サティヤ サイババの御言葉

日付:1997年4月15日
場所:コダイカナル
コダイカナル連続講話より

救われるこの類いまれな機会を活用しなさい

神の愛の化身たちよ、

人は次の瞬間にこの世で何が起こるか分かりません。世界は過ぎ行く雲のように、そして、茎から落ちる花のように、常に変化しています。しかし、真理の状態は不変であり、遍在です。人生で経る変化はどのような類いのものでしょうか? 人生はどこに、どのように向かうべきなのでしょうか? 青年期は他の二つの時期の中間にすぎず、通りすぎていく段階です。それと同じように、財産も仕事も地位も変化します。お金は人間の諸性質を神聖でないものにしがちです。というのも、お金がたまるにつれて傲慢やエゴが増してくるからです。財産がないときには、エゴはあまりないものです。

夫と妻といったような人間関係は一時のものです。夫婦関係は人生の初めからあるものではなく、いつか二人ともこの世から消えてなくなります。二人をいっしょにしたのは時間と運命です。しかし、真理と愛は永遠であり、神聖です。真理は神です。愛は私たち全員の中に自らを表します。愛は神性の存在を証明しています。愛は神です。愛に生きなさい。神は創造の始まる前にも存在していました。神は創造のエネルギーでした。始まりには意識があったのみであり、全創造の原因は神です。その証拠は、聖典、ヴェーダにあります。バーラタの文化は、この神の英知を全世界に分かち合わなければいけません。バーラタという聖なる国では、神聖な美に堪忍寛容が付与されています。真理を貫くことはプレーマ(神聖な愛)の最高の形です。最も甘美な感情は母の感情です。この国の優れた特徴は、人格こそが重要であるというものです。不幸なことに、今、私たちは外国のまねをしています。象がネズミに従うかのごとく、インドは自分の強さと力を認識していません。バーラタの文化は霊的にきわめて強力であり、価値があります。ところが、現代の教育と文化のせいで、あらゆる聖なる価値が衰えつつあります。古代、バーラタ人は、創造神、維持神、破壊神を黙想することで一日を始めていました。家を建てること、結婚、その他の祭式や習慣を含むあらゆる物事において、バーラタ人はまず、神を思いました。私たちは今、根本的な基盤を忘れて、このはかない世界を永遠のものと見なしています。寝床から起きてから夜眠るまで、何事においても、まず神を思うべきです。しかし、不幸なことに、私たちは今、この世の喜びに溺れています。霊的な生活というのは、人里離れて一人でいることではありません。霊〔魂、アートマ〕は、全人類は一つであるということを体験し、その後に神性を体験することを意図しているのです。

カウラヴァ兄弟とパーンダヴァ兄弟の例をあげてみましょう。彼らは従兄弟ですが、二者の間には大きな違いがあります。パーンダヴァ兄弟は、神はすべてであると考えて、何をするにもダルマにかなった行いをし、何を話すにも真実を話しました。パーンダヴァ兄弟は神を第一に考え、世界はその次、自分たちは最後でした。彼らにとっては、何事においてもクリシュナが一番であり、何が起ころうとそれはクリシュナの計画であると信じていました。アルジュナは自分の頼みの綱であるクリシュナを強く信じていました。カウラヴァ兄弟はそれとは正反対で、まず自分たち、それから世界、神は最後でした。このように、パーンダヴァ兄弟は神を一番に据えていたために、勝利を得たのです。カウラヴァ兄弟のすべての行いと考えには真実がなく、彼らには先見の明がありませんでした。

今、霊性はおかしなものとされています。信者たちは額にヴィブーティ(聖灰)を塗るのを恐れています。神なくして、この世はどこから出現したというのでしょうか? 神と創造世界には原因と結果という関係があります。人の体は正しい行いをするために贈られたものなのですから、どの人も正しい行いをしなければいけません。鉄の機械は使わないとさびついてしまうのと同じように、人間は働かないと鈍くなります。社会に奉仕をする決意をしなさい。あなたの幸福は社会の幸福しだいです。人生は行為の道を通して救済されるべきです。サイは礼拝と英知を唱道してきました。あなたが自分の愛する仕事を得ることができなかったとしても、自分が得た仕事を愛するようにしなさい。

SAIという言葉の「S」はService(奉仕)、「A」はAdoration(崇拝)、「I」はillumination(照明)を指しています。誰もがこの三つの状態に至らなければなりません。どの人も行為に従事すべきです。今日では、何もしないで食べていければラッキーだと考えられていますが、実際には、これは最も不幸なことです。生まれることは行為です。すべての物事は行為です。人々は行為とは仕事のことだと考えていますが、これは真実ではありません。見ることも、息を吸うことも、行為です。人間は行為が原因で生まれ、行為をして成長し、行為をして別の人生をもたらします。自分の行為が自分の喜びや苦しみの原因であるのに、不幸なことに現代人はそのことを理解せず、自分の義務をきちんと行っていません。幸せや至福は行為に由来します。古来、バーラタ人は社会への奉仕をとても重視していました。人間の体は奉仕するためにこそ与えられているのです。人は自分の行動から反応、反響、反射を得るのですから、奉仕をするのは自分のためになるのです。もしあなたが水の表面に浮いている油のような生活を送るなら、それは死人の生活です。神を思うことはきわめて重要であるというのは、神は創造世界の第一の原因であるからです。全宇宙は神の贈り物です。すべては神です。万物は神です。私たちは神を強く信じるべきなのに、人は信心を失ってしまいました。人は自分の望みがかなうと神を褒め称え、望みがかなわないと神を非難します。人々は毒のある種を蒔き、甘い果物を得たいと願っています。神は照覧者です。神は自らが至福なので、至福を授けます。あなたは、反応、反響、反射の結果として自分のみじめな状態を作り出しています。神性は清らかで汚れのない状態を保っていますが、人は自分の弱さの表れとして、神を非難します。弱さゆえに、カウラヴァ兄弟は自分たちのみじめなありさまについて、クリシュナを非難し続けました。帰依者を幸せにするために、神は自ら苦を背負います。神にはすべての準備があり、人が思いもつかないような行いをします。人には神が私たちのために何をすることが可能なのか知ることはできません。

バーラタには大変多くの模範的人物がいます。クチェーラという名の、クリシュナの立派な帰依者は、非常に貧しく、狭いあばら家に住むだけで精一杯でした。たいへん苦しんでいたクチェーラのために、神自らが一家にふさわしい家をこしらえました。詩人カビールは、手織り職人でした。布を織っている間、彼はずっと「ラーム、ラーム、ラーム」と神の名前を唱えていました。神だけが唯一の支えだったことにより、カビールは貧困を克服しました。体験した帰依者だけが、全託すれば神の恩寵によって苦しみはなくなる、ということが分かるでしょう。真の帰依者は、困難に耐え、神にしがみつき、神に向かって進みます。神に到達しようとすると、確かにたくさんの障害がやって来ますが、それでも信念を持ってそれらに立ち向かうべきです。あなたの願いがかなうまで、あきらめてはなりません。退散するのは帰依者のしるしではありません。神の恩寵を得るために奮闘しなさい。大いなる決意と信心を持ちなさい。そうすれば、あなたの願いはかなうでしょう。信心はすべての物事の種です。信心はあなたに「Yes」とも「No」とも言わせます。ババは、「Yes」と言う人には「Yes」と言います。「No」と言う人には「No」と言います。サイにとっては、すべては「Yes」です。永遠であり、愛と真理である神を、決してあきらめはなりません。存在するのは一つの神だけですが、御名と御姿は異なります。花は多くとも、礼拝は一つです。神性を知るためには、信心を持つ必要があります。すべては神のものです。

ナーラダ仙は歌いました。

「クリシュナ、私たちはあなたを知ることができますか? あなたは最も小さなものよりも小さく、大宇宙よりも大きい。あなたは540万の人たちといっしょに宇宙中に存在しています。あなたは泥棒の中で一番の泥棒です。あなたは、チッタ チョーラ ヤショーダー ケー バール――ヤショーダーの子供、心を盗むお方です」

チッタ(ハート)は神聖です。神はどこにいますか? イーシュワラは「ヒマーチャラ」と呼ばれる場所で見つけることができます。「ヒマ」は、柔らかく白く明るい雪を意味します。「アーチャラ」は、不動、定まった、という意味です。同様に、神に到達するには、人のハートは清らかで不動である必要があります。ハートを清め、平安に、平静に保ちなさい。もし怒りでハートが熱かったら、どうやって神に到達することができますか? 悪い性質を手放しなさい。神はいつもあなたと共に、あなたの周りにいて、神に到達するのにふさわしい人が神に到達します。神がそれほど近くにいても、多くの人は神が与えたがっているものを受け取っていません。神が今、人間の姿をとって降臨していても、人々は彼を疑っています。なぜでしょう? それは、比べるからです。神の愛はどうでしょう? 神の愛は無限であり、それゆえ、神は青いのです。ラーマとクリシュナは青いお方と呼ばれていましたが、それは彼らの力と愛を理解することは不可能である、ということを示唆しています。青は空の色であり、空は無限です。海の青さは、海の深さを知るものは誰もいない、ということを示唆しています。海の水を手ですくってみても、その水は透明です。

あるとき、幼子クリシュナが泥を食べてしまいました。バララーマはそのことをヤショーダーに言いつけました。ヤショーダーは、ミルクもカード〔凝乳〕も家にあるのに、どうして泥を食べたのかとクリシュナに尋ねました。クリシュナは、「いいえ、僕は泥なんか食べていません。僕は、泥を食べるような、わからずやの子供ですか?」と答えました。ヤショーダーはクリシュナをひっぱたいて、口を開けなさいと言いました。クリシュナが口を開けると、口の中に14の世界が見えました。ヤショーダーは、「これは夢なの? これは神のご意志なの? これは本当なの? 私はヤショーダーなの、そうではないの?」と問いました。これらの思いが生じるやいなや、ヤショーダーはクリシュナを抱きしめました。神は降臨するとマーヤーをまといます。クリシュナは神であると知られていても、マーヤーがクリシュナを覆います。灰が火を覆うように、白内障が目を覆うように、苔が湖を覆うように、神は自らをマーヤーで覆うのです。白内障は目から生じたものであり、苔は水から生えたものであり、雲は太陽のゆえに生じます。神、すなわちブラフマンは、自分の衣服としてマーヤーすなわち幻影〔迷妄〕をまといます。マーヤーである体と共に、神は無限の力を示します。神はあなたに神性を体験させるでしょうから、あなたは神を完全に信じるべきです。聖仙たちがラーマをナーラーヤナと呼んでも、そして、ラーマはサットシャートカーラ・バガヴァン〔サットの権化〕であっても、ラーマはいつも、自分はダシャラタ王の息子であると言っていました。ラーマはいつもシーターに「私は神か?」と尋ねていました。シーターと二人だけのとき、ラーマはこう言っていました。「悪魔は殺されなければならないので、舞台の上に限定されるが、このドラマ全体を上演する必要があるのだよ」と。舞台の裏には何がありますか? これはヴァシシュタ仙やヴィシュワーミトラ仙といった聖仙たちだけに理解できることです。

聖仙たちはラーマの神性を知っていましたが、そのことを公にはしませんでした。もしシーターが誘拐されなかったら、ラーヴァナを殺すことはできなかったでしょう。アガスティヤ仙はラーマとシーターをパンチャヴァティーに住むようにと送り出しました。聖仙たちは清らかなハートと完全なる信心を持っていたので、主の計画が分かっていました。ヴィシュワーミトラ仙は犠牲の精神を持っていたので、ラーマをミティラーに連れていき、結婚式を執り行いました。これは主の計画の一部でした。神は感覚を超越しています。神性は意識ですが、人々は肉体的な見方で考えてしまいます。神性は、感覚を超越したときにのみ、理解することができます。

スワミは言います。

トワメーヴァ マーター チャ ピター トワメーヴァ
トワメーヴァ バンドゥシチャ サカー トワメーヴァ
トワメーヴァ ヴィッディヤー ドラヴィナム トワメーヴァ
トワメーヴァ サルヴァム ママ デーヴァデーヴァ

あなたは母、そして、あなたは父
あなたは友、そして、あなたは親族
あなたは英知、そして、あなたは富
あなたは私のすべて、〔私の神よ〕

なぜサイ ババは行為をすべきなのでしょう? 私には行為をする必要はありません。でも、私が行為をしなければ、誰も私に倣わないでしょう。私は人類の手本であらねばなりません。神は全宇宙に満ちているというのに、どうして神のためにお寺を建てることができますか? 神は自ら光を発しているというのに、どうしてランプが必要ですか? 神はすべての水の中を動いているというのに、神を沐浴させることが可能ですか? 神はすべてのお腹の中にいるというのに、神に食べ物を与えることが可能ですか? これ以上、あなたは何を伝えたいというのでしょうか? 天使でさえも、神を知ること、理解することはできません。神を理解するのはあまりにも難しいことなのです。あなたの良心と神が命じることに従い、自分のことは忘れなさい。自分の義務を行うことによって、あなたの望みはすべてかなうでしょう。帰依者の主な性質は、神の命じることにすぐに従うこと、何度も言われなくても従うことです。しょっちゅう盗みをして牢屋に入った人物がいました。6ヶ月の刑期の後、看守が出所を告げると、その盗人は「どうして荷物をまとめなければいけないんですか? どうせ私はまた戻ってきますよ」と言いました。一度生まれたら、もう生まれてくるべきではありません。ですから、神の愛を培い、決して神を忘れてはなりません。絶えず神を思っていなさい。人として生まれるのは、まれなことなのです。人としての生はすべての被造物の中で最高のものなのです。人として生まれていながら自分を救済しないなら、あなたは無駄に生きていることになります。

(スワミは「ゴーヴィンダ ゴーパーラ プラブ ギリダーリ」のバジャンで御講話を終えられました)

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Discourses in Kodaikanal April 1996” Ch10