サティヤ サイババの御言葉

日付:2002年3月13日
マハーシヴァラートリのババの御講話②より

神の磁力とヒランニャガルバ リンガム

カイラーサの神がその姿を顕わした
頭に三日月
もつれ髪から流れるガンジスの冷水
眉間に眼
紫紺の首には、つややかな黒苺のごとき光沢
大蛇を巻き付けた腕と腰
ヴィブーティで覆われた全身
クムクムで飾った額の点
血色の良い唇はキンマの汁でさらに赤い
耳元に揺れる、ダイヤをちりばめた金の耳輪
浅黒い全身は神の光輝を放射する

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん! 磁力は地球全体に遍満しています。地上の生物と物体はすべてこの磁力を持っています。流れる川、吹く風、咲く花は皆、磁力を持っています。大地の近くに川を流れさせ、地表に風を吹かせているのは磁力です。磁力はすべてにみなぎっています。

寺院にある神聖な磁力

バクティ(信愛)を抱き、プラパッティ(全託)をしている人は、寺院を訪れます。磁力は、そうした人々の信愛と信仰心によって生じます。寺院の中で人々が信愛の心で供える花や果物も、この磁力を備えています。何千人という帰依者が集まるために、莫大な量の磁力がこのマンディル〔寺院/ダルシャン会場〕に集積しています。すべてにみなぎるその磁力は、さらに輝きを増して、このマンディルで光り輝いています。帰依者たちが絶え間なくマンディルに流れ込んでくるために、この磁力は絶えず強まっています。

鉄くずは磁石に付くと磁力を持つようになります。同様に、マンディルを訪れる人々は磁力で満たされます。マンディルが強大な力で満ちているのは、ただただ帰依者たちの磁力によるものです。人は誰でも、頭からつま先まで磁力で満ちています。けれども、人は自分に潜在しているその生来の力に気付かずに、祝福や恩寵を求めて寺院を訪れるのです。寺院それ自体は何も特別な力は持っていません。人の内にある自らの磁力が、外に影響を及ぼしているのです。人々はティルパティ、ハリドワール、リシケーシュといったさまざまな巡礼地を訪れます。巡礼地にある力は、巡礼者が心に抱く信愛と信仰心の力に起因しています。

神は、ダルマ(正義)・アイシュワルヤ(富)・ヤシャス(名声)・シャクティ(力)・グニャーナ(英知)・ヴァイラーギャ(無執着)という富の6つの形態の化身です。こうした富は人にも潜在していますが、正しく使うことができないために、人はそれらを失いつつあります。人がこのシャダアイシュワルヤ(富の6つの形態)を正しく用いたとき、人の神性は燦然と光り輝きます。そのような人の顔には神々しい輝きがあります。

ヴェーンカタラーマン〔物理学博士〕が話したように、人は皆、「具現」と「振動」と「放射」の組み合わせです。四肢と筋肉を備えた人間の体は、「具現」とも称されます。プラーナ シャクティ(生命力)は、「振動」とも称されます。この2つは、「放射」とも称されるアートマ〔真我〕の力によって結合されています。

人にはあらゆる神聖な力が生来備わっています。けれども、人はその神聖な力に注意を集中していません。人は自分を体と同一視していますが、実際には、人は体ではありません。もしそうでなければ、なぜ人は「これは私の体です」などと言うのでしょうか? あなたが「これは私の体です」と言うとき、あなたと体は別個のものです。人は、自分は体であると考え、それに惑わされているのです。人は、自己の本質に関する誤った概念のために、自らが持っている神聖な輝きを失いつつあります。

「振動」は呼吸のプロセスを表しています。ときたま、人は「私の呼吸が乱れている」などと言います。それは、あなたと呼吸のプロセスは別個のものであることを示しています。人は自分を、自分とは完全に別のものと同一視しているために、どっぷりと無知に漬かっているのです。

パシヤンナピチャ ナ パシヤティ ムードー
(目で見ても真実に気付かないのは愚か者である)

このような誤った自己認識は愚かさへと導きます。

「放射」は神であり、これこそが人の真の本質です。それは磁力であり、すべての人に潜在しています。この磁力は神性に満ちています。それは寺院にあるものと同じ神聖な力であり、万物を引き付けます。それゆえに、人を引き付けることが、あらゆる寺院の属性なのです。

リンガムの形成過程

そうした磁力はどこから来るのでしょうか? 磁力はどこか外部から来るのではありません。磁力はすべての人に内在しています。同様に、金や鉄といった金属も人の内にあります。ヴェーダは「ラソー ヴァイ サハ」〔それはラサなり〕(神はエッセンス〔ラサ〕の形をとって万物に遍満している)と宣言しています。

神はヒランニャガルバ(金の子宮を有する者)と称されます。神の胎内のラサ(金のエッセンス)は、活発な撹拌過程を経て、リンガムの形状をとります。リンゴードバヴァ〔リンガムの顕現/体内からリンガムを現出すること〕の意義とは何でしょう? リンガムは象徴あるいは印を意味します。

(ここでバガヴァンは、この御講話の冒頭で創造なさった〔体内で創り出して口から現出させた〕金のリンガムを掲げておっしゃいました)

見てのとおり、リンガムは目や顔といった他との区別を示す特徴は備えていません。リンガムには足も頭もありません。リンガムはどんなふうにも回転させることができます。リンガムの頭はどこでしょうか? 足はどこでしょうか? リンガムは無形の神を象徴しています。

リーヤテー ガミヤテー イティ リンガ
(リンガムは万物の源であり、万物が行き着くところである)

リンガムは万物の基盤です。金のエッセンスはリンガムの形状をとってから現出します。金を溶かすには火が必要です。それと同様に、体の内にある炎が金を溶かします。それから、金はリンガムの形にかたどられます。そのようなわけで、リンガムの現出には困難を伴うのです。金はリンガムの形をとってから口の外に出なければならないのです。皆さんは、リンゴードバヴァの時にスワミは多くのバーダ(苫痛)を強いられていると感じています。それは、実際には「バーダ(苦痛)」ではなく、皆さんのための「ボーダ(教え)」なのです。〔大喝采〕子どもを産むとき陣痛に耐えるのは、母親にとって自然なことではありませんか? 多くの苦痛を強いられるからといって、子どもを産むのを嫌がる母親がいるでしょうか? 母親は喜んで子どもを産み、いつも子どもの幸福を願っています。同じように、スワミはリンガムの現出の時、いかなる苦痛も感じません。私はそれを「バーダ(苦痛)」であるとは考えていません。これほど大勢の皆さんに重要な「ボーダ(教え)」を授けていることが、私には嬉しいのです。

神には、いかなる苦痛も、心配も、困難も、いっさいありません。ところが、皆さんは、スワミがひどい苦痛や困難を強いられていると思っています。こうしたリンガムの形成を容易にするために、私の体は強力な磁石と化しました、そのため、私はこの3日間歩行が困難でした、私の体の磁力によって、足が地面にくっついてしまったからです。また、私が触った物は何であれ、私の手にくっついてしまいました。私にとってそれは問題ではありませんでした。私の全身が磁気を帯びたのですから、むしろそれはもっともなことです。このような引きつける力は誰もが体験できるものではありません。こうしたきわめて強力な磁力は、神だけが持っているものです。これらのことを万人に明かすことはできません。神聖な磁力はあらゆる人の内にありますが、人には一定の限界があります。一方、神にはいかなる限界もいっさいありません。神はあらゆる限界を超越していますが、皆さんは、そこにもある種の限界があると考えようとするのです。

体の磁力に気付きなさい

磁力は至る所に存在しています。空気、水、食物、音など、あらゆるものは磁力で覆われています。

ダイヴァディーナム ジャガット サルヴァム
(全宇宙は、神の支配下にある)

サティヤディーナム ダイヴァタム
(神は、真理の支配下にある)

何もかもが真理の原理に包含されています。あなたが真理を守るなら、あらゆる神聖な力があなたの内に顕現します。

タットサッティヤム ウッタマディーナム
(真理は、気高い魂に支配される)

気高い人とはどのような人ですか? 気高い人とは、平安と愛と慈悲にあふれる人のことです。

ウッタモー パラデーヴァタ
(かくのごとく気高い魂は、まことに神である)

人は、自らに内在している神聖な力に気付いていないため、神を求めて巡礼の旅に出ます。自らに内在している神聖な力に気付いた人は、そうしたどんな霊性修行も始める必要はありません。

ブリジットという名のロシア人女性が、強力な磁力を獲得しました。彼女が道を歩くと、必ず鉄を含んだ物が彼女に引き寄せられました。彼女はどの店にも入店を断られました。なぜなら、店の商品が彼女にくっついてしまうからです。磁力を備えるだけでは十分ではありません。自分でその力をコントロールできてしかるべきなのです。彼女は自分の磁力をコントロールできませんでした。彼女は物を食べることすらできませんでした。自分の磁力をコントロールする力がなかったために、彼女は早死にしてしまいました。

同様に、車を運転する人は、車をコントロールする技能を備えているべきです。自分の運転している乗り物をコントロールできなければ、必ず事故に遭います。私たちの体は車に例えることができます。目はヘッドライト、口は警笛、心(マインド)はハンドル、お腹はガソリンタンクです。人生の4つの目的、すなわち、ダルマ〔本分〕・アルタ〔実利/富〕・カーマ〔欲望〕・モークシャ〔解脱〕は、4つのタイヤのようなものです。あなたは、これらのタイヤを信仰心という空気で膨らますべきです。フロントタイヤの空気圧は、リアタイヤの空気圧とは変えておくべきです。

タンク(お腹)の中のガソリン(食べ物)は、純粋で汚れのないものであるべきです。ガソリンが純正でなければ、詰まりを起こしかねません。ですから、人はサーットウィカ フード(浄性の食物)のみをとるべきです。私たちが飲む水も、純粋で汚れのないものであるべきです。そうして初めて、体という車のコンディションは良い状態になり、私たちを目的地へと運んでくれるのです。人生は、人が自らの体の原理を理解して、初めて有意義に過ごされるのです。だからこそ、人は体の磁力に気付くべきなのです。この原理を理解していないことが、人が悩む原因です。

生まれてくるのも悩みの種
生きていくのも悩みの種
この世も悩みと死の原因
幼少期は悩みの種 老年期は悩みの種
人生は悩みの種 失敗もまたしかり
すべての行為と困難は悩みを誘発し
幸福さえも不可解な悩みの種

(テルグ語の詩)

喜びや悩みは、あなたの感情を基盤としています。もし、あなたが、体は心配の原因となると考えるなら、そのとおりになります。逆に、あなたが体を神聖なものと考えるなら、あなたにとって体は幸福の源泉となります。実際、神の創造物に悪いものはありません。何もかもが神聖で、磁力に満ちています。体は、磁力のある寺院のようなものです。ですから、あなたの起こす行動は何であれ、神聖であるべきです。不正行為を行えば、あなたはその悪果にも直面しなければなりません。ジャパ〔神の御名やマントラをくり返し唱えること〕やディヤーナ〔瞑想/坐禅〕といった霊性修行は、一時の心の満足を与えてくれるだけです。そうした修行で磁力を顕現させることはできません。

9つの信愛の道があります。それは、シュラヴァナム(聴くこと)・キールタナム(歌うこと)・ヴィシュヌスマラナム(ヴィシュヌ神を黙想すること)・パーダセーヴァナム(神の蓮華の御足に奉仕すること)・ヴァンダナム(賞賛)・アルチャナム(礼拝)・ダースヤム(召し使いになること)・スネーハム(友情)・アートマニヴェーダナム(真我への全託)です。アートマニヴェーダナム(真我への全託)はスネーハム(友情)の後にのみ生じます。ですから、あなたは神との友情を育てるよう努めるべきです。スネーハム(友情)なくしてアートマニヴェーダナム(真我への全託)の境地に達することはできません。アートマニヴェーダナム(真我への全託)に達するまでは、遍く行き渡っている神の磁力の原理を理解することはできません。磁力はあなたのあらゆる行いの基盤です。

寺院はアヤスカンタ マンディル(磁力の中心地)にほかなりません。皆さんが寺院で感じる力とは、実のところ、磁力なのです。皆さんは、ティルパティ〔ヴェーンカテーシュワラ神を祀る寺院のある南インドの聖地〕にはたいへんな力があると感じています。それは、そこに祀られている主ヴェーンカテーシュワラ(ヴィシュヌ神〉の力なのではありません。それは、帰依者たちの信仰心と信愛の力なのです。たとえば、どんな寺院をとってみても、そこには磁力があります。人がその力を感じることができるのは寺院でだけであり、他の場所では感じられません。その理由は何でしょう? 寺院に祀られている神々、僧侶、アビシェーカム〔灌頂/神像の頭に水をかける儀式〕に使う水、礼拝に用いられる花やアクシャタ(聖別された米)、すべてに磁力がみなぎっています。これこそが、人が寺院に引き寄せられる理由なのです。

神の根本的な原理にしがみついていなさい

私たちの体も、磁力を持つ寺院のようなものです。ですから、体は神聖な目的のために活用しなければなりません。あなたが、怒り、嫉妬、憎しみといった悪い習性に付け入る隙を与えた時、あなたの磁力の多くは浪費されてしまいます。嗅覚、触覚、味覚といった感覚は、磁力の作用にほかなりません。

デリーやチェンナイのラジオ局が流している番組を、ここでも生で聴くことができます。それはどうして可能なのでしょうか? 神聖な磁力があらゆる場所に音波を運んでいるのです。このことは、どんな科学者や技術者にも理解することはできません。科学者は、体内で行われている消化や血液循環のプロセスを説明することができますか? できません、あらゆる生物の心拍数はそれぞれ決まっています。どの科学者がこのことを説明できますか? これらはすべて神によって定められているのです。医師たちは自分たちの功績を誇りに思っています。しかし、実際は、神の意志なくしては、何人たりとも、何事も成就することはできないのです。医師たちは、心臓がどのように鼓動するのかは知っていますが、なぜ心臓が鼓動し、誰が心臓を動かしているのかは知りません。

体が機能するのは、人の努力によってではなく、神の意志によるものです。しかし、人は、エゴと「自分がやっている」という感覚のせいで、このことを理解することができません。もちろん、すべての行為において、それを実行するには人の努力が不可欠です。ただし、神の恩寵なくしては何事も成就され得ないのです。

例をあげてみましょう。神は稲を創造しました。けれども、皆さんは稲をそのまま食べることはできません。もみ殻を取り除き、米を炊いて、調理しなければなりません。この精製プロセスは、サムスカーラ〔変容や改善のための浄化行為〕とも称されます。サムスカーラは人の努力を示しています。けれども、被造物は神の手の中にあるのです。誰もが神への固い信仰心を抱くべきです。無知な人々は神の存在を信じていません。そのような人々でさえ、こうした被造物の背後には何か人知の及ばない力が存在するに違いない、ということは認めます。まさしくその力こそが神であり、神なくして人は存在することはできません。

先ほど私が述べたとおり、人は「具現」と「振動」と「放射」の組み合わせです。「放射」(アートマ)と「振動」(生命力)の助けがあって、人は「具現」(体)を道具として用い、生きていくことができるのです。体は行為を行うための基盤です。体はカルマ ヨーガ〔行いのヨーガ〕の象徴です。「振動」は、人が思考することを助けます。「放射」は、「振動」と「具現」を起こさせる源です。ヴェーダでは、このことを「プラグニャーナム ブランマー(ブラフマンは至高の意識である)」と述べています。至高の意識とは、単なる意識ではなく、不断の統合意識です。至高の意識は、あらゆる所に、あらゆる時に、一貫して存在しています。至高の意識に昼夜の別はありません。至高の意識は、覚醒状態・夢見状態・熟睡状態という3つの状態を超越しています。至高の意識は、3つに区切られた時間を通して1つであり同じです。

エーカム サット ヴィップラーッ バフダー ヴァダンティ
(真理は1つ、しかし学者はそれを数多くの名で呼ぶ)

これこそが神の磁力なのです。それは、帰依者の思い次第で、ラーマ、クリシュナ、イーシュワラなどと、どんな姿でもとることができます。そうした名前や姿は、すべて皆さんの想像の産物であり、現実には、神はいかなる名前も姿も持ちません。水を例にとってごらんなさい。水は、何ら特定の形を持たず、注がれる容器の形をとります。同様に、空気は無形ですが、風船やボールに空気を詰め込めば、その形をとります。名前や姿は皆さんが自分で作り上げたものであって、いずれは消え失せる運命にあります。実際、皆さんが人の努力によって勝ち得たものは、すべて浮き世のものです。それに対して、根本的な原理が神の原理です。ですから、根本的な神の原理にしがみついていなさい。

信仰の磁力は神を引き付ける

愛の化身である皆さん! 何を忘れてもかまいませんが、決して神を忘れてはなりません。神を忘れることは、あなた自身を忘れることに等しいのです。古代においては、人々は110年、120年と生きました。なぜなら、彼らは絶えず神を想いつつ生活を送っていたからです。古代の人々は決してどんな病気にもかかりませんでした。彼らは質素な食物をとっていました。古代の人々が、ビタミンやたんぱく質について気にしたことはなく、ビタミンAやBやCといった錠剤を飲んだことは一度もありませんでした。彼らは自分たちの食物を神に捧げていたために、必要なビタミンやたんぱく質をとることができたのです。神への信仰心を強めれば、あなたは人生におけるいかなることも成就することができます。実際に、あなた自身が神になるのです。あなたは神と異なるものではありません。この真理を悟り、一体感を得なさい。

(ここでスワミは帰依者たちに黄金のリンガムを見せながらおっしゃいました) 皆さん見てのとおり、このリンガムはかなり大きなものです。これには意味があります。このリンガムは、重さにして5トーラ〔ヴェーダ由来の重量単位で1トーラは約11.7グラム〕あります。人は誰もが、ヒランニャガルバと称される5トーラの金のエッセンスを保有しています。皆さんは、金が含まれている薬があることを知っているかもしれません。金は、人に内在するエネルギーの表れであり、人が輝く原因です。各人の体内に含まれる金の量はこれだけです。

目に物を見させたり、耳に音を聞こえさせたりしているのは、体内のこの金のエッセンスです。舌には30万の味蕾〔舌にある球状の小さな味覚器官/味覚芽〕があり、目には400万の光線があります。目や舌、その他の感覚器官も、内在する磁力から力を得ています。金のエッセンスは保護膜として全身を覆っています。表皮のすぐ下にはホワイトスキン〔おそらく真皮のこと〕という薄い層があり、血液の保護膜として機能しています。出血が起こるのは、ホワイトスキンが傷つけられたときのみです。神は保護のために皮膚の下にホワイトスキンを敷きました、神の行うことは何であれ、万人の幸福のためです。これこそが、「ローカー サマスター スキノー バヴァントゥ(みんな幸せになりますように!)」という祈りの意味するところです。

『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神とその化身の神話集〕にはこう述べられています,

三界の中で、もっとも素晴らしく、もっとも神聖なもの
それは、神の物語
世俗に絡み付いて離れない束縛という名のつる草を
断ち切ってくれる鎌のごとし

(テルグ語の詩)

ゴーピカー〔牧女〕たちは、クリシュナ神への揺るぎない信仰心を抱いていたために、人生を有意義に過ごすことができました。信仰心は神を引き付ける磁力です。義理の母にののしられようが、夫に腹を立てられようが、ゴービカーたちは決してそうした非難に反論しませんでした。腹を立てることも、恐れることもありませんでした。ゴーピカーたちのハートには、紙に印刷された絵のように、クリシュナの甘美な姿が焼き付いていました。絵から紙を、あるいは、紙から絵を引き離すことができますか? いいえ、できません。同様に、クリシュナはゴーピカーたちのハートにしっかりと据えられていました。そのような固い信仰心と信愛は、幾多の生にわたって積み上げられた徳の結果です。「ラソー ヴァイ サハ」〔それはラサなり〕(神は甘美さ〔ラサあるいはエッセンス〕という形をとって、万物の中に遍満している)というヴェーダの格言を、ゴーピカーたちは固く信じていました。

こうした神の甘露を味わうには、愛と思いやりの感覚を吸収すべきです。愛の味というものは、筆舌に尽くし難いものです。その味はきわめて神聖であり、また、法悦のあまり我を忘れさせます。聖仙ナーラダ〔いつも神の御名を唱えていたことで知られる聖仙〕は、それをこう表現しました。

ヤッラブッドワ プマン イッチャラモー バヴァティ
トルプトー バヴァティ マットー バヴァティ アートマラモー バヴァティ
(それに達すると、人は完全なる満足と、成就感と、法悦と、至福を得る)

愛を込めて神の名前を唱えるとき、あなたは我を忘れます。人は神の愛の受取人となったとき、初めて成就感を得ます。神の愛を得るために、あなたの内にもっともっと愛を育みなさい。あなたの内に愛の磁力があるとき、あなたの学ぶものは何であれ、心に刻み付けられます。もし、あなたに磁力がなければ、どれほど懸命に頑張ったところで、決して努力が報われることはありません。日夜勉強したとしても何の成果も得られません。あなたが勉強しようとするたびに、ニドラー デーヴィー〔眠りの女神。ニドラー女神がヴィシュヌ神の体内から出ていくとヴィシュヌ神は目を覚まして宇宙を創造するといわれる〕に押さえ込まれてしまうでしょう。クンバカルナ〔ラーマーヤナに出てくる悪鬼ラーヴァナの弟で、神々や人間に災いをもたらした罰として、半年眠って一日目覚めるという生活を強いられていた〕があなたを眠りにつかせるでしょう。一方、あなたが自らの内にある磁力を強めれば、勉強している最中に睡魔に襲われることなど決してありません。クンバカルナはあなたのことを見る勇気さえ出ないでしよう。

現代の学生は多くの時間を浪費しています。彼らは試験のときだけ勉強に励みます。

おお人よ! 己の教養を自慢するなかれ
神に敬意を表さず、親愛の念で神を想わないなら
その教養はすべて無駄となる

(テルグ語の詩)

少なくとも一日に一度は神を想いなさい。他の人の言うことを気にしてはなりません。誰かがあなたのもとへやって来て「神など存在しない」と言うかもしれません。そうしたら、ただちにあなたは尋ねるべきです。「誰の神がですか? 私の神、それともあなたの神がですか? あなたにとってあなたの神は存在しないかもしれませんが、私の神の存在を否定する、あなたは何様ですか?」そのような固い信念を持って彼らを説き伏せるべきです。しかし、不幸なことに、現代人は信仰という目を失い盲目となってしまいました。信仰心を育み、人生を神聖なものとしなさい。いかなる時、いかなる状況にあっても、信仰心のみが、あなたを守ることができます。けれども、あなたはこのラクシャー(守護)の原理を忘れ、他の人をシクシャー(処罰)することに関わっているのです。

決して他の人に対して悪い思いを抱いてはなりません。他の人を傷つけてはなりません。他の人を批判してはなりません。他者を苦しめれば、あなたはもっと苦しむことになるでしょう。あなただけでなく、あなたの家族さえも、その悪果に直面しなければならなくなるでしょう。決してこの真理を忘れてはなりません。神は、あなたが他の人の幸福を切望したときにのみ、あなたとあなたの家族に恩寵を授けるでしょう。崇高な思いを育み、神を想い、時間を正しく使いなさい。

(バガヴァンは「プレーマ ムディタ マナセー カホー」〔愛と喜びに満ちた心でラーマの御名を唱えよ〕のバジャンで御講話を結ばれました)

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sanathana Sarathi” April 2002, p.121~128