サティヤ サイババの御言葉

(2000年12月25日。ブリンダヴァンにおけるスワミのクリスマスの御講話)

妬みに対して愛を返しなさい

寛容は、この神聖なバーラタ(インド)の国における真の美です。
すべての神聖な美徳の中で、真理を守ることこそが 真の苦行です。
この国の甘露のごとき感情は、自分の母親への感情に他なりません。
人格は命そのものよりもはるかに高く評価されています。
今日人々は、バーラタの文化の根本原理を忘れて、西洋文化を真似しています。
あたかも大きくて強い象が自分の力を知らないのと同様に、
バーラタの人々は自分たちが受け継いだものの偉大さに気づいていないのです。

   (テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!  青年男女の皆さん!
  太古の時代より、この国は賢者、聖仙、聖者が誕生してきた土地であり、彼らは全世界にバーラタの神聖な文化を広めて名声を博しましたが、今日そのような高貴な魂たちは忘れられてしまいました。皆さんは、バーラタの名声は、すべてその霊的な財産のみに依存しているのであって、それ以外のものによって得られたのではないことを認識しなければなりません。かつては全世界に神の光を広めていたバーラタが今日陥っている苦境を自分でよく考えてごらんなさい。この神聖な国においては、多くの崇高で徳の高い人々が、幾多の困難や非難に耐えなければなりませんでしたが、彼らは人類に手本を示そうという固い決意をゆるがせませんでした。

 きょう皆さんは、イエスが大切にした理想を思い出さなければなりません。幾時代にもわたって、大いなる霊的な力を備えた幾多の高貴な魂たちが、世界に神聖な教えを広めるために、時おり地上に生まれてきました。彼らは、世界を、住む者にとって良い場所にするために大変な努力をしました。ところが、愚かな人々は、その崇高な意図を理解することなく、彼らをあざけり、迫害しようとしました。イエスは、誕生のときから、多くの試練や苦難に遭わなければなりませんでした。高貴な魂たちの名声があまねく広まるとき、多くの人々はそれを妬みます。アスヤ(妬み)とアナスヤ(妬みの欠如)とは姉妹のような関係にあります。バーラタの歴史にはこの真理を証する数多くの例が見られます。アスヤには、カーマ(欲望)、クローダ(怒り)、ドゥウェーシャ(憎しみ)の3人の子供がいます。ブランマ(創造の神)、ヴィシュヌ(維持の神)、マヘーシュワラ(破壊の神)という三位 一体の神々は、アナスヤから生まれました。アスヤの3人の邪悪な子供たち(すなわち欲望・怒り・憎しみ)は、社会の平和と幸福のためにたゆみなく努力を続けたイエスに多大な苦しみを与えました。イエスは慈悲の権化であり、貧しい人々や、見捨てられた人々の友でありました。しかし多くの人が、イエスの神聖な教えや行いを嫌って、イエスを様々な困難に合わせようとしました。イエスに対する彼らの憎しみは日々高まっていきました。聖職者たちさえも、彼の人気が段々と高まるのを妬んで彼に対抗するようになりました。漁師たちはイエスを敬いました。彼らはイエスの教えを守り始め、彼の弟子になりました。多くの人々が妬みのゆえに彼の道を妨害し、彼を殺そうとさえしたのです。

 イエスには12人の弟子がいました。ユダは12番目の弟子であり、最後にはイエスを裏切りました。その当時は、ユダは一人しかいませんでしたが、今の時代には、そのような「ユダたち」がたくさんいます。今日世界が不穏に包まれているのは、ユダのような裏切り者の数が増えたためです。彼らは心が実に低劣なので、お金によって容易に誘惑されるのです。ユダは、たった何枚かの銀貨のためにイエスを売りました。すでに2000年前においてさえ、お金が人間の主要な目的となっていたのです。人々は、金銭に対する貪欲さのために、邪悪で不正な方法に訴え、真実を歪めて、偽りの敵対宣伝をしました。これはその当時の話しですが、その状況は今に到っても変わりません。誰も、そのような虚偽の申し立てを恐れる必要はありません。どうして人間が自分の犯していない過ちを恐れなければならないのですか? 過去において、多くの邪悪な心の持ち主が、真理と正義の教えを説いて世界的な名声を博した神人たちを妬みました。現代においてさえも、そのような邪(よこしま)な人々の数は決して減ってはいないのです。

 今日、サイの名声があまねく広がっているので、多くの人々がサイを妬んでいます。彼らは自ら何らかの善行に携わるわけでもなければ、もし誰か他の人が善行をしていれば、それを我慢することもできないのです。ラヤルシーマ地方は、英国が統治していた時代から、ずっと飲料水の不足に悩まされてきました。たくさんの指導者や裕福な人がいたにも関わらず、この地方に飲み水を支給する仕事を手がけた人は誰もいませんでした。ラヤルシーマ地方に住む100万を超える人々の渇きを癒したのはサイババでした。

  今の時代において、心臓外科手術にかかる費用は何十万ルピーにものぼります。ここでもまた、非常に高額の費用がかかる心臓の手術がまったく無料で行われる特別 専門病院を設立したのはサイババです。

 今日、教育の分野には金銭に関する不正があまりにもはびこっているので、子供を小学校に入学させるのに、2万ルピーもの寄付をしなければならないほどです。しかし、サイババは幼稚園から大学院レベルにいたるまで、無料で教育を施しています。サイ以外のいかなる個人も、いやそれを言うなら、いかなる国や地方の政府も、教育や医療を無料で施すことはできませんでした。高度の教育を受けることのできた運の良い人々は、あまりにも凡庸な心の持ち主になりさがり、これらの活動の神聖さを理解し、その価値を正しく評価する良識を失ってしまいました。彼らの中で、サイババがしていることの少なくとも千分の一の仕事をやり遂げた人がいるでしょうか? いいえ、ただの一人もおりません!そのような崇高な任務を、ひとかけらの利己心もはさまずに遂行しているのはサティア・サイババだけです。(拍手)。サイの心は純粋です。サイの感情は神聖であり、まったく私心がありません。サティア・サイババは、純粋さ(Purity)、忍耐(Patience)、根気(Perseverance)の3つのPを象徴しています。サイババには、頭の先から足のつま先に到るまで、ひとかけらの利己心もありません。サイはまったくの無私の奉仕を行っているのです。少しでも理性のある人々が、この真理を認識できないのはなぜでしょう? どうして彼らは根拠のない敵対宣伝にうつつを抜かしているのでしょう? 彼らがそうしているのは、金銭に対する貪欲さのゆえです。そればかりではありません。一つの宗教に属する人々が、お金のために別 な宗教に改宗しています。(無執着を象徴する)黄土色の衣をまとっている遊行僧たちまでも、この邪悪な傾向にさいなまれています。一人のスワミ(宗教的指導者)が誰か別 のスワミの繁栄を妬ましく想って根拠のない敵対宣伝を煽り立てます。

ただ単に黄土色の衣を身に着けただけで、
人が聖者になったり帰依の心が育ったりするわけではない。
ただ単にギータの詩節を歌うだけで、人が功徳を積むわけではない。

(テルグ語の詩)

 サドゥー(修行僧)と呼ばれる人々の中にさえ、この邪悪な活動に関わっている人がいます。ヒンドゥー教の各宗派の総帥たちが、これに関して果 たしている役割について語る必要はありません。人間は誰をも批判すべきではありませんが、私は状況の必要に応じるためにこのようなことをお話しせざるを得ないのです。虚偽の宣伝広告を恐れてはなりません。
  私は、30億ルピーの費用をかけてバンガロール市内にもう一つの特別専門病院を開設しました。(拍手)。この広大なバーラタの国において、現職の政治家の中にそのような崇高な理念の遂行に携わっている人が一人でもいるでしょうか? それどころか、彼らは慎みのない者のように他者の悪口を言い続けています。神聖な行為を邪魔しようとする人は、人間ではありません。そのような人は本当に魔物でしかありません。たとえ全世界がそのような魔物で一杯になったとしても、サイの決意は決して変わりません。(拍手)。一部の人々が、卑劣な考えから、サイババのイメージを汚そうと努めています。私は名声を求めません。ですから、いくら彼らが虚偽の敵対宣伝をしても、私が失うものは何もありません。私の栄光は日増しに高まっていくでしょう。たとえ彼らが全世界で派手に虚偽の敵対宣伝を繰り広げたとしても、その栄光は微塵も低下することはないでしょう。一部の帰依者は、これらの虚偽の主張に惑わされているように見受けられます。そのような人は真の帰依者ではありません。サイの大いなる力を知ったのであれば、どうして「うるさいカラスたち」を恐れる必要があるでしょうか? 私たちは、あちこちの壁に書かれている内容や、政治的な会合における発言や、出版物となって出回っている下品な作り話などのために、自制心を失ってはなりません。真理と、正義と愛の原理を広めるのだと、固く心に決めようではありませんか。サティア・サイババにはひとかけらの利己心もありません。私は、貧しい人や虐げられた人々の苦痛を軽減するためであれば、何千万ルピーものお金を注ぎ込む準備ができています。私の決意とは、お腹をすかしている人々に食べ物を与え、貧しい子供たちに教育を施すことです。この世の中には、食べ物を分けてもらおうと自分の家の戸口に立つ物乞いたちに犬をけしかけるほどに、無慈悲で心の狭い億万長者がたくさんいます。彼らを人間と見なすのは恥かしいことです。

 こういった人たちは、サイババが社会のために行っていることの、千分の一の仕事すら果 たすことができないにも関わらず、虚偽の告発に手を染めていることを恥じてもいません。もし彼らが、サティア・サイババにしたがって、全世界に手本を示したとすれば、その方がどれほど良かったことでしょう。私には欲望も野望もありません。私には妬みは微塵もありません。私は愛の化身です。愛は私の生き方そのものです。英知は私が授ける成果 です。愛と英知の二つが、私の生き方の基盤をなしています。

 虚偽の告発に手を染めている人々は、必ず破滅の憂き目に会います。そのような虚偽の敵対宣伝を煽っている人々も、滅びの定めを避けることはできません。お金は、正しい行いをするために活用すべきです。それを邪(よこしま)な目的に使ってはなりません。心からの愛と慈悲を込めて人類同胞に奉仕をしなさい。彼らに正しい道を進ませ、幸福の手助けをしてあげなさい。私は、人々が繰り広げるいかなる虚偽の敵対宣伝をも恐れません。真理と正義と愛の道を守っている私が、何を恐れる必要があるでしょうか? 人々には好きなことを言わせておきなさい。私の心は乱れません。

  きょう私は、自分が守っている愛の原理を皆さんに詳しく説明しています。すべてのアヴァター(神の化身)の時代において、邪悪な人々が様々な策略を働かせました。クリシュナ神の時代には、カムサ、シシュパラ、ダンタヴァクラといった、魔物のような人物がいて、様々な手を尽くして彼を傷つけようとしました。ダルマを確立するためにラーマ神が降臨したときも同様に、ラーマは幾多の困難を味わいました。彼は14年間も森の中に追放され、ラヴァナが彼の伴侶であるシータを力づくで奪い去ってしまいました。神人たちを困らせようとした人々は、最後にはどのような事態に遭遇したでしょうか? 神人たちに罪を負わせようとする人々は、最悪の罪を犯しているのです。もし徳行に携わることができないのであれば、そのような罪深い行いに携わるよりも、静かに黙っている方が良いのです。中には、自分は帰依者であると主張しながら、邪な行いにふける人がいます。彼らは、自分の姿を見ると人々が尊敬するだろうと想っています。著名な人物であっても、すべての面 で善い人であるとは限りません。「著名人」という言葉の語源は「パーソン(person)」であり、後者は神聖な特性を象徴する言葉です。ですから、私たちは真理と正義の生活を送らなければなりません。愛の原理はすべての人において等しく変わることがありません。すべての人が、愛の絆で団結しなければなりません。そうすれば、全世界が一つの家族になります。愛を断片化し、憎しみを育てる人は、人生において決して幸福を勝ち得ることはできません。

  私は、朝から晩まで愛に満ちた生活を送っています。私は何万人もの学生たちに無料で教育を施しています。ただ単に無料で教育を与えるばかりでなく、私は、自ら手本を示すことによって、彼らに理想的な生き方をすることを教えています。これらの学生たちが世に出ると、一部の人々は彼らを邪な感情で汚そうとします。他の人々がどう言おうとも、我々の学生たちは黄金のように素晴らしいのです。彼らの足跡の埃でさえ、他の人々の不正を阻止することができるでしょう。私たちの教育機関の卒業生たちは、男子も女子も神聖で見本的な人生を送っています。我々の女子大学の卒業生が作っている「サティア・サイの使者」と呼ばれる組織は、様々な国において幾多の奉仕活動を行っています。彼女たちは、夫を感化して奉仕の道を歩かせることまでしています。我々の学校の卒業生たちは、スイス、アメリカ、日本、ロシアといった様々な国々で活躍しています。一部の外国人たちが、彼女たちを買収してサティア・サイババを非難するための話を捏造(ねつぞう)させようとしています。スイスでは、女子大の卒業生に対して、ある人物が、サイババを陥れるための作り話を考えて欲しいと言って近づいたとき、彼女は烈火のごとく怒って、すぐさま自分の履いていた靴を脱いで手に取り、ほとんど相手を打ち据えるような勢いで「これがあなたの宗教の教えですか? これがあなたの宗教が広めようとする理想なのですか? 恥を知りなさい! ここを出て行きなさい!」と迫ってその人物を追い払いました。しかし中には、ユダのように買収されて、サイババを陥れる虚偽の攻撃をする裏切り者たちがいます。

 最終的にユダはどうなったでしょうか? 彼は、金銭的な利益と引き替えにイエスを裏切ってしまったために惨めな想いに襲われました。彼は後悔の涙を流しました。そして、「何という恥知らずなことだ! 私は裏切り者だ! 私は自分自身の主と神様とを売り渡してしまった」と言いながら我が身を激しく打ちました。神を売ることは、あらゆる罪の中で最悪のものです。そのような裏切りは、何度生まれ変わっても決して償うことはできません。ですから、決して神を裏切ろうとしてはなりません。すべてを愛しなさい。皆さんを非難する人々にさえ挨拶をしなさい。なぜなら、神はすべての人の内に存在するからです。怒りに付け入る隙を与えて、心を汚してはなりません。愛を込めて神に祈りなさい。過去においても、すべての高貴な魂や神の化身たちは、非難に耐えなければなりませんでした。皆さんは、「いったいなぜ、そのような非難が生ずるのだろうか?」と疑問に想うかもしれません。非難によって、彼らの栄光はかえって高まるばかりです。楽しみは、苦痛と苦痛の間に訪れます。影は光についてきます。私たちは影を恐れてはなりません。影の中にさえ光があります。光と影は別 々には存在できません。両者の間には一体性の原理が働いています。ですから、スワミに浴びせられるいかなる批判にも、あるいはまた、いかなる目上の人に対する非難にも反応してはなりません。ただ「そんなことは私に関係ありません」とだけ言って、それを無視しなさい。もし誰かがあなたの欠点を指摘する場合は、もちろんそれを正せばよいことです。しかし、もし誰かがあなたに根拠のない攻撃を向けた場合は、それについて心配する必要はありません。幸せでいなさい。もし大声で非難がなされるとすれば、それは大気の中に消えていくでしょう。もし誰かが心の中でそれを想っているとすれば、それはその人に返るだけです。そういうことですから、どうして心を乱す必要があるでしょう? 誰にでも好きなことを言わせておきなさい。そして、平穏な気持ちを保ちなさい。いかなることが起きても、それはあなたのために良いことだと考えなさい。そのような平常心を持って、日々の生活を送りなさい。

 この先皆さんは、さらに多くの栄光に満ちた出来事を目撃するでしょう。サティア・サイが成し遂げることのできないものは、何一つありません。(拍手)。実際、スワミはその行動によって、人々に畏敬と驚きの念を抱かせることもできます。しかし、スワミの唯一の目的は、すべての人々を幸せにすることです。「ローカ サマスター スキノー バヴァントゥー(全世界が幸せになりますように!)」。他者の幸福のために尽力する人は、決して困難には見舞われません。いかなる困難も彼らを動揺させることはできません。一つの小さな例があります。あるとき、仏陀は妬みの妖怪に出会いました。その妖怪は、「仏陀よ、わしはお前を飲み込んでしまうぞ」と言いました。仏陀はその妖怪に向けて微笑み、「おお、妬みの妖怪よ、私はお前も愛している」と言いました。仏陀のその愛のこもった言葉を聞くやいなや、妖怪は、愛と平和の象徴である鳩に姿を変えて、どこかへ飛び去って行きました。

 人は、忍耐を培って、怒り、憎しみ、妬みという邪な性質を愛によって克服したときに、はじめて真の意味で帰依者になるのです。賞賛に有頂天になったり、非難にふさぎ込んだりしてはなりません。あなたが、自分を誉める人だけを愛し、自分を批判する人を憎むとすれば、それは良いことではありません。賞められてもそしられても、同じ心でいなさい。非難はあなたの成長を助けるだけです。ですから、あなたを非難する人に対して憎しみの心を抱いてはなりません。あなたのところにやってくる良いものは何でも受け入れなさい。悪いものはすべて無視しなさい。人々が誉めたり非難したりするかもしれませんが、誰もサイを動揺させることはできません。(拍手)。サイは真理に生きています。いかなるときであれ、誰も真理を揺るがすことはできません。このような強い確信を持って人生を送りなさい。神への信仰を日々育てて行きなさい。信仰が深まるにつれて、すべての邪なものは消えてしまいます。皆さんがこれまで続けてきた霊性修行をやめてはなりません。イエスがあらゆる困難に毅然として耐えたので、彼は今日に到るまで称えられ、崇拝されているのです。

 あるとき、一人の若い弟子が「主よ、私が何か問題を抱えているとき、どうすればそれを解決できるのでしょう?」とイエスに尋ねました。イエスは答えて言いました。「おお、愚か者よ。自分の問題の解決策を探そうとしてはならない。お前の心の中におられる神を愛しなさい。お前を憎む人々すらも愛しなさい。彼らの内にも神がおられるからだ。もしお前がすべてを愛するならば、どうして苦痛に悩まされることがあるだろうか? すべての人を愛すれば、お前の心は至福で満たされるであろう。」あるときアルジュナがクリシュナ神に尋ねました。「スワミ、あなた様が特別 に大切にしておられる人が、誰かいるのでしょうか?」クリシュナは答えました。「おお、愚か者よ。私には敵も味方もいない。私はお前の心の中にいる。私は、私を非難する人々の心の中にも住んでいる。すべての人の中に神を見、万人を愛する人は、私にとって非常に大切な人である。人が私に深く結びつくのは、生まれによってではなく、私への強い愛によってである。これほど長い間私と共にありながら、お前がこの基本的真理を理解していなかったことは驚くべきことである。おお、アルジュナよ、お前は私を、お前の馬車には座らせたが、お前の心という馬車には座らせてくれなかったようだ。」私たちは、心の中に神を安置しなければなりません。実際、皆さんが神を心に安置する必要はありません。神はすでにそこにいます。皆さんが、神が心の中にいるという真理を知るだけで十分なのです。いったんこの真理を認識しさえすれば、皆さん自身が神になります。

 皆さんが世界に広めなければならないものは愛のみです。この世界には、愛以外のものは何一つ存在していません。愛は神です。愛は命であり、愛はすべてです。ですから、もっともっと愛を培いなさい。いかなる状況においても心を動揺させないようにしなさい。揺れ動く心からは神聖さが失われます。かつてティヤガラージャが次のように歌ったのは、そのためです。「おお心よ、揺れ動いてはならない。そして、惑わされてはならない。お前が苦しむのは、迷妄のゆえである。」

 愛を、あなたの命そのものと見なしなさい。愛のみが人生を神聖なものにしてくれます。愛をもった者だけが真の人間なのです。愛は人です。人は愛です。人は神であり、神は愛です。すべてを一つにするものは愛です。ですから、愛を育てなさい。真理と正義の道を歩き、平安に満ちた人生を送りなさい。これらの4つの価値は、命を支える原理です。真理、正義、平和、愛という人間的価値以上に大きな力も、それ以上に偉大な理想も支えも存在しません。これらの4つの価値を守って、皆さんの人生の旅を続けなさい。

愛の化身である皆さん!
 恐れのない人になりなさい。たとえ頭に雷が落ちても、恐がってはなりません。死がやって来るのはたったの一度きりで、二度とはやってきません。それはいつか必ずやって来ます。ですから、死を恐れないことです。いかなることがあっても良いような準備をしておきなさい。真理を守ることを恐れてはなりません。あなたの人生を愛で満たしなさい。そうしてはじめて、あなたの人生は神聖なものとなります。もしあなたが、真理と愛を守らないとすれば、ジャパ(神の御名を繰り返し唱えること)や瞑想のような、いかなる霊性修行をしても、あなたの人生は救われないでしょう。いかなることが起きようとも、構わずにこれらの価値を守り続けなさい。これらの価値のみが、全世界に幸福と繁栄をもたらすことができるのです。愛をますます育てて行きなさい。他者の批判を気に留めてはなりません。なぜなら、皆さんはいかなる過ちも犯しているわけではないからです。人がもし、本当に神を愛しているとすれば、いったいどのような過ちが起こり得るでしょうか? 皆さんの呼吸が止まる最後の瞬間まで、神への揺るぎない愛を持ち続けなさい。対立や疑念の介入する隙を与えてはなりません。すべての人が、自分の行動の結果 に直面しなければなりません。それがいつどのようにやってくるかは、誰も予測できませんが、人間は必ずそれらの結果 に直面します。しかし、あなたが絶えず神のことを考えているのであれば、決して苦しみにさいなまれることはありません。神はあなたをすべての苦しみから守るでしょう。神は常に、あなたの中に、またあなたの周囲にいて、あなたを安全に守るでしょう。邪な感情の付け入る余地を与えてはなりません。あなたは、神をイエスとして、あるいはラーマやクリシュナ等々として崇めても良いのですが、神は一つであることを覚えておきなさい。目標は一つ、真理は一つ、愛は一つであることを忘れてはなりません。このことを固く信じていなさい。取るに足りないことを求めて、あなたの愛を断片化してはなりません。一体性の原理を理解し、それにしっかりとつかまっていなさい。そうすれば、あなたがどこにいようとも、たとえそれが森の中でも空の上でも、町の中でも村の中でも、あるいは山の頂上でも深い海の中でも、神が必ずあなたの面 倒を見るでしょう。いかなる人もあなたの神を否定する権利はありません。カリユガ(暗黒の時代=現代のこと)の影響のために、人々は、金銭を追いかけて邪悪な道をたどっています。彼らは、金のために人を殺すようなことまでしています。彼らにとっては、金銭がすべてです。私たちは、争ってお金を得ようとすべきではありません。人は、愛という財産を獲得するために努力しなければなりません。

愛の化身である皆さん!
 私は、長々とお話をして、皆さんを困らせていなければ良いと思っています。実際、これは皆さんを困らせて(バーダ)いるのではなくて、大いなる教え(ボーダ)を説いているのです。恐れに悩まされている人には、勇気という気付け薬を与える必要があります。いかなる弱さにも付け込む隙を与えてはなりません。「サティア・サイの使者」の会員たちは、社会に対して様々な急場の援助を行っています。時には彼女たちは、食べるものさえ食べずに奉仕活動に携わることがあります。しかし、それは自らの健康を害することになるので、良いやり方であるとはいえません。彼女たちは、自分たちのわずかなお金を、バンガロール市に現在建設中の特別 専門病院に捧げたいと考えました。自分たちが女性であるために、建築現場でレンガなどを運んだりするような奉仕活動ができないことを、彼女たちは悲しく想いました。彼女たちは、自分たちのわずかな貯金の中から750万ルピーを集めて、私に何も言わずに、その金額をサティア・サイ基金に送りました。(拍手)。それだけではありません、よそで働いているサイ大学の男子卒業生たちもたくさんいます。しかし、彼らもまた私に対して献身的です。彼らの中には、ここで何ヶ月もの間、食事も満足に取らずに待っている人々がいます。このようにして、彼らは病院に寄付するために、いくらかのお金を貯蓄しました。サティア・サイの男子卒業生たちは、450万ルピーをセントラル・トラストに送金しました。我々は、皆さんのお金を求めているのではありません。我々は皆さんの愛を求めているのです。我々は、皆さんの健康と進歩と幸福を願っています。皆さんがどこにいても、理想的な生活を送りなさい。皆さん方の中には、一部の大金持ちがこの病院のために、何億ルピーものお金を寄付しているのだと考える人がいます。私たちは、彼らにそのようなことを頼んではおりません。また彼らも、多額の寄付をしているわけではありません。私は、愛がこもっていれば、わずかな額の献金であっても喜びます。多くの人がイエスに様々な贈り物を差し出しましたが、彼は何一つ受け取りませんでした。ところが、一人の老女がわずかな額のコインを差し出したとき、彼はそれを喜んで受け取って、自分が息を引き取る時まで持っていました。というのも、その捧げ物には愛がこもっていたからです。それと同じで、私が求めているのは愛であって、お金ではありません。このようにして、将来にはこのような病院が、この他に幾つもできるでしょう。私は誰にも、何の助けも頼みません。それは真理そのものの意志(サティア・サンカルパ)であり、私がやっていることは善いことなのです。もし人が何か善いことを手がけるのであれば、それは必ず実を結ばずにはおきません。あらゆる助力が集まってくるのは、私の善なる特性ゆえに他なりません。

学生諸君! 青年男女の皆さん!
 皆さんが我々に送ったお金を持って返りなさい。私が望んでいるのは、皆さんの愛と進歩と幸福です。もし皆さんが、良い振る舞いをして理想的な生き方をするようであれば、私は喜びます。サティア・サイの学生たちは良い振る舞いをするという評判を勝ち得なさい。お金は入ると出て行きます。道徳性は入ってくると育ちます。皆さんの道徳性と人格を養いなさい。勇気を持ちなさい。皆さんの愛を他の人々に分け与えなさい。外部の人々は、学生たちや帰依者たちの私に対する愛と献身を知りません。彼らは、私に奉仕するためであれば、自分たちの健康すら二の次に考えます。しかし、私はそのような奉仕は好みません。皆さんは十分に食事を取るべきです。皆さん自身の中にも神がいるのですから、自分を苦しめてはなりません。自分自身を幸せにしなさい。しかる後に社会に奉仕しなさい。皆さん方は、様々な村を訪れて、貧しい人々に奉仕をしています。これ以上に偉大な奉仕はありません。この奉仕という富は、何千万ルピーという金銭よりもはるかに偉大です。村々を一つ残らず訪れなさい。そして、貧しい人々に奉仕をして、お腹をすかせている人々に食事を与えなさい。

  私は最近、このことを皆さんにお話ししたことがあります。私は、たまたまどこかで見つけた、小さく切り抜いた新聞記事で、次のような話を読みました。ある所に、自分の息子に食事を与えるお金もない貧しい母親がいました。彼女の夫はすでに他界していました。毎日彼女は、物乞いをして息子に食べさせていました。少し前のことですが、来る日も来る日も大雨が降り、それが15日間続いたことがあります。そのため彼女は、食物を手に入れるために物乞いに出ることができませんでした。ある朝、子供は「母ちゃん。お腹がすいたよう。何か食べる物をちょうだいよう。」と言って泣き出しました。そのような状況で、彼女は何を与えることができたでしょうか? 彼女はどうすることもできずに涙を流しました。そして心の中で想いました。「息子よ、神様は私に、お前に食べさせてあげるだけの力を下さらなかったんだよ。」そのような無力な状態の中で、彼女は何とか毒を手に入れて、それを水に溶かして息子に飲ませ、その後で自分もそれを飲みました。その親子は、二人とも死んでしまいました。私は、アンナプールナ(食物の女神)として知られているこのバーラタの国において、自分の子供にすら食べ物を与えることのできない人々がいることを、非常に悲しく想いました。その日以来、私はあることを堅く心に決めました。それは、子供たちには、きちんと食べ物と教育が与えられるようにすべきだということです。そこで私は、そのような母子一組につき10万ルピーの定額預金をしました。彼らは、毎月1000ルピーの利子を受け取ることができます。毎月1000ルピーあれば、母子を養っていくのに十分ではないでしょうか? しかし、中には彼らの無知に付け込んで搾取を働こうとする者がいるかもしれません。彼らは自分の利益のために、そういう親子の心を煽って、何かの事業に10万ルピーを投資させるかもしれません。そのため、銀行の支配人にそれに関する厳しい指示を与えて、毎月利子の分だけを、対象となる母子に給付する仕組みになっています。

  もし、子供たちがよその村に住んでいるとすれば、彼らに教育を施すことができません。私たちは彼らを近くに住まわせたいと考えて、政府に適当な土地を使わせてくれるように頼みました。しかし、政府からは土地が支給されませんでした。私たちが彼らに選挙で票を入れるわけではないのですから、どうして彼らがわずかの土地でも与えてくれるでしょうか? というわけで、私は政府に頼むことをやめました。我々は、自分たちの果 樹園を持っています。私は、貧しい家族が住む住宅を作るために、その土地を使うことに決めました。私は果 物の木はいりません。私は、果物のなる木を育てるためにその土地を使う代わりに、貧しい子供たちのために使う方が善いと考えました。子供たちそのものが、果 物のような存在です。私たちは、対象となるすべての母子一組当たり、部屋が2つと台所と風呂のついた家を一軒ずつ建てようとしています。彼らは一生この家に住んで、毎月銀行から支給される利子によって、生活の必要を満たしていくことができます。私は、責任を持ってこれらの子供たちに教育を授けるための面 倒を見ます。我々には、男女共に多くの学生たちがいます。彼らが子供たちに勉強を教え、様々な訓練を施すでしょう。我々の青年男女には、どのような奉仕でもする準備ができています。私は、自分の生徒たちを誉めたいとは思いません。しかし皆さんは、ここ以外のどの場所に行っても、彼らのような学生たちを見つけることはできません。彼らは非常に徳の高い学生たちです。私は、自分の学生たちが、貧しい人や困っている人々に奉仕をして、彼らの苦しみを軽減することを望みます。学生諸君。君たちは、他の人々が何を言うかを気にする必要はありません。社会に奉仕することを堅く決意して、君たちの人生を神聖なものにしなさい。

  間もなく私はプッタパルティに行きます。すぐに学生たちの体育祭が開かれます。彼らを励まして上げなければなりません。貧しい人々のための住宅の建設も始めなければなりません。そののち、カルナタカ州全体に幸福をもたらす特別 専門病院の落成式のために、1月19日までに私はここ(ブリンダヴァン)に戻ってきます。 カルナタカ州に住むすべての心臓病患者の病気が癒されなければなりません。毎日、30例から40例の手術が行われることになります。この目的のために、30人の心臓外科の医師が、高額の給料で雇用されます。手術室は、8室から10室設けられる予定です。毎日、最低でも25例から30例の心臓外科の手術を行わなければなりません。心臓の機能障害で苦しむ患者がいてはなりません。私はそのように強く決意したのです。私は、州によって差別 をしたいとは思いません。すべての州が私のものです。すべての人が私のものです。そして、私は皆さん方すべてのものです。いかなる疑いも差し挟んではなりません。いかなる弱さにも付け込む隙を与えてはなりません。私には、皆さんが必要とするものであれば、何でも与える準備ができています。勇気を出しなさい。私がここにいるのに、いったい何を恐れるのですか?
  青年男女の皆さん! 父母の言いつけを守って、彼らを幸福にしなさい。父母が望むのであれば、結婚をして、家長としての理想的な生活を送りなさい。すべての皆さん方を祝福して、私の講話を終わります。

 今から間もなく、「サティアサイの使者」のメンバーたちが、ドラマを上演します。それは、皆さん方がテレビで見るものと違って、理想的なドラマです。良いプログラムが放送されるのであれば害はありませんが、政府は子供たちにとって好ましくないプログラムを奨励しています。私たちはそのような政府は望んでいません。私たちは、人々に真理と正義の道を歩かせる政府を望みます。ゴッドメント(『神の意志を実践する機関』の意味の造語)こそが本当の政府です。中には、自分の利己的な目的のために働いている人々がいます。そのような人々に従ってはなりません。利己主義が、彼らの生き方になってしまっているのです。それが皆さんの生き方にならないように気をつけなさい。政治に加担してはなりません。奉仕の道を進みなさい。村々を一つ残らず訪れなさい。すべての人に奉仕しなさい。神を愛する最高の方法は、すべてを愛し、すべてに仕えることです。チャーラ・サントウシャム(とても幸せです)。

 

サイババ述

出典: http://www.srisathyasai.org.in/