サティヤ サイババの御言葉

日付:2002年3月12日
マハーシヴァラートリのババの御講話①より

シヴァラートリを
真に吉祥に満ちたものにしなさい

神は全宇宙を支配し、
真理は神に多大な影響を及ぼす
しかし、真理は崇高な人々によって支配されている
崇高な人々こそは、神の化身である

(サンスクリット語の詩節)

愛の化身である皆さん!

古の人々は、いくつかの方法で神の性質を探求しました。彼らはそれを完全に理解することができなかったので、自然(プラクリティ)を崇拝し始めました。時が経つにつれて、バーラタ〔インド〕の人々は、自然を崇拝する代わりに、偶像を崇拝し始めました。

偶像は神の象徴

この宇宙に生を受けるすべての生き物には姿形(ムールティ)があります。偶像は自分で動くことができず、慈悲、愛、寛容などの性質も備えていません。一部の人々が偶像崇拝に反対しているのは、このためです。そのようなことをするのは無知を表しています。これは花です。これはコップです。これらの物を特定するために、あなたはその物を指差します。同様に、偶像は神を指し示す役割を果たします。いったん神を知ってしまえば、それを指し示す道具、すなわち偶像は、必要ありません。そうであれば、偶像崇拝に反対することは愚かなことではないでしょうか? あなたは、自分の両親や祖父母の写真を大切にしていませんか? そうした写真には命があるでしょうか? ありません。その写真には、慈悲、愛、犠牲などの性質もありません。それでは、そのような写真を尊ぶことにはどのような意味があるのでしょうか? 私たちは、写真を通じて、その人たちが大切にした美徳や理念を思い出すことができます。ですから、母親、父親、教師など、さまざまな長上の姿を尊び、称えることは、何も間違いではありません。

たとえば、100ルピー紙幣のことを考えてみましょう。紙幣には、命もなければ、愛、慈悲といった美徳もありません。それでも人々は紙幣を愛し、紙幣を持ちたいと望みます。世の中にお金を嫌いな人がいるでしょうか? 国や宗教に関係なく、誰もがお金を愛しています。お金のためだけに命を落とした人々の例は無数にあります。お金に価値があるのは、政府承認のしるしが付いているからです。同様に、国旗は自分で動く力もないただの1枚の布であるにもかかわらず、私たちは、国家の栄誉を象徴するものとして、国旗に敬意を表します。もし偶像崇拝が愚かなものと思われているのなら、同様に生命のないお金に対する愛や、国旗に対する敬意に関しても、同じことが言われるべきです。

サティヤ サイは、四つのヴェーダを象徴している

イーシャーヴァースヤム イダム ジャガット
(全世界に神が浸透している)

すべての生き物がイーシュワラ(全能の神)の化身です。また、

イーシュワラ サルヴァ ブーターナーム
(神は万物の内在者である)

とも言われます。神は、あらゆる生き物の中に、意識という形で存在しています。イーシュワラは、ダルマ(正義)・アイシュワルヤ(富)・ヤシャス(名声)・シャクティ(力)・グニャーナ(英知)・ヴァイラーギャ(無執着)という、6種類の富の主です。

イーシュワラには、「シャンカラ」というもう一つの名前があります。「シャン」とは、「永遠の至福」(チダアーナンダ)と「真我の至福」(アートマアーナンダ)のことであり、「カラ」とは、「授ける者」のことです。ですから、「シャンカラ」とは、「永遠の至福を授ける者」のことです。一つひとつの単語には深い内的意味があります。

たとえば、「サティヤ サーイ」〔「サイ」はサンスクリット語ではサーイ/Saayiという〕という名前のことを考えてみましょう。「サティヤ」はリグ ヴェーダを表しています。「サーイ」〔Saayi〕という単語の中の「Sa」、「Aa」、「Ya」という音は、それぞれ、サーマ ヴェーダ、アタルヴァーナ ヴェーダ、ヤジュル ヴェーダを表しています。ですから、サティヤ サーイは、4つのヴェーダの化身そのものです。(大きな拍手)

「リンガ」という単語の意味は何でしょう? リンガは神の象徴です。というのも、それには始まりも終わりもないからです。神はすべての人のハート(フルダヤ)に内在しています。「フルダヤ(ハート)」とは、「ダヤー(慈悲)」に満ちたもののことです。ですから、神は慈悲の化身です。

今日、人々は神の原理を理解することができません。人々はさまざまな神の姿を崇拝し、いくつもの異なった礼拝様式を取り入れていますが、礼拝は同じ神に向けられているのです。あなたは、神をラーマ、クリシュナ、アッラー、イーシュワラなど、さまざまな名前で呼ぶかもしれません。これらの名前は、すべて同じ神を呼ぶ名前なのです。人々はそれぞれ自分の好みにしたがって、特定の姿の神を崇拝しています。ラーマという名前に愛着を持っているためにラーマを崇拝している人々もいます。「ラーマはすべての人の心を魅了する存在である」と言われています。

今日はシヴァラートリです。「シヴァラートリ」とは、「吉祥の夜」という意味です。シヴァは、「ソーハム」(Soham)という、皆さんが呼吸をするたびに発している音の象徴です。「ハム」(ham)は「私」、「ソー」(so)〔サ(sa)〕は「あれ〔それ〕(神)」を意味しています。この「私は神である」というメッセージは、皆さんの呼吸を通して、1日に21,600回伝えられています。ソーハムは、ハムサ ガーヤトリーと呼ばれています。バーラタでは、太古の時代からこのような教えが伝えられ、実践されてきました。バーラタ人のこのような習慣を軽蔑してはなりません。それらは皆さんを神に導いてくれます。

花を指し示すのは人差し指です。同様に、神の像は神性を指し示しています。ですから、偶像崇拝を愚かだと考えることはできません。単に生命が宿っていないからというだけで偶像を軽視すべきではありません。自分で動く力を持っていない物体にさえも、チャイタンニャ(意識)は存在しています。すべての原子にチャイタンニャ(意識)は宿っています。

アノーラニーヤーン マハトー マヒーヤーン
(ブラフマン〔神〕は、もっとも微妙なものよりもさらに微妙であり、
もっとも大きなものよりもさらに巨大である)

このチャイタンニャ(意識)は、もっとも小さなものからもっとも大きなものにいたるまで、あらゆる物質の中に存在しています。あなたの考えでは、物体は自分で動く力をもたないように見えるかもしれませんが、ヴェーダーンタの見解によれば、すべてのものがチャイタンニャなのです。チャイタンニャの存在を見過ごすのは愚かなことです。もしチャイタンニャが万物に浸透しているのであれば、なぜそれを我々の肉眼で見ることができないのか、と疑問に思う人がいるかもしれません。皆さんは誰でも、ミルクの一滴一滴の中にバターが存在しているという事実をよく知っています。肉眼で見ることができないからという理由だけで、バターの存在を否定することができるでしょうか? バターを手に入れる手順には、ミルクを凝固させて、撹拌することが含まれています。

人を批判しないこと

人間は、2つの欠点のために、このチャイタンニャ(意識)の原理を認識することができません。その欠点とは、

  1. 自分の無数の短所を見過ごしていること
  2. 他人のもっとも小さな欠点を拡大していること
 です。人は、自分の過ちを隠すことをやめ、他者の欠点を拡大することをやめたときに、初めて神を実現することができます。他人の欠点を探すことは大きな罪です。その代わりに、自分の欠点を探しなさい。自分の短所は、どれほど小さなものでも大きな失態と見なして、それを改めるよう努めなさい。他者の欠点は、どれほど大きくても、それを無視しなさい。人を批判してはなりません。その代わりに、自分自身を批判し、「人間として生まれていながら、私はこのように振る舞ってよいのだろうか?」と自問しなさい。真の霊性修行とは、自分自身の欠点を見つけて、それらを改めることです。それには、よこしまな傾向を手放して、崇高な習性を培うことが関係しています。それが真のサーダナ(霊性修行)です。サーダナの「サ」は、あらゆる富(ダナ)の姿形の化身である神性を表しています。今日、人の欠点を見つける人の数は増える一方です。これが社会不安の原因です。平安を得たいと願う人であれば誰でも、自分の欠点を取り除かなければなりません。そうして初めて、神を実現すること〔真我顕現〕ができるのです。人を批判することは最大の罪です。私たちはそのような罪の餌食になってはなりません。

現代では、人々は怒りの餌食になっています。怒りに影響されるのは誰でしょう?ほかでもなく、あなたが影響されるのです。

怒りは人の敵
平安は人を保護する循、慈悲は真の親戚
幸福は天国、苦痛は地獄

(テルグ語の詩)

と言われています。ですから、自分の怒りをコントロールするよう努力しなさい。すべての生き物が神の化身なのですから、自分自身を優れていると見なし、他者を劣っていると見なすのは愚かなことです。

神はどこにいるでしょう? 神はすべての人の中に、またすべての生き物の中にいます。

イーシュワラ サルヴァブーターナーム
(神は万物の内在者である)

ダイヴァム マーヌシャルーペーナ
(神は人間の姿をとる)

と言われるのはそのためです。すべてを神と見なすとき、あなたは決して人の批判をしなくなるでしょう。神は、人をその人の気持ちで判断します。神は、バーヴァプリヤ(気持ちを愛する者)であって、バーフヤプリヤ(外見的な見せ掛けを愛する者)ではありません。ですから、あなたの目を内に向けるよう努めなさい。

パシュヤティ イティ パシュフ
(外に見えているもののみに頼る者は動物である)

真の人間とは、内を見る人です。動物は、緑に覆われた土地を見つけると、自分の行動の是非について考えることなく、直ちにその場所に駆け付けます。識別力を持って行動することは人間の義務です。人間は、常に自分の義務を意識していなければなりません。自分の義務を忘れることは大きな過ちです。ここに小さな例があります。今日、皆さんは、自分が決めた飛行機やバスに乗りたいと考えたとします。もし、バスや飛行機の到着が遅れたとすれば、乗客は非常に迷惑をこうむります。このような事態は、乗り物の運行の責任者が自分の義務をまじめに果たさなかったことが原因で起きます。自分の義務を忘れる人は、人間性と人間的価値を失います。サティヤ〔真理/真実〕・ダルマ・シャーンティ〔平安〕・プレーマ〔愛〕・アヒムサー〔非暴力〕という人間的価値を実践しない人を、人間と呼ぶことはできません。五大価値は、人間にとって、5つの生気のようなものです。これらの生気が欠如していれば、生ける屍と同じです。一人ひとりが、自分の転落に責任があります。人間は、これらの人間的価値を忘れたり軽視したりすることによって、自らの破滅を招くのです。

いかなる状況においても真実を守ること

愛の化身である皆さん!

愛こそは、皆さんの最大の資産です。愛を育て、常に真実を語りなさい。真実は苦く響きますが、その一方で、人々は虚偽によってたやすく喜びます。人々は、戸口に運ばれてくる牛乳は好みませんが、お酒を一瓶飲むためには、一度に何キロも歩くこともいといません。虚偽は現代の風潮になっています。偽りは他の人々を喜ばすかもしれませんが、あなたの良心を満足させることはできません。他の人々を満足させる前に、自分の良心を満足させるよう努力しなさい。あらゆる状況において、真実の道を守りなさい。真実を語ることによって何らかの危険が生じる可能性があるときは、沈黙を守りなさい。

ここに小さな例え話があります。あるところに隠遁者がいて、神を深く黙想する日々を送っていました。彼は、常に真実を語ることを神に誓っていました。イーシュワラ〔シヴァ神〕は、彼をテストしたいと考えました。イーシュワラは猟師に姿を変え、鹿を追い始めました。鹿は恐怖のあまり隠遁者の庵のそばにある茂みに身を隠しました。隠遁者はそれを見ていました。鹿の行方を猟師に尋ねられた隠遁者は、ジレンマに陥りました。知らないふりをして鹿を見なかったと言えば嘘になるので、それはできませんでした。一方、猟師が殺してしまうといけないので、鹿の居所を教えることもできなかったのです。その結果として鹿が殺されれば、隠遁者は罪の片棒を担ぐことになります。隠遁者はこの苦境を抜ける道を求めて、イーシュワラに熱心に祈りました。すると、神の恩寵によって素晴らしいアイデアがひらめきました。神は常にあなたと共にいます。また、あなたの中にも、あなたの周囲にも、あなたの上にもいて、あなたを導き、守っています。神が近くにいるというのに、何を恐れることがあるでしょう? 隠遁者は、「おお、猟師よ、見ることのできる目は語ることができず、語ることのできる口は見ることができない」と答えました。そのような機知に富んだ答えによって、隠遁者は自らの真実の誓いを守ったのみならず、鹿の命も守ったのです。すると、主イーシュワラが真の姿を顕して、「自らの利益のみならず他者の利益をも守る、そのようなユクティ(機知)こそは、真のヨーガである」と宣言しました。だからこそ、「真実は舌の命、正しい行い〔ダルマ〕は手の命、非暴力はハートの命である」と言われているのです。シヴァラートリは、人間にこれらの価値を教えるために祝われています。

霊性とは何か?

シヴァ神は謙虚さの象徴でもあります。謙虚な人は、シヴァム(吉祥)の化身です。一方、エゴを持った人は、まさにシャヴァム(屍)にほかなりません。絶えざる祈りによって、人はいかなる困難な状況をも克服することができます。崇高な思いを育てて、困っている人々を助けなさい。いかなる人をも傷つけてはなりません。あなたが他の人に対して与えた危害は、あなたに戻ってくるでしょう。批判や非難は世俗的な習性であり、マイナスの性質のものです。プラスの特質を育てなさい。あなたがよこしまな性質を手放すことができないのであれば、今まで受けたすべての教育はいったい何の役に立つでしょうか?

教育と知性があっても
愚かな人は真の自分を知らず
卑しい心の持ち主は自分の悪い性質を手放さない
現代の教育は、議論をもたらすのみで、完全な英知をもたらすことはない
もし世俗的な教育があなたを不減の命へと導くのでないとすれば
そのようなものを身に付けて、いったい何の役に立つだろうか?
あなたを不滅の存在にしてくれる知識を身に付けなさい

(テルグ語の詩)

人間として生まれ、さまざまな形の知識を身に付けたからには、人は自らの動物的傾向を取り除かなければなりません。

パローパカーラヤ プンニャーヤ
パーパーヤ パラピーダナム
(人は、他者に奉仕することによって徳を積み、
他者を傷つけることによって罪を犯す)

Help Ever, Hurt Never
常に助け、決して傷つけない

聖仙ヴィヤーサが説いたように、これこそが、18のプラーナの真髄です。あなたが苦しまなければならなくても決して気にすることはありません。しかし、他者を苦しめてはなりません。あなたの面倒は神が見てくれます。あなたの行動は、人間というあなたの身分にふさわしいものであるべきです。もしあなたが他者に内在する神を忘れてしまったとすれば、自分のことを人間と呼ぶことができるでしょうか? 人間として振る舞いなさい。あなたは人類の一員なのです。道徳と誠実さこそは、人類の生命原理です。道徳心を育て、正直な人生を送りなさい。そうして初めて、あなたはイーシュワラ(神性)に到達することができるのです。バーラタ〔インド〕の文化は、同一の神が万物に内在しているということを、主要原理としています。人間の最大の目標は、多様性の中の一体性に気付くことです。しかし今日、人間は、心の狭さのために、一体性を多様性へと断片化しています。

神聖アートマの化身である皆さん!

「私」、「私のもの」という感情を手放しなさい。最初に、あなた自身を知りなさい。「私は誰か?」と自問しなさい。自分の本当の姿が分かってしまえば、すべてのものが一つであることが分かります。あなたが自分はアートマ〔真我〕の化身であることが分かれば、あなた以外のすべての人もアートマの化身であることが分かります。あなたは、世界中のすべての人を知ることはできません。しかし、もし真の自分を知ることができれば、すべての人を知ることになります。不平等は、世俗的な次元にしか存在しません。霊性の次元においては、完全な平等が存在しています。

アーディヤートミカ(霊性)とは何でしょう? あなたの動物的傾向を取り除き、神のレベルヘと昇ることこそが、真の霊性の意味です。「アーディヤートミカ」(霊性)とは、「アディ」(永遠)と「アートマ」(真我)のことです。ですから、真のアーディヤートミカ(霊性)とは、永遠の真我に関係するもののことです。あなたと私は一つであるという事実を知ることが真のアーディヤートミカ(霊性)です。他の人々から受ける批判に心を悩ませてはなりません。

誰かに傷つけられても反応しないこと

ダルマラージャがラージャスーヤ ヤグニャ〔王供犠〕という供犠の中で、クリシュナにアグラタームブーラムという最高の捧げ物をしたとき、邪悪なシシュパーラは、クリシュナにはそれを受ける資格がないと言いました。彼はクリシュナに悪口雑言を浴びせかけて、

お前はゴーピカーたちが水浴をしている時に彼女たちのサリーを盗んだから
自分はこの栄誉を受ける資格があると考えているのか?
それとも、ゴーピカーたちをからかったので、その資格があると考えているのか?
このような、人目をはばからぬ自己権力の拡大をするのはやめて、黙れ!

(テルグ語の詩)

と言いました。ダルマラージャは、シシュパーラが宮廷の公の場でクリシュナに対して無礼な口の利き方をしたことを、非常に悲しく感じました。いったいシシュパーラは、どのような権利があってこのようにクリシュナを批判したのでしょうか? 彼の問題は、個人的な落胆から生まれました。深く心が傷ついたダルマラージャは、クリシュナの足元にひれ伏して言いました。「おお、主よ! このようなひどい批判をお受けになっても、微笑んでおられるのはなぜですか? 主は微笑んでおられるかもしれませんが、私は悲しみの涙を流しています」。するとクリシュナは答えました。「ダルマラージャよ、賞賛も非難も、真我にではなく、肉体に関係している。なぜ、批判されれば気がふさぎ、賞賛されれば有頂天になる必要があるのか? お前の肉体はさまざまな病気の源であり、お前を苦しめるものだ。したがって、誰であれ、お前の肉体を批判する者があれば、実はその人は、お前のためになることをしてくれているのだと知るがよい」。ダルマラージャは、クリシュナの返答に非常に満足して、「おお主よ! 人々は、あなた様のような師を見つけることができないために、無知に苦しんでいるのです」と言いました。

沈黙には大きな価値があります。

モーウナト カラハム ナースティ
(沈黙を守っていれば口論に巻き込まれることはない)

あなたを傷つける人々に挨拶をしなさい。攻撃を受けても、攻撃を返してはなりません。もしあなたが敵と同じように行動したとすれば、どうして相手があなたよりも劣っていると言えるでしょう? 相手が間違った行為をしていると言いながら、あなたが相手と同じような行動をとったとすれば、それは正しいことでしょうか? 決してそのような行動をとってはなりません。攻撃をする人がいれば、攻撃的な行動を続けさせなさい。皆さんは、決してそれに反応してはなりません。何があっても人の悪口を言ってはなりません。

私たちの日々の祈りは、

ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ
(世界のすべての人が幸せになりますように!)

です。みんなが幸せであるとき、あなたも「みんな」の中に含まれています。私たちは、すべての人の幸福と健康のために祈ります。誰に対してであれ、決して人の不幸を願ってはなりません。この世には憎しみは存在しません。みんなが友だちです。もしあなたが、すべての人の幸せを願い、すべての人の繁栄を祈りながら、このような神聖な態度で行動するのであれば、あなたは世界中の理想となるでしょう。あなたは、この理想を実現するためにこそ、この世に生を受けたのです。一人ひとりが創造された背景には、それぞれの目的があります。だからこそ、神はあなたを創造したのです。そしてこのためにこそ、あなたには愛する力が与えられているのです。自分の良心に従って行動しなさい。あなたの一つひとつの行動のすべてを神に捧げなさい。

おお、主よ!
あなたは私にハートをお授けくださいました
私はそのハートの行いのすべてをあなたに捧げます
そのほかの何をもってあなたの御足を崇めることができるでしょう?
どうかこのことを、私の慎ましい挨拶と共に受け入れてください

(テルグ語の詩)

「あなたが私に授けてくださった、比類なく貴重な賜物は愛です。この愛をすべての同胞と分かち合うことが私の義務です。そうすることが、私があなたの賜物を理解したというしるしです」――皆さんが神に捧げなければならないのは、このような祈りです。怒り、憎しみ、妬みに満ちている人は、妻子をはじめとする身近な人も含めて、すべての人に遠ざけられます。ですから皆さんは、このようなよこしまな性癖に陥らないようにすべきです。

よこしまな性癖は人間性を破壊する

愛の原理を理解してしまえば、すべてのよこしまな性癖は、ひとりでにあなたから離れていきます。人間性の本質は神性です。生まれたばかりの子どもは、もともと純粋です。しかし、成長するにつれて、子どもは段々と悪い性癖を蓄えはじめます。よこしまな性癖は、あなた自身が作ったものです。それは、最後にはあなたの人間性そのものを破壊してしまいます。人間としてのあなたの特性を壊してはなりません。人間性というものは、何と神聖で、何と崇高で、神々しく、尊いものでしょう! 皆さんは、そのような崇高な人間性を、故意に破壊しています。決してあなたの利己心や私利私欲のために、人を傷つけてはなりません。人の幸せを喜びなさい。そうして初めて、あなたは人間性を身に付けることができます。人間として生まれた以上は、動物のような生活をしてはなりません。残虐性は動物の性質です。人を傷つけることによって、あなたは人間性を失い、獣になります。人を脅す時、あなたは野獣になります。もしあなたが誰かを恐れるなら、あなたは肉食動物に食べられる獲物に成り下がります。あなたは人間です。あなたは肉食獣でも獲物の小動物でもありません。あなたは人間なのです。決して誰をも傷つけることなく、自分の中に幸せな態度を育てなさい。そうすればあなたの幸福は倍増します。

神は常に「タターストゥ、タターストゥ!」(そのとおりになるように!)と言い続けています。あなたが願うとおりに物事が起きるのです。もしあなたが悪意を持っているのであれば、悪いことが起きるでしょう。もしあなたが常に善意に満ちているのであれば、それと同じだけ、あなたは神の祝福を受けるでしょう。あなたの行動にはすべて反作用が生じます。反作用は直ちに生じるとは限りませんが、遅かれ早かれ必ず生じるのです。ですからあなたは、他者を傷つけたり、他者から傷つけられたりしないような生き方をして、至福に満ちた生活を送るべきです。人生を栄光で満たしなさい。あなたが学んだことを良いことのために役立てなさい。人を敬い、人から敬われなさい。人を敬わなければ、決して人から敬われることはありません。愛して、そのお返しとしての愛を受けなさい。これが真の人間性です。皆さんの教育は、そのような美徳を培うことを目的としています。

最近の学生は、学問の特定の分野を専門的に勉強しています。そのような学問的な成果は、すべて本質的にマイナスです。そうして学んだことは、人生においてどう役立っているでしょう? テルグ語には、「洗濯屋は学者よりも優れている」という諺があります。洗濯屋があなたの家から衣服を集めるとき、あなたは洗濯に出した衣類の数と種類を詳しく帳面に記録します。しかし、洗濯屋は帳面を必要としません。彼はどこに行くにも帳面を持ち歩きません。洗濯屋はすべての情報を自分の頭の中に収めて、ちゃんと洗濯してアイロンをかけた衣服をあなたに届けます。彼はどのような勉強をしたでしょうか? 学問的な勉強とは別に、私たちは人を助けることや奉仕することを学ぶべきです。私たちが人に奉仕することを助ける学習こそが、真の教育です。あなたが受ける教育は、社会全般にとって有益なものでなければなりません。あなたは、人を助けて初めて純粋になれるのです。

古の人々は自然を崇拝しました。自然を崇拝することは、全然間違いではありません。私たちに食べ物や、衣服や、住まいを供給してくれるのは、自然にほかなりません。そればかりか、自然は金や銀のような貴金属も供給してくれます。それなのに、自然崇拝のどこが悪いというのでしょう? 我々の先祖が行っていた崇拝の様式は、どれも非常に神聖です。ブーマータ(母なる大地)、ゴーマータ(母なる牛)、ヴェーダマータ(母なるヴェーダ)、そして、デーハマータ(体の母〔産みの親〕)は尊敬すべき存在です。しかし、何にもまして、人間は神を崇拝すべきです。人々が神を崇拝しなくなったために、世界中が混沌に陥っています。神への崇拝のみが、一国の安全を守ることができるのです。人々が神を思うようになれば、国家は豊かさと繁栄に恵まれ、国民は幸せな生活を送るようになります。私たちは日々の祈りの中で、シャーンティ マントラを〔「シャーンティ シャンーンティ シャーンティヒ」と〕3回繰り返します。これは何を意味しているのでしょう? 私たちは、体、心、霊〔アートマ〕という3つのレベルすべてにおいて平安を獲得すべきだということです。外側の世界には平安(peace)は存在しません。そこに見いだされるのは断片(piece)のみです。平安はあなたの中にあります。あなたの内なる平安を顕現する努力をしなさい。

愛の化身である皆さん!

今日はシヴァラートリ、シャンカラ〔吉兆/シヴァ神〕の夜です。シャンカラは私たちのハートの中にいます。シャンカラは最高の至福の源です。この至福を人々と分かち合うことによって、至福の領域を拡大しなさい。そうして初めて、人生は神聖なものとなります。一晩中、神聖な神名を唱えながら過ごして、その神聖なエネルギーをあまねく世界に広げなさい。それが神性の本当のしるしです。イーシュワラとは誰でしょう? イーシュワラはすべてに浸透しています。風がどこでも自由に吹くように、イーシュワラの原理もいたるところに見ることができます。あなたの愛をすべての人々と分かち合って、全世界に神の御名を浸透させなさい。

(バガヴァンは「ハリ バジャナ ビナースカ シャーンティナヒ」〔神への讃歌なくして幸福と平安はない〕のバジャンで御講話を締めくくられました)

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:“Sanathana Sarathi” April 2002, p.97~105

*この御講話はサイラム ニュース Vol.85(2002年7・8月号)pp.2~13に掲載した御講話に加筆・修正を行ったものです。