サティヤ サイババの御言葉

日付:2000年5月6日
場所:ブリンダーヴァン
イーシュワランマ デーの御講話より

イーシュワランマは愛と犠牲の権化

ラーマの神性は 母カウサリヤーの愛情の下で 開花した
ラヴァとクシャは 高潔で徳高い母シーターのおかげで 力強くなり名を上げた
ジージャバーイーの愛と世話が シヴァージー王を偉大な戦士にした
母プタリーバーイーに愛をかけて育てられ ガンディーはマハートマとなった
世界のすべての生き物にとって
産んでくれ 愛と世話をかけて育ててくれる 母よりも偉大な存在はない

(テルグ語の詩)

愛の化身たちよ! 人生のゴールは幸せでも悲しみでもありません。幸せと悲しみの元をたどることができたとき、初めて人生の成就を見つけることができるのです。実際、人は、幸せからではなく、悲しみから知恵を得ます。昔の聖仙や先覚者たちは、偉大な理想を世界に示す前に、大きな苦難や困難に直面しなければなりませんでした。だからこそ、彼らの教えは、バーラタ人〔インド人/神を愛する者の意〕のハートに忘れがたい印象を残しているのです。個人も社会も、多くの試練と苦難を経験して、初めて進歩と繁栄を達成することができます。人は、困難に直面するだけでなく、非難や批判にも直面しなければなりません。しかし、高貴な者たちは、決して困難や批判を気にしません。社会の福祉が彼らの人生の主な目的です。

真理とダルマを貫く

愛の化身たちよ! 幸福を歓迎しているのと同じように、不幸も歓迎するようにしなさい。幸、不幸を同じように扱ってこそ、心の平穏が得られるのです。頭は人間の体の中で神聖なものであると考えられていますが、足は神聖なものとは考えられていません。誰かがあなたの家に来たとき、その人の頭だけ歓迎し、足は出ていってくださいなどと頼めますか? 頭を歓迎するなら、足も歓迎しますね。それと同じように、幸福を歓迎するなら、不幸も歓迎することです。

今の少年少女はこの国の未来の市民です。彼らは理想的な行動によって、バーラタの栄光と名声を守らなければなりません。彼らは両親や年長者への尊敬の念と謙虚さを養わなければなりません。全世界は一つの家族であると考えて、すべての人を愛しなさい。何かを買いたければ、代金を払わなければなりません。それと同じように、愛という富を得たときにのみ、人間的価値である真理、正義、平安、非暴力を得ることができるのです。愛にまさる富はありません。もし愛を持っているならば、その人は全世界を征服することができます。今、人間的価値が衰退しているのは、人が愛という富を欠いているからです。人間的価値を持っていて、初めて人は人間と呼ばれるのです。

バーラタ文化は、「サティヤム ヴァダ ダルマム チャラ」(サティヤ〔真実/真理〕を語り、ダルマを実践しなさい)と戒めています。サティヤとダルマは人間性を開花させるために必要不可欠なものです。人はどんな状況でもサティヤとダルマを貫くべきです。ハリシュチャンドラ王は、サティヤを貫くためにすべての富と王国を犠牲にしました。妻と息子を売らなければならなくなった時も、自分が火葬場の管理人にならなくてはならなくなった時も、ハリシュチャンドラ王はサティヤの道から外れませんでした。

創造世界のすべてのものは 真理から出現し ついには真理に帰融する
世界に真理が存在しない場所はない
純粋で穢れなき真理の この原則を理解せよ

(テルグ語の詩)

愛は人間の真の富

だからこそ、「真理は神」と言われているのです。サティヤとダルマは人間の2つの目のようなものです。サティヤとダルマを貫かない人は、まさしく盲人です。あらゆる神聖な経典、ウパニシャッド、そして、ヴェーダは、この対をなす原理に基づいています。創造世界それ自体、この2つなしには存在できません。

愛は、サティヤとダルマ両方の底流です。生活保護者であろうと億万長者であろうと、愛は人間の真の富です。社会階級に関係なく、母親というものは、自分のどの子供にも平等に愛を注ぎます。それと同じく、神も万人に平等に愛を注ぎます。神は愛の権化であり、愛という形をとってすべての人の中に存在しています。あなたは愛によってのみ神に到達することができます。

ヴェーダは、この愛の原理をアートマと呼んでいます。サティヤと愛とダルマはどれも、アートマの同意語です。ヴェーダは人をアートマヴァンと呼んでいます。なぜなら、人はアートマの原理を授けられているからです。アートマはブラフマーとも呼ばれています。ブラフマーとは誰ですか? 経典には、ブラフマーはヴィシュヌのへそから生えた蓮から出現した者であると記述されています。そのブラフマーは、すべての人に内在する「私」(アハム)です。ですから、ブラフマーの原理は、有神論者であろうと無神論者であろうと、ありとあらゆる人、すべてに内在しているのです。

「ソーハム」(私は神なり)というマントラは、この真理を明確に示しています。吸って吐くという呼吸のプロセスは、人間のへそが起源です。呼吸は一日に21,600回繰り返され、人に自分の神性を思い出させているのです

内なる声の教えに注意を払わず、人は神性を求めてさまざまな経典やヴェーダを検索します。何よりもまず、内なる声に耳を傾けなさい。内なる声はあなたの真の師であり、神です。

ヴェーダは、神をアモーガ〔限界のない者〕と表現しています。なぜなら、神は不変で、永遠で、説明を超えているからです。神は、スィッダ〔覚者〕とも呼ばれています。なぜなら、神はいつでも帰依者の願いを叶える準備ができているからです。そうであっても、神は、帰依者の祈りが心からのものでない場合には祈りに応えません。祈りが真摯で強烈なものであれば、神は必ず祈りに応えます。神には、帰依者の福祉以外、何の望みもありません。神の恩寵の受け手となるためには、神聖な思いを育てる必要があります。

神は人間の共有財産

人間とは何でしょう? 心(マインド)を授かっている者が人間です。心は思考の束にほかなりません。あなたの思考が真理に基づいている場合にのみ、あなたは真の人間と呼ばれるでしょう。生活保護者であろうと皇帝であろうと、神は人間の共有財産です。神はすべての人の友人です。神性を経験する権利は、すべての人が平等に持っています。しかし、神の恩寵を体験するためには、ハートの清らかさがなければなりません。ハートが思いやりで満たされていなければなりません。しかし、今、コンパッション(思いやり)はなく、あるのはファッション(流行)だけです!

イーシュワルチャンドラ・ヴィッディヤーサーガルの犠牲の精神

イーシュワルチャンドラ・ヴィッディヤーサーガルは、思いやりの権化でした。彼はカルカッタ近郊の村に高齢の母親と住んでいました。2人は、お粥以外のものはほとんど食べたことがないくらい絶望的な貧困の中で生活していました。ヴィッディヤーサーガルは誠実で真面目だったので、よく街灯の下でも勉強をしていました。

シラッダーヴァーン ラバテー グニャーナム
(誠実で真面目な者だけが英知を得ることができる)

誠実な人はどんな大きな仕事も成し遂げることができます。ヴィッディヤーサーガルは法律の試験に合格し、良い職を得ました。幸せも悲しみも永久ではありません。時の流れと共に、幸せの後には悲しみが、悲しみの後には幸せがやって来ます。そのとおりに、ヴィッディヤーサーガルの貧困の日々は、高額の収入を得るようになった時に終わりを告げました。

ある日、ヴィッディヤーサーガルは母親に、自分は十分な収入を得ているので、良いサリーと宝石を買ってあげたいと言いました。望みを教えてくださいと、ヴィッディヤーサーガルは母親に尋ねました。母親は、今は何も必要としていないので、頃合いを見て望みを伝えますと言いました。ヴィッディヤーサーガルは従順な息子だったので、何事においても母親に強要することはありませんでした。

月日が経つにつれ、ヴィッディヤーサーガルの給料は大幅に増えていきました。ある日曜日に、彼は母親の側に座って言いました。「お母さん、私はたくさんお金を持っていますので、とにかく今、お母さんの望みを教えてださい」 すると、母親は言いました。「息子よ、私は3つの宝石が欲しい。私たちの村には学校がないので、子供たちは長い距離を歩って学校に通わなくてはなりません。親たちは、子供の安全を心配して、子供が夕方学校から帰ってくるまで不安な時間を過ごしています。だから、どうか私たちの村に小さな学校を建ててください。これが、私があなたに望む最初の“宝石”です」 それに応じて、ヴィッディヤーサーガルは村に学校を建てました。

しばらくして、母親が2番目の願いを口にしました。「私たちの村は病院がなくて困っています。子供が病気にかかると、母親は町まで連れていって診てもらわなければなりません。だから、私たちの村に小さな病院を建ててほしいのです。それがあなたに期待する2つ目の“宝石”です」 ヴィッディヤーサーガルは病院も建てました。日が経つにつれ、ヴィッディヤーサーガルの名前と評判は遠くまで広まっていきました。人々は皆、彼の社会奉仕活動を賞賛しました。

しばらくして、母親が第3の願いを言いました。「息子よ! 私たちの村の井戸はどれも、だいぶ水が減ってきています。村人たちは飲み水がなくて苦労しています。だから、私たちの村に給水設備を整えてしてほしいのです」 母親の願いどおり、ヴィッディヤーサーガルは村人に飲料水を提供しました。母親は大喜びでした。母親は息子を祝福して言いました。「母親が皆、あなたのような社会福祉に人生を捧げる高潔な息子を持てたらいいのに。ドリタラーシュトラの息子のような、家族に悪い評判をもたらす息子が大勢いても、何の意味がありますか?」

なぜ水不足が起こるのでしょうか? サティヤとダルマが衰退すると、地下の水位も下がります。人間のハートの思いやりと愛が薄れてきたので、水が不足してきたのです。この問題は、一部の人々が想像しているような、神の怒りによるものではありません。それは人間の悪い性質が増加しているせいです。もし人々がサティヤとダルマの道を厳守すれば、決して水不足になることはありません。人々は自分の不幸を悪い時間のせいにしますが、時間は何も悪くありません。十分な雨と、絶え間なく流れる川があります。しかし、それらは利用されることなく海に流れ込んでいます。

お金は犠牲のためにある

インドに学者や科学者、教育を受けた人や裕福な人が不足しているわけではないのに、国はそういった人々の恩恵を受けていません。そういった人々は、嫉妬と憎しみという邪悪な性質に悩まされており、互いに喧嘩をしています。彼らの間には一体性がありません。裕福であっても、教育を受けていても、徳を欠いていれば、その人の富と教養の一切は何の役にも立ちません。人は犠牲の精神を養うべきです。ヴェーダは、犠牲だけが不死をもたらすと述べています。

インドにはお金持ちが大勢いますが、彼らは自分の持っている富に満足していません。彼らはさらに多くの富を蓄えたがっています。お金への貪欲のせいで、彼らは自分の人生を破滅させてしまいます。彼らは死ぬ前に外国の銀行にお金を預けます。そうする代わりに、なぜ彼らは自国の人々の福祉のためにそれと同じ額を使うことができないのでしょうか? なぜ彼らは社会奉仕活動に参加できないのでしょうか? 彼らは口では甘い言葉を言いますが、言っていることとは反対の行いをします。彼らはいくらでも約束をしますが、そのうちのほとんどが実行に移されません。約束を果たすつもりがないのに、なぜ約束をするのでしょうか? 彼らは犠牲の精神に関するレクチャーではヒーローですが、実行においてはゼロです。

お金は犠牲のためにあります。これは、イーシュワラチャンドラ・ヴィッディヤーサーガルが示した理想でした。彼はすば抜けて優秀な雄弁家でした。その上、とても謙虚でした。大勢の人々が彼のスピーチを聞くために殺到しました。

(ここでスワミは、ヴィッディヤーサーガルの生涯から、ポーターがいなかった時に自らスーツケースを運んで、ある役人に謙虚さの教訓を与えたという出来事を話してくださいました。そのスーツケースを運んだ人は、自分が講演を聞くためにやって来たヴィッディヤーサーガルその人だったということがわかると、役人は恥入りました。)

イーシュワランマはイーシュワラの母

今日、私たちは「イーシュワランマの日」〔ババの生母の命日〕を記念しています。イーシュワランマとは誰でしょう? イーシュワランマはイーシュワラの母〔アンマ〕です。イーシュワランマという名は、彼女の両親が付けたものではありません。嫁いだ後に、英知の人であり先見の明に恵まれたコンダマ・ラージュ(義理の父/ババの祖父)が、彼女をイーシュワランマと呼びはじめたのです。生まれた時に付けられた名前はナーマギリアンマというものでした。しかし、コンダマ・ラージュは、彼女に最もふさわしい名前はイーシュワランマであると告げたのです。彼女が将来イーシュワラの母となることがわかっていたからです。

イーシュワランマの生家はたいそう貧しかったので、彼女はまともな食事さえでききませんでした。彼女が口にできたのはラーギ・サンカティ〔四国稗の固粥〕だけでした。私も、食べるのはラーギ・サンカティだけです。カルナータカ州では、多くの人がラーギ・サンカティを食べています。私はラーギ・サンカティが大好きです。私はお米やクルマ〔ココナッツカレー〕などは好みません。ラーギ・サンカティに落花生のチャトニを添えたものが私の好物です。ラーギも落花生も私たちの村で採れます。私は、プッタパルティ村からここ〔ブリンダーヴァン〕に来るときには、ラーギの粉を持参します。

イーシュワランマは字が読めませんでした。私は、今の学のある人たちの利己的な態度や堕落した精神、見栄を張った振る舞いを目にするとき、イーシュワランマは学校に行かなくてよかったと感じます。

私は、7歳半の時、私たちの村の幼い子供たちにパンダリ・バジャン〔パーンドゥランガ神を称えるバジャン〕を教えていました。イーシュワランマとスッバンマは、パンダリ・バジャンを歌う私をうっとりと眺めながら、リズムに合わせて踊ったものでした。

時おり、夫のペッダ・ヴェーンカマ・ラージュが、家計のための幾ばくかのお金をイーシュワランマに渡していました。あるとき、そのお金が2アンナ残りました。当時は、2アンナあればポンポン菓子が2袋は買えました。そこで、イーシュワランマは2アンナでポンポン菓子を2袋買い、子供たちに配りました。イーシュワランマはいつも、自分が持っているものは何であれ、人に分け与えていました。イーシュワランマは犠牲の権化でした。イーシュワランマは自分を訪ねてくるすべての人に優しく話しかけました。スワミに無視されたといって悲しむ帰依者には、「スワミがなさることは何であれ、あなたによって良いことなのです」と言って慰めていました。

イーシュワランマの優しいハート

私が進学のためにウラヴァコンダに連れていかれた時には、私がよく夕方にさまざまな善いことを教えていた子供たちが皆、とても気落ちしました。村を去る時、そのうちの10人が私のところにやって来て、グル・ダクシナ(師への謝礼)としてそれぞれ1バットゥ(3パイサ)を差し出しました。私がそれをイーシュワランマに手渡すと、彼女は感動して涙を流しました。イーシュワランマは私の手を握り、「まだこんなに幼いのに、これほどの犠牲の心があるなんて!」と、感嘆の声を上げました。イーシュワランマは、息を引き取るまでそのコインを肌身離さず持っていました。

最初のころ、私はスッバンマの家で暮らしていました。しかし、帰依者の数が増えると、新しいマンディル〔ババの礼拝堂〕が建てられました。ある日、私が食事をしていると、イーシュワランマが入ってきました。他の人々がついて来ようとすると、イーシュワランマはその人たちに、来ないようにと言いました。イーシュワランマは私の両手を握り、懇願しました。「スワミ、私たちの村には病院がありません。なので、子供が病気になると、母親は子供をブッカパトナムまで連れていくしかありません。私はそのような苦労を見ていられません。私の子供もよその子供も、私にとっては皆同じです。だから、どんなに小さくてもよいのです。どうか、この村に病院を建ててください」

私はその願いを叶えると約束しました。それで、私は大きな病院を建て、当時の国の大臣だったベージャワダ・ゴーパーラ・レッディがその落成式を行いました。イーシュワランマはこの上なく喜びました。あまりに大きな満足と喜びに浸っていたために、彼女はその日一日中、食べ物も水もなんら欲しいと感じませんでした。イーシュワランマは、私の手をとって、これほど大きな形で自分の願いが叶えられた幸せを語りました。私は彼女に「幸せでいなさい」と言いました。

その後しばらくしてから、イーシュワランマは再び私のところにやって来て、村に学校を作ってほしいと望みました。彼女の願いにより、私は学校を建てました。最初は小さなものでした。のちに私はそれを大きな校舎にしました。イーシュワランマはたいそう幸せでした。彼女はその学校に行き、子供たちにキスをして愛を降り注ぎました。彼女はこの上なく幸せで、「このカリの時代に、何であれ私が望んだことをしてくれるあなたのような息子を持てて、私は本当に幸せです」と言いました。

善い意図は善い結果をもたらす

次に、イーシュワランマは、村に飲み水が供給されることを望みました。私は、それは実現することを約束しました。水不足を補うための掘り抜き井戸がいくつかあったのですが、それらは短期間のうちに使い物にならなくなっていました。そのため、私は旧マンディルに大きな井戸を掘りました。

ヤッド バーヴァム タッド バヴァティ
(思いのとおりに結果はなる)

意図が善いものであれば、結果も善いものとなります。私の意図は善いものであったので、わずか7フィート〔約2メートル〕掘っただけで、きれいな水が大量にほとばしりました! 水を汲む人々のための入口が、マンディルの裏側に設けられました。

皆さんも知っているように、スワミは現在、トゥンガバドラー川からアナンタプル県の全区域に飲み水を供給しています。この目的のために30億ルピー近くが費やされました。もし大臣やリーダーや年長者たちが協力し合えば、彼らはこうした公共福祉計画に着手できます。しかし、それには公共福祉と犠牲の精神に関心が向く必要があります。

イーシュワランマが亡くなる前に、私は彼女の3つの望みをすべて叶えました。私たちの教育機関では何の料金もかかりません。教育は誰にも無料で提供されます。私たちの病院も無料です。今の医者は、1回の心臓手術に最低でも20万から30万ルピーを請求します。もちろん医者にもお金は必要ですが、一定の限度があるべきです。バーラタ人が食物や医療や教育を売っているのは、大変に不幸なことです。実に、彼らは自分自身を売っているのです!

バーラタは、神聖な国、犠牲と霊性の国です。それがいまや、物質的な快楽の国へと変貌しつつあります。犠牲の精神は極めて大切です。あなたが持っているものは、何であれ人と分かち合いなさい。あなたの空腹を満たすには少量の食べ物で十分です。小さなコップ1杯の水だけで喉の渇きが癒されるのに、なぜガンジス河全部を欲しがるのですか? 貪欲さや他の邪悪な性質をかくまってはなりません。そうでないと、ドゥルヨーダナ一族と同じ運命に苦しむことになります。あなたのハートを愛で満たしなさい。

バーラタの文化に従いなさい

学生諸君! 穏やかに、優しく話しなさい。いつも親切にすることはできませんが、いつも親切に話すことはできますね。

皆さんは若いのです。自分の将来を正しく形作るために努力しなさい。愛と犠牲の精神を養いなさい。あなたの愛を友人と分かち合いなさい。たとえば、あなたがペンを2本持っていたら、必要としている人に1本あげなさい。もしあなたの親がその慈善行為に異議を唱えたら、「余分なペンを持っていても何の役に立つでしょう? 必要としている誰かにあげたほうがよいのです」と言って説得しなさい。それはきっと両親を幸せにするでしょう。愛にまさる富はありません。

親を神として敬い、崇めなさい。朝起きた時、学校に行く前、夜床に就く時、親に敬意を表して礼をしなさい。決して親と口論をせず、愛をもって説得してみなさい。蒔いた種は刈り取らなければならない。ということを覚えておきなさい。あなたが親に何をしたとしても、あなたの子供はあなたにそれと同じことをするでしょう。決して親に無礼な言い方をしてはいけません。親の言うことをよく聞きなさい。

現代の教育システムは、本の知識しか与えていません。それは学生をきわめて無知にしています。学生たちは丸暗記で勉強し、試験でそれをそっくりそのまま書くだけです。次の日に同じ質問をしてみても、答えは返ってこないでしょう。

教養よりも文化のほうが大事です。インドの文化はとても神聖です。インド文化を日常生活の中で実践しなさい。電話で話をしているときでも、謙虚に話しなさい。年長者を敬い、来客には愛と謙虚さをもって接することを身につけなさい。本の知識を得るだけでは何の利益も生まれません。バーラタ文化を守り、愛の中で生きなさい。そうして初めて、あなたの中に神性が現れるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.33 Ch9