サティヤ サイババの御言葉

日付:2003年4月11日
場所:バンガロール、ブリンダーヴァンのサイ ラメーシュホールにて
バガヴァン シュリ サティア サイババの御講話

ラーマの物語は不滅であり永遠に新しい

何の教育も受けていない鳥や動物たちでさえ
規律ある生活を送っている
されど 悲しいかな
あらゆる知性を授けられている人間が
規律ある生活を送っていない
ほかに何を伝えられるだろうか?
この尊き集会に集う人々に

(テルグ語の詩)

神は宇宙の内に燦然と光り輝く
ゆえに 宇宙もまた 神の内に光り輝く
神と宇宙の関係は密接で
切り離すことはできない
これよりほかに伝えるべきことがあるだろうか?

(テルグ語の詩)

ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナはダシャラタ王の四人の息子です。単にこうした肉体的なつながりについて知ることだけでは十分ではありません。その内なる意味を探求し理解するべきです。ダシャラタとは何者なのでしょうか? ダシャラタは十の感覚器官(五つの知覚器官〈視、聴、臭、味、触覚〉と五つの行動器官〈舌、手、足、排泄器官、生殖器官〉)という車輪のついた、人間の体という馬車を制御する者です。実のところ、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナは、ただの人間と同じようにダシャラタ王とその三人の妻の間に生まれたのではありません。彼らはチャイタニヤ スワルーパ(神性意識の具現)です。彼らは犠牲の火から発せられた神の意識から生じました。彼らは家族の中で兄弟が振る舞うべき理想を全世界に示しました。

今日、カリユガ(末世)の影響のために、一家の兄弟の間に一体性と愛が少しも見られません。兄弟は喧嘩をし自分たちの生活を悲惨なものとしています。これとは反対に、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、そしてシャトルグナの間には完全な一体性がありました。彼らはただの一度も喧嘩をしたことがなく、互いに相手を幸せにしようと努めました。また、彼らの一体性によって他の人々をも喜ばせました。子どものころゲームをして遊んでいるときでさえ、彼らは相手の幸運を望みました。あるとき、四兄弟はゲームをして遊んでいました。しばらくすると、バラタがカウサリヤー〔第一王妃、ラーマの母〕のもとへやって来て、ひざの上に座って泣き出しました。「バラタ、どうして泣いているの? ゲームに負けてしまったの?」と、カウサリヤーはバラタに尋ねました。バラタは答えました。「お義母様、僕は負けることができなかったのです。それが僕が泣いている原因です。僕が負けそうになったとき、ラーマがわざと負けて僕を勝たせたのです」四兄弟の間にはこれほどの一体性があったのです。

ラクシュマナがランカでの戦いで意識を失ったときラーマは深く悲しみました。ラーマはラクシュマナを自分の命そのものと考えていました。「この世の中を探せばカウサリヤーのような母親や、シーターのような妻を得ることはできるかも知れない。しかしラクシュマナのように気高い弟を得ることはできないだろう。ラクシュマナのいないこの人生など何になるというのか?」と言ってラーマは嘆きました。四兄弟にはそれほどの一体性と調和、そして愛があったのです。

ケーカヤ王国から戻ったバラタは、ラーマは追放され十四年という長い年月の間戻って来ないことを知らされました。バラタはやるせない気持ちになりました。バラタは聖賢ヴァシシュタ〔ラーマ一族の師〕のもとへ行き、敬意を表して言いました。「おお、尊敬する師よ、私は兄ラーマの追放の原因となったこの国〔コーサラ国〕を欲しいとは思いません。長男であるラーマだけにこの王国を統治する権利があるのです。ですから私はただちに森へと赴いて、ラーマの御足にひれ伏し、ここに戻って来てアヨーディヤー〔コーサラ国の都〕の支配権を引き継いでくれるよう嘆願してみます」。このように四兄弟のだれもが喜んで自分以外の兄弟のために自分の望みを犠牲にしました。

父の誓言を守るため、ラーマは追放の身となるための身支度を整えました。ラーマは行者の身なりをして、母カウサリヤーの許しを得るために、その屋敷へと赴きました。ラーマの戴冠式が行われるはずであったその日、母カウサリヤーはラーマの到着を今か今かと待っていました。カウサリヤーはラーマが国王の正装をしてやって来ると思っていました。カウサリヤーはラーマとシーターが木の皮でできた服を着ているのを見て当惑し意気消沈しました。「ラーマよ、このような衣服があなたの戴冠式の日にふさわしいものなのでしょうか?」とカウサリヤーは尋ねました。ラーマは微笑みながら答えました。「母上、私は父上によって森の王国の王に即位 したのです。私は悪魔に苦しめられている賢者や聖者たちを守るために森へと参ります。ですからどうか私の神聖なる使命に反対なさらないでください。私は父上の命令に従わねばならないのです」そう言ってラーマは母の前にひれ伏し、森に赴く許しを請いました。ラーマの言葉を聞いて母カウサリヤーは悲しみに沈みました。カウサリヤーはラーマを説きつけました。「息子よ、あなたは父上の命令に従うことだけを話しています。ではあなたの母の命令はどうなのでしょうか? 私はあなたの父上の半身なのですよ。ですから私の命令に従うこともあなたが果 たさねばならない義務なのです。私はあなたが森に赴くことを邪魔したりはしませんから、私にもあなたのお供をさせてください。私はあなたを産むために何年にもわたって幾多の供犠と厳しい苦行をしました。私は一分たりともあなたなしで生きることはできません」すると、ラーマはこう言ってカウサリヤーをなだめました。「母上、年老いた夫のもとを離れるのは正しいことではありません。父上は私との別 離の炎の中で焼けるような苦しみを味わっています。この重大事に当たっては、母上は温かい言葉で父上を慰め、元気づけてさし上げるべきです。それが母上の一番の務めです。妻にとって夫は神です。夫は妻にとって唯一の拠り所です」。

シーターはそばでこの会話を聞いていました。シーターはラーマを見つめて尋ねました。「ラーマ、ダルマはすべての女性にとって同じではないのでしょうか? お義母様のためのダルマや、私のためのダルマといったものがあり得るのでしょうか? あなたは私にここに留まり、お義父様とお義母様の面倒をみるようにとおっしゃいました。ところが今あなたは、夫に仕えることが妻にとって第一の義務である、とお義母様に話していらっしゃいます。それは私の場合にも当てはまるのではないのでしょうか?」母カウサリヤーはシーターの反論に心を動かされました。カウサリヤーはラーマに言いました。「息子よ、どの女性の場合にも同じダルマが有効です。私がこのように苦しまねばならないのは運命です。どうしてあなたはアヨーディヤーに残すことでシーターを苦しめなくてはならないのですか? シーターはすべてを捨ててあなたとともに森へ行こうと決意しているのですよ。彼女を失望させてはなりません。一緒に連れていっておあげなさい。シーターの面 倒を見るのはあなたの義務です」このエピソードから、ラーマの母カウサリヤーの高潔さと心の広さを十分に理解することができます。

このように、『ラーマーヤナ』は多くの気高い行動規範を示しています。私たちは『ラーマーヤナ』の中に、母と息子、兄弟同士、ほかの家族の一員同士の、もっとも甘く、愛情深く、仲むつまじい間柄を見いだします。それゆえ一家の兄弟同士の関係の理想として『ラーマーヤナ』が引き合いに出されるのです。『ラーマーヤナ』の栄光と壮大さには限りがありません。

神聖なラーマの物語を聞くこと、ラーマの栄光を歌うことができるのは、皆さんが幸運だからです。初めにお話したように、神は宇宙の中で光り輝き、宇宙も神の中で光り輝いています。神と宇宙の関係は親密で切り離すことはできません。宇宙には生命が溢れています。それぞれの生き物がラーマの具現なのです。ラーマを特定の名と姿に限定してはいけません。すべての生物がラーマの御姿なのです。ラーマには喜びを与える者という意味があります。ラーマはあらゆるものの内にいます。「神はあらゆる生物の内在者である」。「世界全体に神が満ちている」。世界はまさに神の御姿です。「神は千の頭と目と足を持つ」。その昔、世界の人口は数千人に過ぎませんでした。その一人ひとりを神の御姿と考えて、神は千の頭と目と足を持つと宣言されたのです。時の経過とともに、人口は数千から数十万に、そして数十万から数千万人にふくれ上がりました。すると「神は三千万の生物の姿の中にいる」と言われました。今日では世界の人口は六十億近くにまで増加しています。すべてが神の御姿です。たいてい、人々はラーマを弓と矢筒を持った特定の姿に限定します。実際のところ、すべての人々がラーマの具現です。人々が自分の子どもにラーマ、ラクシュマナ、クリシュナ、ゴーヴィンダなどといった名前をつけるのはそのためなのです。

四兄弟だけでなく、彼らの妻たちもまたすばらしい理想を示しました。シーターとウールミラー〔ラクシュマナの妻〕はジャーナカ王の娘でした。マーンダヴィー〔バラタの妻〕とシュルタキールティ〔シャトルグナの妻〕はジャーナカ王の弟の娘でした。彼女たちは非常にすぐれた人格を備えた女性であり、絶大なる無執着の感覚を授かっていました。彼女たちは他の人の幸せは自分の幸せであると考えていました。ラーマが森へと去ろうとしていたとき、シーターは自分がラーマについて行くことは許可されてしかるべきだと主張しました。「スワミ、あなたは人類を救うためにやって来られました。私にもその中で務める役目があるのです。あなたがすべてを捨てて森に入るというのに、どうして私にここに留まることができるでしょうか?」とシーターは言いました。シーターは王室のあらゆる快適さを捨て、身に付けていた装飾品をすべてはずし、替わりに木の皮の服を身にまとってラーマについて行ったのでした。

ラクシュマナは祝福を求めて母スミトラーのもとに行きました。「ス・ミトラー」とは「よい友人」を意味します。彼女の人格はその名にふさわしいものでした。ラクシュマナがシーターとラーマについて森に行く決意をしたことを話すと、スミトラーはラクシュマナが森でラーマとシーターに仕える機会を得たことを大変喜びました。彼女は自分の二人の息子〔双子のラクシュマナとシャトルグナ〕のどちらも王国を統治することにはならないことをいっさい気にやみませんでした。スミトラーのプディング〔菓子の一種〕のカップがわしに持ち去られたとき、カウサリヤーとカイケーイーの二人は気の毒に思って自分たちのプディングをスミトラーに分け与えました。ラクシュマナはカウサリヤーのプディングの分け前から生まれ、シャトルグナはカイケーイーの分け前から生まれました。ですから、ラクシュマナとシャトルグナはそれぞれラーマとバラタの一面 なのです。ラクシュマナはラーマに仕え、シャトルグナはバラタに仕えました。ラーマとバラタに仕える息子をもった自分はなんと幸運なことかとスミトラーは思いました。彼女はそのような高潔な意識をもっていたのです。神のいるところには神の帰依者がいます。神と帰依者がともにいるところに勝利は保証されます。スミトラーは「息子よ、神とともににいることはもっともすばらしい富なのですよ。ラーマとシーターのいないアヨーディヤーはまさに森そのものです。ラーマとシーターのいる森こそがまさしくアヨーディヤーなのです。ラーマとシーターがお前の両親です。二人に仕えて喜びに満ちた時を過ごしなさい」とラクシュマナに言いました。このようにして、スミトラーは即座にラーマとシーターのお供をする許可をラクシュマナに与えました。

喜びと悲しみ 善と悪は共存し 誰もそれらを切り離すことはできない
一方を排除した 喜びや苦しみ 善や悪を見つけることはできない
喜びは 困難が実を結んだときに 生じる

(テルグ語の詩)

四兄弟の間だけでなく彼らの妻たちの間にもすばらしい一体性と理解がありました。彼らはすべての家庭にとっての理想です。今日、義理の娘たちが仲良く暮らしている家庭があるでしょうか? 兄弟が争いをせずに平和に仲良く暮らしている家庭があるでしょうか? 今、どこにもそのような理想的な家庭を見つけることはできません。カリの時代はカラハ(闘争)の時代となってしまいました。そのようなシナリオの中で『ラーマーヤナ』はすべての家庭の指針となるかがり火のごとく光り輝いています。兄弟、姉妹、そしてほかの家族の一員たちはどのように振る舞うべきなのでしょうか? 『ラーマーヤナ』にはそのためのすばらしい理想が実証されているのです。ただ『ラーマーヤナ』を読むだけでは十分ではありません。そのすぐれた理想を皆さんの生活の中に取り入れなければなりません。『ラーマーヤナ』は全人類に喜びをもたらします。『ラーマーヤナ』は時間や空間、階級や宗教の垣根を超えています。あらゆる国、あらゆる時代、そしてあらゆる状況において、もし一体性の原理を受け入れるなら、生活の中で満足感を得るでしょう。鳥や動物の間にさえ調和があります。彼らには物を貯め込む利己心はありません。今日では、鳥や動物にさえ見られないような邪悪な傾向が、人間の中に見受けられます。

ダシャラタ王の家族の中にはただの一つの内輪もめもありませんでした。「カイケーイーはラーマを森へと追いやった内輪もめを引き起こしたのではなかったか?」と、あなたは疑問に思うかも知れません。いいえ、それはまったくもめごとではありませんでした。事実、カイケーイーはラーマに対して大きな愛情をもっていたのです。カイケーイーは実の息子であるバラタ以上にラーマを心から愛していました。しかしカイケーイーの心はマンタラー〔ラーマを追放するようカイケーイーをそそのかした侍女〕という悪い仲間のために毒されてしまったのです。ですから、「あなたの仲間を教えてくれれば、あなたがどんな人物であるか教えよう」と言われるのです。一見邪悪に見えるマンタラーの行動は運命に導かれたものでした。マンタラーはただ前生に起きた出来事の影響を受けて行動していたのです。彼女の前生は鹿でした。ある日、彼女の娘鹿が森で夫と遊んでいると、ケーカヤ国の王〔カイケーイー妃の父〕が森に狩りをしにやって来ました。王はじゃれ合っている二頭の鹿を目にしました。王は二頭を捕まえようとするうちに弓矢で男鹿のほうを殺してしまいました。娘鹿は悲しみに打ちのめされました。娘鹿は母鹿のもとへ行き王の残忍な行為を訴えました。母鹿は、勇気をもってその死に耐えるようにと娘鹿に助言しました。それから母鹿は王のもとに行きこう言いました。「王よ、私の義理の息子をあやめたというお前の行為は非道きわまりない。お前はなしてはならぬ 残忍な行いをなし、私の娘を夫から引き離したのだ」そして、母鹿は王に呪いの言葉をかけました。「今私が義理の息子を亡くして苦しんでいるのと同じように、お前も自分の義理の息子を亡くす苦しみを味わうがよい!」そうして母鹿はマンタラーとして生まれ変わり、ケーカヤ国の王の義理の息子であったダシャラタ王に死をもたらしたのです。

ヴェーダは世俗の行動規範と霊性ニヴリッティの行動規範の調和という道を説いています。私たちは数々の欲望をもっているかもしれません。けれども、欲望は制限されるべきです。欲望は真理と正義に基づいたものであるべきです。頭に浮かんだことを何でも話してはいけません。きちんと調べてから初めて話すべきなのです。これらは『ラーマーヤナ』が人類に説いている幾つかの教訓です。『ラーマーヤナ』がヴェーダそのものの様相を呈したものと呼ばれるのはこのためです。『ラーマーヤナ』はすばらしい方法で人生における世俗的な側面 と霊的な側面の調和を教えてくれます。世俗はプラクリティ〔自然、被造物〕の本質です。霊性は神の姿です。霊性は人生を霊的に見る目を養います。人生において霊的な視野はもっとも大切なものです。世俗と霊性の完全な調和こそが『ラーマーヤナ』の主な御教えです。

『ラーマーヤナ』はダルマの行動規範と義務の道を一人ひとりに教えてくれます。時代や年代が過ぎ去っても、『ラーマーヤナ』の示すダルマの永遠なる行動規範は、今日でも全人類にとっての至福の源です。今でさえ私たちは尊敬と敬意をもって『ラーマーヤナ』の登場人物に思いをはせます。皆さんは『ラーマーヤナ』の偉大さをとてもよく理解することができます。『ラーマーヤナ』にあるものよりも高い道徳はありません。『ラーマーヤナ』は私たちの「パーラーヤナ(研究)」の対象であるべきです。『ラーマーヤナ』に描かれた行動規範を心に据えて、至福を体験しなさい。

愛の化身である皆さん!
 『ラーマーヤナ』の気高い行動規範を実践しなさい。決して生活の中でその神聖な行動規範を忘れたりないがしろにしたりすることのないように。『ラーマーヤナ』の行動規範を理解し、消化吸収するために、今日、私たちはラーマナヴァミ〔ラーマの降誕祭〕のお祭りを祝っているのです。この日を単に甘いプディング〔お菓子〕やおいしいごちそうを食べて祝うだけでは十分ではありません。

聖賢ヴァールミーキ〔『ラーマーヤナ』の述者〕は、地表に山と川がある限り『ラーマーヤナ』はあり続けると宣言しました。『ラーマーヤナ』と山や川の間にいったいどのような関係があるのかと、あなたは不思議に思うかも知れません。山は男性の象徴であり、川は女性の象徴です。この世に男と女がいる限り、『ラーマーヤナ』の栄光はきらめき続けることでしょう。女性が川にたとえられるのは、女性は犠牲の象徴であるからです。川はすべてのものの渇きをいやしつつ、絶え間なく流れます。『ラーマーヤナ』は人間に偉大な理想を示します。人はこの神聖な物語を熟考し、その理想に従うべきです。

ラーマとシーターの結婚はミティラー〔シーターの父ジャーナカ王の治めるヴィデーハ国の都〕でいとも盛大に祝われました。人々はラーマとシーターの神性なる結婚式を見に来るようにとすべてのものを招く歌を歌いました。

さあ ラーマとシーターの
結婚式を見に行こう
その光景は
すばらしい御利益を授けてくれる
この結婚式を見た者の人生は
聖化されるだろう
おお みんな聖なる結婚式を見に行こう
象にまたがるラーマはまばゆいばかりに光り輝き
母なるシーターはラーマの傍らに寄り添い
兄弟たちは二人に仕える
シーターとラーマは
微笑みながら我らの幸福を尋ねるだろう
これ以上何を望むことができようか!
さあ早く ラーマとシーターの
聖なる結婚式を見に行こう

(テルグ語の詩)

人々はラーマとシーターの結婚を喜んでこのような歌を歌いました。アヨーディヤーの人々もミティラーの人々と同じように大変喜びました。ミティラープラ〔ミティラーの都の意〕の街全体が盛大なお祝いに沸いていました。この神聖なる結婚はすべての人々に測り知れない喜びを与えました。

愛の化身である皆さん!
 ラーマの物語は、神秘的で、神聖で、至福に満ちています。ラーマの物語はただのいにしえの物語ではありません。ラーマの物語は不滅であり永遠に新しいものです。それは吉兆に満ち溢れています。皆さんが心を『ラーマーヤナ』の聖なる理想で満たしますように! 皆さんが嫌悪とあらゆる差別 を捨て去りますように! 皆さんが平和に仲良く暮らすことができますように! 絶えることなくラーマを憶念すれば、至福と歓喜を味わいます。ラーマの物語を心に刻みつけなさい。

(バガヴァンは「ラーマ ラーマ ラーマ シーター・・・」のバジャンでご講話を終えられました)

 

サイババ述

翻訳・監修:サティア サイ出版協会
出典:"Sanathana Sarathi" May 2003 pp.139-147、
http://www.sssct.org/Discourses/2003/ramanavami.htm