サティヤ サイババの御言葉

日付:1996年9月8日
場所:プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワント ホール
シャンカラに関する御講話?より

ヴェーダとヴェーダーンタ

ある者は、ヴェーダをマスターしているかもしれない
あるいは、多才な作家であるかもしれない
しかし、心が清らかでないならば
悪い方法をとるようになるだろう
おお、バーラタの息子よ、この善き助言に耳を傾けよ!

愛の化身たちよ! シャンカラは、ヴェーダは二元論(ドヴァイタ/ドワイタ)を是認し、ヴェーダーンタ〔ウパニシャッド〕は聖典からの引用に基づいて不二一元論(アドヴァイタ/アドワイタ)を説いている、という見解を広めました。ヴェーダとヴェーダーンタの違いは、同じ体の中のさまざまな器官の違いのようなものです。目、耳、鼻、腕、足は、それぞれ異なる身体の部分です。個人は社会の一部です。人類は自然すなわち現象世界の一部です。自然はパラマートマ(至高我)の一部です。

カーシー(ヴァーラーナスィー)での学者の集まりで、多くの哲学的な問題についての討論が激しさを増し、その光景を見て面白がったシャンカラは、「憎悪は論争するほど増していく」(ヴァーデー ヴァーデー ヴァルダテー ヴァイラム)と述べました。論争を続けることは、論争をしている人たちの辛らつさを増幅する結果となるだけです。論議は、霊的な課題を据えるための適切な方法ではありません。

ヴェーダの二元論

人間は、生活の中で問題を解決することを強いられます。日常生活の中で、人間は決して心配事から自由になることはありません。生まれてから死ぬまで、人間は絶えず悩みを突きつけられます。悩みから抜け出す唯一の方法は、神への愛を育むことです。愛はあらゆる病気に最もよく効く薬です。

しかし、ヴェーダはこの愛に十分な重要性を与えていません。ヴェーダはアヌバーヴァム(経験)よりもアーサヤム(大望)に重点を置いています。ヴェーダを絶え間なく唱えているヴェーダ学者は数え切れないほどいます。その一切は、口先だけで、実際の行動とは無縁です。このような態度は、シャンカラによってドヴァイタ(二重性/二元性/ドワイタ)と表現されました。ヴェーダのマントラはすべて、恩恵を求める祈りの形(私はこれが欲しい、あれが欲しいなど)をとっていました。二元性の根本には欲望があります。欲望は「他」が存在するという思いによって生じます。欲する者と欲される対象は、互いに別の二つのものです。真の不二一元は、この分離を主体と客体の一体化によって消滅させることです。二元性は、たとえばハンカチのように、欲される対象がそれを欲する人が別個のものである場合に存在します。

不二一元論は経験することができるのみ

不二一元は意識の状態であり、その状態は経験することしかできず、言葉で説明することはできません。この点において、不二一元論者は口のきけない人のようなもので、おいしい夕食を味わっても、食べた料理の味を説明することができません。何かの存在を証明する証拠には2種類あります。プラティヤクシャム(直接的な知覚)とパロークシャム(間接的な証拠)です。不二一元の意識から得られる至福は言葉では言い表せないものです。それは経験することしかできず、記述したり説明したりすることはできません。このように、もし間接的な証拠が存在しなかったら、直接的な知覚は問題外となります。残念なことに、現代人は直接的な知覚だけに価値を置き、間接的な証拠を軽視しています。これは正しい態度ではありません。

たとえば、氷の塊を見たとします。氷の塊は固体のように見えますが、すべて水でできており、水は液体です。つまり、間接的にその存在が推測される水が、直接的な知覚によって見える固体の氷の塊の主成分になっているのです。このように、間接的なものが直接的に知覚できるものの主成分である、ということに気づくことができます。

同様に、この目に見える現象世界に対して、神は目に見えないものです。この真理を認識しないまま、人々は不二一元論のヴェーダーンタの教義の真理を認識せずに、二元論のヴェーダの概念に従っています。

人間は浮世のことに没頭して人生を過ごしています。シャンカラは、人類にもっと重要な、内へと向かう道に目を向けさせるために人生を捧げました。シャンカラの師、ガウダパーダは、シャンカラにあらゆる助けと励ましを与えました。年齢が若かったにもかかわらず、シャンカラは大きな決意と信念の強さを見せました。シャンカラは、16歳で不二一元論の教義の妥当性について、カースィーの由緒あるパンディト〔学僧〕を納得させることができました。

不二一元論とは何でしょう? 万物は1つであるというのが、不二一元論です。経典は、宇宙には神が遍満していることを宣言しています。さまざまな姿形や御名の下に神を礼拝したいという帰依者の願望こそが、さまざまな教義や宗派が存在する理由です。

形と実体

二元的な感覚でいっぱいの、ある裕福な帰依者が、クリシュナの御姿を崇めていました。彼は定期的にクリシュナの像に礼拝を捧げたいと願っていました。その帰依者は金細工師に20枚の金貨で純金のクリシュナ像を作ってもらいました。彼はその像に合わせた純金の牛も作らせました。像にアビシェーカム〔灌頂の礼拝〕をするのに、孔雀と金のカップも作らせました。どちらも像と同じ重さにしました。

その帰依者は、毎日アビシェーカムをしてクリシュナを礼拝することを楽しみました。しかし、時の流れはその後、彼の財産を減らし、気がつくとその帰依者は極貧に近い状態になっていました。彼は純金でできた礼拝の品を全部、別の金持ちのところに持っていって売ることにしました。4つの品の重さを量ると、それぞれ6万ルピーの価値がありました。その年老いた帰依者は、自分の敬愛するクリシュナの像に牛や孔雀やカップと同じ値段が付けられたことに耐えられませんでした。彼は、クリシュナの像にはもっと高い値が支払われるべきだと言いました。するとその買い手は、「あなたにとって、クリシュナの形をしたものは他の形をしたものよりも貴重でしょうが、私にとって重要なのは重さだけで、形は重要ではありません」と言いました。

今、世界で起きていることは、人々が価値を置いているのは外側の形であり、すべてのものに共通する神聖な素材には価値を置いていないということです。すべての存在を構成している五大元素は、神からのものです。五大元素以外の第六の元素はありません。人々は、第六の元素があると思って、それを追い求めます。

この狂った欲望が、人間の不幸の多くの原因です。欲望は避けられません。しかし、欲望には限度があるべきです。ミダースの物語では、ミダースは祈り、自分が触れたものは何でも金に変わるという願いを叶えました。ほどなくして、彼は自分が触っただけで何でも金になってしまうので、食べ物を食べることさえできないことに気がつきました。ミダースは、叶えてもらった願いを無効にしてもらおうと、再び良い妖精に祈りました。この物語から、飽くなき欲望がもたらす深刻な結果がどれほどのものであるかは明らかです。神の指示に従う人は、幸せになり、豊かになるでしょう。

それゆえ、シャンカラは、狂ったように富を追い求めないよう人類に警告し、欲望を減らすようにとすべての人に促したのです。

(ここでスワミは、「人は自分のカルマ〔行為〕の応報で富を得るのだから、自分が得たもので満足しなさい」という内容のテルグ語の歌をお歌いになりました。)

欲望をコントロールせよ

自分の欲望をコントロールしなさい。神への愛を育みなさい。神への愛は、あなたの必要に応じて、すべてのものをあなたに与えてくれるでしょう。あなたが神に何かをお願いする必要はありません。

神は、請われずともシャバリーが必要とするものを与えなかったか?
神は、請われずともジャターユに恩寵を授けなかったのか?

ダシャラタ王は、息子に最期の儀式〔死に水をとってもらうこと〕をしてもらえるようにと長い間祈っていました。しかし、ダシャラタはそれを得られませんでした。一方、鳥のジャターユはラーマの手で最期の儀式を受ける特権を得ました。ジャターユは、ラーマから救いの水を数滴受け取った後、解脱を得ました。シャバリーはラーマの到着を切に待ち望んでいました。そして、一番甘い果実を差し出してラーマを歓迎するために、あらゆる準備をしました。ラーマへのシャバリーのひたむきな信愛は報われました。

神は一人ひとりの望みに応じて恩寵を授けます。神は、恩寵(アヌグラハ)によって特徴づけられるのであって、怒り(アーグラハ)によって特徴づけられるのではありません。しかし、帰依者たちは自分の偏見によって神のやり方を判断しがちです。鏡の前に立つ人は、鏡に映る自分の気分を見ることになるのです。

カルマから逃れることは不可能

誰も自分の行為の結果から逃れることはできません。因果応報を逃れようと、どれほど努力をしようとも。

(ここでスワミは「カルマダータ ヴァシャマー ナルダー」――カルマから逃れることは可能なのか、おお人よ――と繰り返す歌をお歌いになりました。)

あなたの行いに応じた結果が起こるのです。

宇宙的な場において、自然は鏡であり、神は見る者です。自然に映っているものは、すべてが神です。唯一者が存在しているだけです。物と、鏡に映るその物の姿が見えるのは、鏡があるからです。鏡がなければ鏡に映る姿はありません。これは、自然と主の不思議に関連する神秘です。主の栄光は、言葉では言い表せないほど多岐にわたっていて、驚異的です。

神の算数は人の算数とは違います。たとえば、あなたの前に鏡が置かれているとき、あなたは三つの存在を有しています。あなた自身、鏡、そして、鏡に映ったあなたの姿です。鏡を撤去すると、普通の算術では、3−1=2になります。しかし、鏡を撤去するとあなただけが残るので、3−1=1になるのです! 浮世の視点と神の視点の違いを理解して、初めて人はお金を適切に使うことを身につけるでしょう。これが、シャンカラの不二一元論に特有の意味深いことです。

「あなたと私は1つ」

シャンカラは、日常生活の経験を、エーカットヴァム(霊的に1つであること)の教義と結びつけました。神は一つですが、アッラー、イエス、仏陀、ゾロアスター、ラーマ、ハリ、ハラなど、さまざまな御名と御姿の下に崇められています。すべては同じものです。シャンカラは、神が母や父などと表現されることを認めませんでした。神と人間との関係は、1つであることです。「あなたと私は1つ」――これが不二一元論の教義の神髄です。シャンカラによると、この1つであるという意識は、無限の喜びを与えることができるのです。

その経験は簡単には得られません。徹底的な探求に取り組み、さらに、サムスカーラ(霊的規律)を実践しなければなりません。サムスカーラが魂の精錬につながったとき、自分は神と1つであるという経験がやって来ます。その経験を得た人は、なんと幸運でしょう! これ以上幸運なことはありません。

この経験を得る人は宇宙の主です。自己の主人であるその人は、宇宙の主です。アートマ〔真我〕は人間の体のすべての細胞の中に存在しています。この甘露のような真理を悟ると、人は儚いものを求めなくなります。ですから、誰もが永続的なアートマの至福という甘露を得ようと努めるべきです。

シャンカラは、全国に、そして、王であろうと平民であろうと、学者であろうと無知な人であろうとすべての人に不二一元論のメッセージを広めるために、あらゆる努力をしました。

母への誓い

シャンカラは、母の最期には母のもとへ行って最期の儀式を行うという誓いを立てていました。清らかで高貴な魂の持ち主であったシャンカラは、その約束を守る決意をしました。清らかなハートを持つ者にとって、誓いの言葉は当然守られるものです。さらには、そのような人の言うことは、何であれ起こるでしょう。

神は、恩寵を注ぐための、そして、自分のメッセージを伝えるための、時と状況を選びます。アルジュナの場合、クルクシェートラの戦いの最中が、アルジュナがクリシュナを完全に信じているかどうか、そして、アルジュナがギーターのメッセージを受け取るのに適しているかどうかをクリシュナがテストする、最適なタイミングだったのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.29 Ch.44