サティヤ サイババの御言葉

日付:2002年5月26日
場所:ブリンダーヴァン/サイ ラメーシュ クリシャン ホール
仏陀プールニマー祭の御講話より

感覚のコントロールは最高の霊性修行

サルヴァルーパ ダラム シャーンタム
サルヴァナーマ ダラム シヴァム
サッチダーナンダム アドヴァイタム
サッティヤム シヴァム スンダラム

〔すべての姿は、平安の権化である至高の存在の顕れ
すべての名前は、吉祥の権化である至高の存在の顕れ
彼は、サット(実荘)・チット(意識)・アーナンダ(至福)である唯一者
彼は、サッティヤム(真)・シヴァム(善)・スンダラム(美)〕

(サンスクリット語の詩)

愛の化身である皆さん!

人は幸福を得ようと懸命に努力をします。聖典を読んだり、高貴な人物を訪ねたり、霊性修行を試みたり、幸福を見いだそうと外界をあまねく探し回ります。しかし、人はどこにも幸福を見つけることができません。仏陀〔お釈迦様〕も、幸福の源を発見するために、同様の努力をしました。あらゆる所を探し回った結果、ついに仏陀は、幸福は自分の中にあり外の世界にはないということを悟りました。ブッダは、自分自身がアーナンダ(至福)の化身であることを認識したのです。感官によってもたらされる一時的な幸福は、決して真の幸福ではありません。

感覚のコントロールによってもたらされる至福

神はサット〔実在〕)・チット〔意識〕アーナンダ〔至福〕の姿をとり、宇宙にあまねく浸透しています。五大元素である地・水・火・風・空の神の具現であり、神はサッティヤム(真)、シヴァム(善)、スンダラム(美)としてすべての創造物の中に顕れています。それゆえ人は皆、サット(絶対実在)チット(純粋意識)アーナンダ(至福)の顕れです。神は音として空の元素に、触感として風の元素に、形として火の元素に、味として水の元素に、匂いとして地の元素にそれぞれ顕れています。神は五大元素すべてと全創造物の中に浸透しているため、ウパニシャッドは、「イーシャーヴァースヤム イダム ジャガット」(全世界に神が浸透している〉と宣言しています。神は遍在です。神が存在しない場所はどこにもありません。

サルヴァタッ パーニパーダム タット サルヴァトークシ シロームカム
サルヴァタッ シルティマルローケー
サルヴァマーヴルッティヤ ティシタティ

(その手、足、目、頭、口、耳をすべてのものに行き渡らせ、
神は全宇宙に漫透している)

〔バガヴァッドギーター13章13節〕

もし神が至る所に存在しているのであれば、どうして神を見ることができないのか、と人々は尋ねます。海水は上にある太陽を映します。海が荒れて乱れれば、映された太陽も乱れます。同様に、神はすべての人に内在していますが、心(マインド)が乱れているために、神を見ることができないのです。乱れて、ぐらついている心には、神は決して映りません。乱れた心は混乱と落胆をもたらします。アルジュナが、バガヴァッドギーターの中で、「チャンチャラム ヒ マナハ クリシュナ プラマーティ バラヴァッダ ドルダム」〔おおクリシュナ、心はとても不安定で、乱れ、ひどく動揺します〕〔6章34節〕と述べているように、心はたいへん変わりやすく、揺れ動きます。人が行うあらゆるサーダナ〔霊性修行〕の目的は、心を不動にすることです。ジャパ〔唱名〕やディヤーナ〔瞑想、坐禅〕やヨーガをしていても、心が不安定ならば何の役にも立ちません。いったん五感をコントロールしてしまえば、神を体験することができます。神はどこか遠い所にいるわけではありません、神はあなたの内に、下に、上に、周りにいます。実際のところ、神は人の中にいる内在者です。それにもかかわらず、人は神を見ることができずにいます。なぜでしょう? 際限のない、気まぐれな欲望が、神を見ることを妨げているのです。欲望こそが、心の乱れの根本原因です。感官のコントロールと欲望に限度を設けることは、神をあらゆるところに見て至福を体験する助けとなります。それゆえ、私たちは欲望を常にチェックしているべきです。私たちは、他の人たちがふけっている悪口を気にするべきではありません。中傷や批判に影響されてはなりません。

仏陀のように無欲という至高の状態に到達しなさい

仏陀は、五感を制したいと思いました。まず初めに、仏陀はサムヤク ドルシティ(正見、正しい見方)を得ようと決意しました。今日の人々は、心が揺れ動いているために、自分の視覚をコントロールすることができません。映画、ビデオ、テレビなどが、人の心を汚しています。人は、善いものを見たり善いことを聞いたりしていません。落ち着かないのは自分が原因です。サムヤク ドルシティ〔ドリシティ〕(正見)に加えて、仏陀は、サムヤク シラヴァナム〔シュラヴァナム〕(正聞、正しい聞き方)、サムヤク ヴァーク(正語、正しい話し方)、サムヤク バーヴァム(正思、正しい感情)、サムヤク チンタナム(正念、正しい考え)を強調しました。これらの欠如により、人間性は急速に魔性や動物性に取って代わられています。動物的性質が人間の中で急増しています。動物には時期と理由がありますが、人間にはありません。今日の人々は、動物よりも劣ってしまいました。今日の人々には、思いやり、優しさ、愛、忍耐といった人間的性質が欠けています。心配の根本原因である、悪い思いをなくすべきです。それには、アビヤーサ(常修、絶え間ない持続的な修練)が必要となります。アビヤーサによって、心をコントロールし平安を得ることができます。平安な心からしか、高貴な思いは湧いてきません。心は人の支配下にあるべきです。心(マインド)を支配(マスター)し、心の主導者(マスターマインド)となりなさい。不幸なことに、人は心をコントロールする代わりに、感覚の奴隷になっています。人が不安定になっている主な理由はこれなのです。さらに、人は身体に対する執着(デーハビマーナ)を持っています。これが、他人に欠点を指摘されたときに簡単に心を乱してしまう理由です。身体は水の泡のようなものであるのに、どうして身体のことを心配する必要があるでしょうか? 身体に対する執着を捨てなければなりません。

今日の人々は、際限のない不必要な欲望を持っています。例えば、村長になりたいと願っている人がいるとします。もし村長に当選したら、その人は次は高官になりたいと思い、次は州知事、後には国の首相になりたいと欲します。これらの役職は、結局、何なのでしょうか? もしもよこしまな欲望しかもっていないのであれば、このような高い地位から何が得られるというのでしょうか? 悪い欲望は災いをもたらします。ですから、悪い欲望や思いに付け入る隙を与えてはなりません。それらの反動・反映・反響もまた有害です。悪い欲望から邪悪で罪深い思いが生まれます。まず初めに、仏陀は、純粋で、しっかりとした、神聖で、無私のものの見方を培いました。仏陀は、すべての世俗的な快適さ、家族、そして、幼い息子さえも捨てて、大いなる犠牲をなしました。それから仏陀は、肉体への執着を徐々に捨てていき、最後にはそれを完全に捨て去りました。このようにして、仏陀は無欲の状態に到達したのです。

肉体への執着が人の迷いの原因

自分と肉体を同一視することは間違っています。私たちが、「これは私の身体です。私の心です、私のブッディ〔知性〕です、私のチッタ〔記憶、心素〕です、私のアンタッカラナ〔内なる道具〕です」と言うとき、それは、私たちが心や身体やブッディなどとは別のものであることを意味しています。自分は身体であると思うことは、ブラマ(妄想、錯覚)です。ブラマを助長するにつれて、ブラフマー(神)からは遠ざかります。ブラマから離れれば離れるほど、ブラフマーに近づいていきます。仏陀は多くのグル〔導師〕を訪ね、彼らの教えを傾聴しました。聖典も研究しました。そして仏陀は、それは無駄な修行であったと悟りました。

近ごろの学生たちは、高等教育を受けに外国へ行き、多額のお金を費やしています。このような外国熱は、まったくばかげています、両親もまた、子どもたちの望みを煽り立てて、外国へ行くことを勧めます。彼らは自分の子どもが外国へ行くことを自慢に思うのです。しかし実際は、彼らは子どもを駄目にしているのです。単なる金儲けのために物乞いのように外国へ行くよりも、自国で一生懸命働いた方がずっとよいのです。外国で得るものは何でしょうか? インドに帰国した時、子どもたちが持って帰ってくるものは、外国で得たパーパ(罪)だけです。そうなる代わりに、自国に留まってプンニャ(功徳)を得なさい。人の際限のない野心が、金儲けのために外国に行くというこの狂気の原因です。

過去数十年にわたり、多くの国の人々が私を彼らの国に招待しています。しかしながら、私はどこにも行く気はありません。「スワミ、私の国に来てください」と彼らは言います。ですが、どれがあなたの国なのですか? 皆さんはいかなる特定の国にも属してはいません。永遠のものは何もありません。皆さんの肉体自体が永遠ではありません。しかし、身体は維持されなければなりません。けれども、身体への執着は禁物です。それは終わりのない生死の輪廻をもたらします。そのため、アーディ シャンカラは次のように述べました。

ブナラピ ジャナナム プナラピ マラナム
プナラピ ジャナニー ジャタレー シャヤナム
イハ サムサーレ バフ ドゥスターレ
クルパヤーパーレー パーヒ ムラーレー

(私はこの生死の輪廻に巻き込まれている
私は幾度となく母親の子宮の中にいるという苦渋を経験している
世俗の大海を渡ることのなんと難しいことか
おお主よ! どうか私にこの大海を超えさせ、解脱をお授けください)

〔バジャ ゴーヴィンダム 第22歌〕

世俗的な生活は悲しみと苦しみに満ちています。主クリシュナは言いました。

アニッティヤム アスカム ローカム イマム
プラーッピャ バジャッスワ マーム

(世の中は束の間であり、惨めさに満ちているがゆえ、
常に「私」のことを憶念していなさい)

〔バガヴァッドギーター 9章33節〕

人間としての誕生を得たのですから、あなたは人生を有意義なものとしなければなりません。高貴な道を歩まなければなりません。褒められても得意になってはなりません。賞賛も非難も超越していなさい。平安を培いなさい。平安はどこにありますか? それは市場で買えるようなものではありません。平安(peace)は内にあります。外には断片(pieces)があるだけです。実は、すべてのものが皆さんの内に存在しているのです。

あなたは平安の化身です
あなたは真理の化身です
あなたは愛の化身です
あなたは神の化身です

内在する神性を無視して、そこかしこに幸福を探し回っているとは、なんと哀れなのでしょう! これは過去に多くの人生で犯した罪の結果です。どうして外的な世俗の生活でさらに罪を重ねたがるのですか? 自分の視点をもっと内側に向けなさい。あなたはそこにアーナンダ(至福)を見つけるでしょう。あなたはすでに至福を所有しているのです。至福がなくては、あなたは一瞬たりとも生きていられません。至福はあなたの本性です。

仏陀のなした最高の犠牲

愛の化身である皆さん!

仏陀は普通の人ではありませんでした。彼は王族に生まれ、王子としてさまざまな快適さに囲まれて育ちました。しかし、彼は一夜にしてすべてを放棄しました。最高の犠牲をなしたのです。

ナ カルマナ ナ プラジャヤー
ダネーナ ディヤーゲーナイケー
アムルタットワマーナシュフ

(行為によってでも
子孫や富によってでもなく
犠牲によってのみ、不死は得られる)

仏陀はこのヴェーダの訓示に従いました。執着心はまったくありませんでした。それゆえ、親類知己から離れることができたのです。仏陀の父親は執着心を持っていたので、苦しみました。

仏陀はあちらこちらを遠くまで旅しました。彼は苦行を実践しました、あるとき、一人の女性が仏陀に食べ物を捧げようとしました。仏陀は言いました。「これは私が望んでいる食べ物ではありません。私はグニャーナ ビクシャー(英知という食べ物)が欲しいのです。私はこのような世俗の食べ物ではなく、グニャーナ(英知)という食べ物を探しています」

ある日、仏陀は農夫が穀物を配っているのを見ました。ブッダは彼の所へ行き、「私への施しの分はどこにありますか?」と尋ねました。すると、その農夫は言いました。「この怠け坊主が! どうしてお前に施しをしなくちゃならないんだ。一生懸命働く者にしか、食べ物はやらん。俺だって、必死で働いているんだ。土地を耕して、種をまいて、雑草を取り除いて、畑に水をまいて、ようやく収穫しているんだ。だのに、お前は何もしていないじゃないか」。その農夫は、自分は一生懸命働いていたと思っていました。仏陀は答えました。「私はハートという土地を耕して、そこに愛をもって水をやり、悪い性癖という雑草を取り除き、英知という穀物を収穫して、至福の果実を得ています」。仏陀の生涯に関連したこのような話はたくさんあります。実際、これらは単なる物語ではなく、仏陀の個人的な体験です。仏陀は若くして大変な犠牲をなしました。犠牲から得られる喜びは計り知れません。犠牲によってもたらされる喜びを体験しなさい。

バジャンを歌ったり礼拝をしたりして得る喜びは、一時的なものです。しかし、ソーハム マントラでの体験は永遠の喜びをもたらします。ソーハムはハムサ ガヤトリーとも呼ばれています。「ソー」とは「あれ」(神)を意味し、「ハム」は「私は~である」を意味します。「私はあれ(神)である」がソーハムの意味です。あなたは呼吸するたびにそれを体験すべきです。息を吸うとき、あなたは「ソー」という音を聞き、吐くときに「ハム」という音を聞きます。呼吸に注意を払い、一呼吸ごとに「ソーハム」〔私はあれ(神)である〕という真実を体験しなさい。WATCH(注意する)という単語には大切なメーセージが含まれています。WATCHの意味は次のようなものです。

      W-あなたの言葉(Words)に注童しなさい
      A-あなたの行動(Actions)に注意しなさい
      T-あなたの思考(Thoughts)に注意しなさい
      C-あなたの人格(Character)に注意しなさい
      H-あなたのハート(Heart)に注意しなさい

あなたの持っているウォッチ(watch、腕時計)は、いつか壊れてしまうかもしれません。しかし、この「WATCH」は壊れることがありません。ですから、この「WATCH」を手に入れなさい。自分の話していることが善いか悪いかに注意を払いなさい。他人を非難しているのか、あるいは感謝しているのかをウォッチしなさい。他人をののしるために舌を使うべきではありません。他人をそしることは罪です。そのような罪に舌を使ってはなりません。自分の罪深い行為の結果から逃れることはできません。すべてのことには反動・反映・反響があり、それはあなた自身に何らかの形で戻ってきます。ですから、舌をコントロールするという修練を行いなさい。

仏陀はモウナム(沈黙)を守り、寡黙になりました。神聖な行為にはすべて種々の報いが伴います。寡黙になることによって、仏陀は自分自身の中でソーハムを体験し始めました。心が揺らがないようにするために、皆さんはラーマ、クリシュナ、ゴーヴィンダ、仏陀、サイといった御名を唱えることもできます。ひとたび心が不動になれば、もう唱える必要はありません。完全な沈黙を実践しなさい。それが「沈黙は金」と言われる理由です。いったん言葉数が少なくなれば、心の活動や気まぐれも少なくなります。言葉が多くなるにつれて、ますます心も気まぐれになっていきます。静寂によって心を滅しなさい。けれども、言うは易く行うは難しです。人は死ぬかもしれませんが、心は死にません。心から言葉がなくなると、心自体が消えてしまいます。モウナム(沈黙)を守ることは、心を静める一つの方法です。このような理由から、古の人々はモウナム(沈黙)の行を実践しました。心を思いのままにさまよわせたり、勝手気ままにさせてはなりません、心に、他人を嘲ったり、傷付けたり、憎んだりさせてはなりません。もしあなたが誰かを傷つければ、あなたはその十倍傷つけられることになります。あなたは誰かを罵倒したことを自慢に思うかもしれません。しかし、いつかはあなたも、誰か他の人から罵倒されることになります。今日あなたが犯す罪は、あとで何倍にもなってあなたに返ってくるのです。

愛の化身である皆さん!

私たちは人間としての生を得ました。人間として生まれて来たなら、何をすればよいのでしょうか? 財を成すために人としての誕生を使えばよいのでしょうか? いいえ、まったくそうではありません。美徳という富を獲得すべきです。現代の学生たちは、財産や権力や友情を得ることには興味がありますが、美徳を得ることには興味を示しません。美徳が得られない人生など、何の役に立つでしょうか?

教養と知性があっても
愚か者は真我を知ることはなく
心の卑しい者は邪悪な性格を改めようとはしない
現代の教育は議論のみをもたらし
総合的な英知へは導かない
世俗の教育を修めたとしても
不死へと導いてくれないのであれば
何の役に立つであろうか?
永遠の命をもたらす知識を習得しなさい

(テルグ語の詩)

体は水の泡のようにはかないものです。水の泡が生じてははじけるように、人の体も生じては逝くのです。

体は汚物の貯蔵庫であり、病に冒されやすい 体はサムサーラの大海を渡ることはできない おお 心よ、体が永遠のものであるなどという幻想を抱いてはならない その代わりに、聖なる蓮華の御足に庇護を求めなさい

(テルグ語の詩)

まず第一に、全託の精神を培うべきです。神への献身という精神で、神への捧げ物として、あらゆる行為をしなさい。そうすれば、すべての行為は神聖なものになるでしょう。これが仏陀の教えです。この世では、人の五感は大変重要な役割を果たしています。仏陀は感官のコントロールに最も重点を置きました。心(マインド)を制御するには五感をコントロールしなければなりません。そのようにして、初めて神を実感することができます。愛によってのみ、あらゆるものを手に入れることができます。愛は神です。愛に生きなさい。愛を培うことによって、初めて霊性を理解することができます。それが、私がよく次のように言う理由です。

      一日を愛で始め
      一日を愛で満たし
      一日を愛で過ごし
      一日を愛で終えなさい
      それが神への道です

愛の力をもってすれば、すべてのことが可能です。この世では愛がすべてです。愛がなければ世界は存在できません。悪い欲望を抱いてはなりません。それはあなたを破滅へと追い込みます。悪い欲望を持っている人は、安らかな死を迎えることはできません。心を平安で神聖に保っておかなければなりません。心の平安は神への愛によってのみ得ることができます。

愛の化身である皆さん!

皆さんは多くの困難と不便さに耐えて、遠い国々からここにやって来ました。平安と至福に満ちた人生を送りなさい。問題は起きるかもしれません。しかし、それに振り回されてはなりません。問題を無視して、初めて心の平安を得ることができます。愛を込めて神の栄光を歌いなさい。神に祈るだけでは十分ではありません。あなた自身を神と見なしなさい。「私は神である」と力強く言い、絶えずそれを黙想していなさい。仏陀も、人は神であると宜言しました。神は常にあなたの中に、あなたと共に、あなたの周りに、あなたの下に、あなたの上にいます。例えば、GOD(神)という単語を考えてごらんなさい。Gの文字から始めれば、GOD(神)と読めます。しかし、Dの文字から始めれば、DOG(犬)となります。この違いはあなたの見方の違いによるものです。この世のすべてのものは神です。ですから、自分は神と一つであるという気持ちを培いなさい。

身体は神の神殿

あなた方は、世界のいろいろな地方からここにやって来ました。平安と至福に満たされて無事に家に戻れるよう、皆さん方全員を祝福します。すべてのことは神の意志によって起きるのだという信念を培いなさい。仏陀は、さまざまなサーダナ〔霊性修行〕を試みました。聖典を研究しました。しかし、五感の本質を明確に説明している文献はありませんでした。最終的に、仏陀は感官のコントロールよりも優れたサーダナ〔霊性修行〕はないという結論に達しました。五感の制御が真の霊性修行であると悟ったのです。五感を野放しにするべきではありません。感官は愛によってのみコントロールできます。常に愛の中で生きていなさい。あなたの愛によって他の人々を幸せにしなさい。誰に対しても憎しみや悪感情を抱いてはなりません。ヴェーダーンタ哲学の真髄は、「常に助け、決して傷付けてはならない」です。聖典にあるように、「パローパカーラ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム」(人は他者に仕えることで功徳を得、他者を傷付けることで罪を犯す)のです。

ひとたび神は自分の中にいると信じれば、心は不動に保たれます。初めのうちは、サーダナ〔霊性修行〕の結果はすぐには出てこないかもしれません。しかし、それでも自分の中の神を黙想し続けていれば、あなたは必ず平安と至福を得ます。神は寺院やモスクや教会にいるのではありません。身体こそが神の神殿なのです。

神は見知らぬ国にいるのではなく
神はあなたの中にいる
罪はどこかよそにあるのではない
罪は誤った行為がなされるところにある

(テルグ語の詩)

あなたの中にすべてがあるのです。聖典を研究する必要はありません。あなたに必要なのは自信〔自分を信じること〕だけです。霊的向上にとって、自信は最も重要です。

自信があるところに 真理がある
真理があるところに 至福がある
至福があるところに 平安がある
平安があるところに 神がいる

ですから、皆さんは自信を培わなくてはなりません。そうでなければ、まったく混乱してしまうでしょう。この建物を例にとりましょう。この建物は基礎の上に建っています。基礎がなければ建物はあり得ません。同様に、自信は人生においてすべての土台となるものです。自信があれば、皆さんはどんなことでも成し遂げることできます。誠実さと自信をもって自分の義務を果たし、仏陀によって示された理想に従いなさい。仏陀はあらゆる贅沢をほしいままにしていました。けれども、そのすべてを放棄しました。至福はティヤーガ(犠牲)の内にあり、ボーガ(五感の快楽)にはありません。ひとたび犠牲の道を進めば、皆さんは至福を得ることができるでしょう。これが仏陀の神聖な教えです。

愛の化身である皆さん!

まず第一に、身体への執着を少なくしなさい。身体への執着が増すほど、苦しみも大きくなります。身体は神の神殿です。「これは自分の体ではなく神の神殿である」と考えなさい。神がその中にいるので、体は神聖なのです。身体は人間への神の贈り物です。それゆえ、神聖な行為をなすために身体を使い、そうすることで至福を得なさい。他の人と至福を分かち合うとき、あなたは神を体験することでしょう。霊性修行を続けなさい。しかし、神は自分自身の中に、上に、下に、周りにいる、という気持ちで常に満たされているようにしなさい。決して神を自分から離れた所にいると思ってはなりません。「私は独りではない。神が共にいる」。この気持ちを強め、自分の人生をそれに応じて形作りなさい。愛をもって生活しなさい。

(バガヴァーンは御講話を「プレーマ ムディタ マナセー カホー」〔愛と喜びに満ちた心でラーマの御名を唱えよ〕のバジャンで終えられました)

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 2002 Ch11

*この御講話はサイラム ニュース Vol.90(2003年5・6月号)pp.2~13に掲載した御講話に加筆・修正を行ったものです。