して見よと言っていました。一家の評判は妻に左右されるからです。女性は家庭と社会に強さをもたらします。
すべてのものの土台は神性だということを認識し、誰もが自分に宿る神性を映し、心を広くすべきです。すべてのものが愛で満ちるよう、ハートは神聖な愛に満ちているべきです。「フルダヤ」〔フリダヤ〕はハートを意味する言葉です。この言葉を「フル」〔フリ〕と「ダヤ」に分けると、思いやりのあるハートという意味になります。しかしながら、今、思いやりはなく、ハートは悪い考え等々でいっぱいになっています。神を思うことでハートを浄化しなさい。
女性に関して使われる「アバラ」(強くない)は、女は弱いものだということを意味しているのではありません。例えば、古代の学生たちは先生を怖がっていましたが、今では逆で、教師が学生を怖がっています。学生から怖がられていた古代の教師は、学校から戻ると妻を怖がっていました。ですから、どうして男たちは女性を弱いなどと言えるでしょうか? 軍隊の教官を例にあげましょう。教官は大勢(10万人以上)の兵士を統括していますが、その彼でさえ、自分の妻を怖がっています。このように、(男も女も)誰もが弱いのです。弱さは、肉体に基づいたものはなく、決められるものでもありません。男と女、どちらも不滅なるものの子供なのです。
誰が真の男なのでしょうか? 神だけが唯一の男、プルシャです。これは世俗的な意味で言っているではありません。体はプラ〔城塞〕であり、人間の体の中に意識として宿っている神がプルシャです。ですから、人間の実体は意識なのです。その意識に基づいて、すべての人はプルシャです。ですから、真理〔真実〕は、いたるところに、まさしく同一性すなわち単一性として存続しているのです。万人は神性のみを表現すべきです。人は、プルシャとプラクリティを識別しながら自分の義務を果たし、体は別々でもプルシャは一つであるということを悟るべきです。スリッパは足に履きますが頭には載せませんし、メガネは目の上だけに掛けます。逆のことはしません。それと同じように、私たちは自然の一切の中に、神性という基盤と固有の有用性を見るべきなのです。
正しい知識に基づいた適切な手順に従う人が人間です。自分の義務を行うことがヨーガです。ヨーガは一体性と結合を意味するものであり、神性を悟るために実践されなければなりません。清らかさのあるところには一体性が追随し、一体性のあるところでは神性が悟られます。一体性は存在物の命を支える呼吸にほかなりません。一体性は愛の持つ強さです。布を例にあげましょう。布は、しっかりと織られていても、糸を(抜いて)ばらばらにしてしまえば、強度を失います。
国の幸福は家庭しだいです。人には三つの責任があります。一つ目は個人としての自分に対する責任、二つ目は家族に対する責任、三つ目は社会に対する責任です。個人が良ければ家庭は良くなり、家庭が良ければ社会は良くなります。社会が良ければ世界は良くなります。ですから、世界の幸福は個人しだいなのです。
ヴィヤクティ〔人間、目に見える顕れ〕とは何を意味するでしょう? 私たちは、体あるいは個人をヴィヤクティと呼びます。ヴィヤクティは、隠れた神聖さ、内なる神性を指しており、それは常に示さなければいけないものであり、そうして初めて、人は真の人間と呼ばれることができるのです。人の振る舞いは正しいものであるべきであり、主たる特性として善い行いを持ち合わせていなければいけません。神の目には、全人類は一つであり同じであって、何の違いもありません。カーストは一つだけ、人類というカーストだけです。父親も母親も、カーストや宗派も、基盤として一なるアートマを有していますが、地域や環境、見方や習慣に基づいた、異なる文化を持っています。私たちは自分の環境に準じた行いをしなければいけません。例えば、寒い山岳地帯を訪れるときには、温かさを保つためにウールのコートを着ていきますし、アーンドラ・プラデーシュ(南インド)のような地域では、涼しさを保つために木綿の服を着る必要があります。
創造世界はすべてが神性で満ちているということを誰もが認識すべきです。この部屋にはたくさんの蛍光灯と電球が設置されています。それぞれのワット数は違うかもしれませんが、中を流れる電気は同じです。
宗教は多くとも、ゴールは一つ
装飾品は多くとも、材料の純金は一つ
牛は多くとも、ミルクは一つ
花は多くとも、礼拝は一つ
神への道は多くとも、神は一つ
私たちは、理想の人生を送るために、いつも生活の中で識別心と規律を用いるべきです。というのも、これらがなければ道を踏み外してしまうからです。例えば、体温には規律があります。平熱は36.8度ほどですが、もし少し超えれば発熱、発病ということになります。平常の血圧は120/80ですが、上がれば病気につながります。人の一生と肉体は有限であり、限度内に留めておく必要があります。ローギ、病人ではなく、ヨーギ、求道者でありなさい。人生は犠牲の一つであり、犠牲を払わなければ人は病気になってしまいます。例えば、食べた食べ物は犠牲として差し出さなければいけません。そうしなければ、確実にお腹が痛くなるでしょう。吸った空気も犠牲として差し出さなければいけません。さもなければ、肺が壊れてしまうでしょう。血液も循環させなければいけません。一ヶ所に留めて流さないでいるべきではありません。日常生活で私たちの体が体験しているこうした犠牲は「ヤグニャ」〔供犠〕と呼ばれています。あなたが他の人のために犠牲を払うときには、それを受ける側がそれにふさわしいかを考慮すべきです。
高潔な魂であるためには、三つの規律を守るべきです。それは思考と言葉と行いの三つがコントロールされていて、調和があることです。常に舌をコントロールすることによって、適切な言葉を使い、話を減らし、その分もっと働かなければいけません。沈黙を保つことで、より多くのエネルギーと知力が得られ、記憶力も上がります。聖者は皆、沈黙を守っていました。彼らはしばしば、独り人里離れた所にいることでそれを実行していました。現代では、求道者たちは世間の中にいて、何でも見聞きしています。私たちは何を見聞きすべきなのでしょうか?
悪を見ず、善を見る
悪を聞かず、善を聞く
悪を話さず、善を話す
悪を為さず、善を為す
これが神への道
悪い思考を抱けば、私たちは悪くなります。常に社会で正しく振る舞いなさい。石炭を熱くするには、火のそばに置かなければなりません。そして、両者は接近する中で最終的に一つになります。石炭は完全に火に変じます。あなたも、神の近くにいるだけでなく、神にとっていとおしい者にならなければいけません。そうして初めて、あなたは自分が神だと確証するようになるのです。もしただ神の近くにいるだけなら、蓮の葉の上にいても蓮の花の蜜に気づかないカエルと同じです。一方、ミツバチは遠くからやって来て花の蜜を吸います。
バーラタの文化には、ナマスカール〔合掌〕というものがあります。手のひらを合わせて10本の指を付けるのは、5つの知覚器官と5つの行動器官は一なる神によって動かされ、一なる神に捧げられる、ということの象徴です。これは多様性の中の唯一性を象徴しています。
国は多いが、地球は一つ
生き物は多いが、体は一つ
星は多いが、空は一つ
昔、水は無料でした。しかし、牛乳に混ぜると、牛乳には金銭的価値があるということから、その水も有料になりました。それと同じように、決して悪い仲間に入ってはなりません。なぜなら、悪い仲間のせいで、あなたの善良さは薄まり、失われてしまうからです。「あなたの仲間を教えてくれれば、あなたがどんな人間か教えましょう」という言葉があります。悪い仲間と善い仲間を見分けるには、相手の行いを見ることです。霊性の求道者は、友情は持ちすぎず、人生における人付き合いは少なくすべきです。これらはきわめて危険なのです。なぜなら、その相手は、今日は友人でも明日には敵になっているかもしれないからです。ただ、「こんにちは」、「調子はどうですか?」、そして、「さようなら」だけ言うことです。人間関係を持ちすぎてはいけません。
多くの人は、外国からここ(コダイカナル)に来るために時間とお金を使っていながら、噂話をして時を過ごしています。そのようなことをしていると、神聖なエネルギーを失うのみならず、記憶も失われます。そうした不必要な話はすべて、人を神との近さや、神への親愛の情から遠ざけてしまいます。あなたは善良かもしれませんが、相手が善いか悪いかはあなたには分かりません。限られた量の食事をしていれば健康でいられるでしょうが、食べ過ぎれば具合が悪くなるでしょう。それと同じように、話を制限しなさい。必要なことだけを話しなさい。しゃべりすぎは悪い特性です。
サットサンガ、神と共に生きている人との親交だけを育みなさい。毎日、少なくとも10人に愛を分け与えなさい。「あなたと私は一つ」と言うのは間違っています! 「あなたと私は私たち」、そして、「私たちと私たちは一つ」と言うのが正しいのです。はっきりと識別して良心に従うとき、私たちは平安に満たされ、神聖になります。心が定まっておらず、あちこちさまよっているなら、瞑想もジャパも時間の無駄です。
神はあなたのお父さんであり、お母さんです。神はあなたの中に、あなたの上に、あなたの周りにいます。神はそれほど近くにいるというのに、どうして神を探しに森に行くのですか? あなたは自分自身を探していますか? 神はあなたのハートに住んでいる者です。あなたは神であり、別人ではないのです。あなたに名前が与えられたのはあなたに体があるからであって、あなたは体のためだけに存在しているのではないのです。あなたは自然のおかげだけで生まれてきたのではありません。自然は神であり、美の具現です。誰かに行う奉仕は、神への奉仕です。あなたが誰を尊敬しても、その敬意は神のところに行きます。あなたが誰かを批判すれば、それは神のところに行きます。ですから、常に助け、決して傷つけてはなりません。この心構えと行いは、あなたに至福を与えてくれます。これらの教えを守ることで得られる幸せよりも大きな幸せはありません。
(スワミは「ハリ バジャナ ビナ スカ シャーンティ ナヒ」を歌って御講話を終えられました)
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Discourses in Kodaikanal April 1996” Ch4