サティヤ サイババの御言葉

日付:2003年11月23日
場所:プラシャーンティ ニラヤム サイ クルワント ホールにて
78歳の御降誕祭の御講話

人間的価値における母親の役割

真理、正義、愛、平安が欠けていれば、あなたが受けたすべての教育に価値はありません。
真理、正義、愛、平安が欠けていれば、あなたの行うすべての善行の結果は何も残りません。
真理、正義、愛、平安が欠けていれば、権威ある地位に就いていても何の役にも立ちません。
真理、正義、愛、平安が欠けていれば、
あなたのすべての慈善行為は神聖なものではなくなります。
この四つの特質は、永遠の法(サナタナ・ダルマ)を支える四本の柱です。

(テルグー語の詩)

愛の化身である皆さん!
 人生という屋敷は、真理、正義、愛、平安という四本の柱に支えられています。人生の安全と無事は、この四つの価値にかかっています。太古の昔より、バーラタ(インド)の 文化が存続することができたのは、その文化が、これらの価値を基盤として築かれていたためです。私たちの先祖は、これらの永遠の価値を厳しく守りながら生活していました。こうした価値が欠けていれば、人生という屋敷は一瞬にして崩壊してしまいます。人類が今日まで生き残ることができたのは、人間がこれらの価値を、少なくともある程度まで実践してきたからにほかなりません。

昔、バーラタの女性の間では、満月の日毎にサティアナーラーヤナ ヴラタムと呼ばれる儀式を捧げる習慣が、普通に行なわれていました。(スワミの)母親のイーシュワランマも、それにならって満月の日には必ず、隣に住んでいたカラナム スッバンマと共にサティアナーラーヤナ ヴラタムを行っていました。カラナム スッバンマはよくイーシュワランマに、「あなたはサティアナーラーヤナ ヴラタムをしているから、神様の祝福によって男の子を授かるでしょう。その子をサティアナーラーヤナと名付けなさい」と言っていました。
 ある満月の日、イーシュワランマは、スッバンマの家でサティアナーラーヤナ ヴラタムに参加していたので、午後遅くなるまで何も食べませんでした。夫のペッダ ヴェンカマ ラージュも含めて、家族の者は皆、彼女がそれほど長い間何も食べないのを見て、たいへん気を揉みました。ペッダ ヴェンカマ ラージュは、そんなに厳しい苦行を守る必要はないと言いました。しかし、イーシュワランマの決意は変わりませんでした。彼女は、「私は少しもおなかが空いていません。私にとっては食事よりもサティアナーラーヤナ ヴラタムのほうが大事なのです」と言って、自分を待たずに食事をするように言いました。儀式が終わると、スッバンマがイーシュワランマのためにプラサーダム(神に祝福された食べ物)を持って来ました。その日イーシュワランマは、そのプラサーダムを食べたあとに、初めて食事を取ったのです。当時の女性は、実に誠実に帰依の心を込めて、そのような儀式を行なっていました。
 このときのプラサーダムを食べたあとで、イーシュワランマは(スワミを)受胎することができたのです。「ヤッド バーヴァム タッド バーヴァティ(気持ちの通 りの結果が出る)」と言います。霊的な教えを信じて、熱心にそれを守る人もいれば、それを無視する人もいます。イーシュワランマは、教えを厳格に守る人でした。ヴラタムを済ませ、プラサーダムを食べ終わってからでなければ、彼女は家事を始めませんでした。彼女は教育を受けていない女性でした。しかし、彼女は神に対する揺るぎない信仰をもっていました。
 妊娠7ヶ月目に入ったある日、スッバンマが彼女に、「イーシュワランマ、あなたのおなかの赤ちゃんが無事なのは、サティアナーラーヤナ神の恩寵のお陰ですよ」と言って、彼女に、子どもをサティアナーラーヤナと名付けることを約束させました。ペッダ ヴェンカマ ラージュの母親も、神の偉大な帰依者でした。彼女もその子にはサティアナーラーヤナ神にちなんだ名前を付けるべきだという意見でした。

午前3時、縁起のいい時間に、その子は生まれました。誕生のとき、子どもは泣くのが普通 ですが、その子はまったく泣き声を上げませんでした。産婆さんと家の者は、子どもは死んでいるのではないかと心配しました。イーシュワランマも、とても心配しました。彼女は、子どもを泣かそうとして、誰にも気づかれないように、身体をつねりました。ところが反対にその赤ちゃんはニコニコと笑い始めたので、彼女はたいそう驚きました。生まれたばかりの赤ちゃんが微笑んでいるのを見て、誰もが首をかしげました。
 ちょうどそのとき、スッバンマが家に入って来て、「イーシュワランマさん、縁起のいい時間に男の子が生まれたそうですね。お子さんを見せてもらってもいいですか?」と聞きました。
 イーシュワランマは子どもを布にくるんで、スッバンマの前に置きました。スッバンマは正統派のブラーミンの婦人でした。当時の正統派のブラーミンは、他の人々との間に距離を保って、肉体的に接触することはありませんでした。もし彼らがうっかり人に触れてしまったなら、すぐに沐浴をしました。イーシュワランマが子どもをスッバンマに近づけなかったのはそのためです。これを見ていた義理の母親は、「イーシュワランマ、彼女は、大きな愛と関心をもって子どもを見に来たのですよ。スッバンマにこの子を抱かせてあげたらどうですか? どうしてもっと近づけてあげないのですか?」と言いました。するとイーシュワランマは、「あら、お母さん! スッバンマさんはとても敬虔な正統派のブラーミンの婦人です。生まれたばかりの子どもには触れたくないかもしれません。だから私たちは、あまり彼女に近寄らないようにしなければなりません」と言いました。実際、スッバンマ自身には、そのような差別 意識はまったくありませんでした。

母親のイーシュワランマは、愛をもって注意深く子どもの世話をしました。月日が流れて、赤ん坊は少年になりました。この少年は口数が少なく、少ししか食事を食べませんでした。イーシュワランマは、息子の奇妙な行動に当惑しました。子どもたちは普通 食べることを好みます。特に、魚や肉のように、菜食以外の食べ物を好む子どもたちもいます。しかし、彼女の子どもは、菜食以外の食べ物をまったく受けつけませんでした。彼は、魚や肉が料理されている家には近づきませんでした。彼の崇高な性質を見て、イーシュワランマは、息子が普通 の子ではなく、神聖な性質をもった子どもであることに気づきました。彼女の長女のヴェンカンマも、その子の神聖な性質に気づいていました。二人は、協力して、愛を込めて注意深くその子を育てました。彼らは、子守唄代わりに神への賛歌を歌いました。その子は、このような崇高な環境で育ったのです。

プッタパルティには、正規の学校がなかったので、この肉体の兄弟の中で一番上のシェーシャマ ラージュが、私をウラヴァコンダに連れて行き、そこの学校に入れました。当時のベラリーの町長であったラーマ ラージュは、シェーシャマ ラージュの友人でした。彼は、休暇中に、私たちをハンピのヴィルパクシャ寺院に連れて行きました。私は寺院に入る気がしませんでした。そこでシェーシャマ ラージュは私に、一同が寺院の中で神様のダルシャンを受けている間、みんなの持ち物の見張りをしておくようにと言いました。私はすぐにそれを引き受けて、外に残りました。中では僧侶が神像にアルティを捧げていました。彼らは、寺院の至聖所の中の、ヴィルパクシャ神の神像があるべき場所に私が立っていたのを見て、非常に驚きました。シェーシャマ ラージュは自分の目を信じることができませんでした。実際彼は、私が度の過ぎたいたずらをしていると考えてたいそう怒りました。彼は、私が至聖所に足を踏み入れたことを、私の過ちであると考えました。彼はすぐに寺院から出て来ましたが、そこには私がいたのです!
 彼が再び寺院に戻ってみると、そこにも私がいました! それでも彼は疑っていました。彼は、妻に向かって「お前は外に出て、サティアがどこにも行かないように見張っていなさい。その間、私は寺院の中に行って、まだあの子がそこに居るか確かめるから」と言いました。彼女は言われたとおりにしました。彼は、このときも至聖所の中に立って微笑んでいるサティアを見ました。彼は、それが夢なのか、幻覚なのか、それとも現実なのか、わからなくなりました。そのとき、彼の友人のラーマ ラージュは、私の顔の周りにオーラが光り輝いていることに気がつきました。彼はこのことを自分の妻に話しただけで、それ以外の人には、シェーシャマ ラージュも含めて、誰にも話しませんでした。実際、シェーシャマ ラージュはさまざまな疑いを抱いていました。

休暇が終わって、私たちはウラヴァコンダに戻る途中でした。ラーマ ラージュが、お別れの贈り物として、私のところに半ズボンとシャツを持って来ました。しかし、私はそれを受け取りませんでした。当時は、襟にバッジを付けることが流行していました。そのため、ラーマ ラージュは、私がいつも彼のことを覚えておいてくれるようにという祈りを込めて、襟に付ける金のバッジを、私にプレゼントしました。裕福な家庭から来た子どもたちの間では、襟にバッジを付けるのはごく普通 のことでした。襟のバッジは、私がウラヴァコンダの学校に登校する途中で落ちてしまい、どこに行ったかわからなくなりました。そのとき私は、すぐに教科書を放り出して、家に戻りました。私は宣言しました。

私の真の姿はサイであると知りなさい。
世俗的な関係を捨て去って、
私を制限しようとする努力をあきらめなさい。
世俗的な執着で、これ以上私を縛りつけることはできません。
どれほど偉大な人でも、私を止めることはできません。

(テルグー語の詩)

シェーシャマ ラージュは、私がこの詩を歌ったとき、家にいませんでした。あとになって、彼の妻がそのことを話すと、笑って、私が誰かにそれを作ってもらったに違いないと言い、相手にしませんでした。彼は、自分が詩人だったので、私のような小さな子どもがそんなに素晴らしい詩を作ることは不可能だと考えたのです。

税務局員のハヌマンタ ラオは、私に対する素晴らしい愛をもっていました。彼の子どもたちまで私に深く帰依していました。ハヌマンタ ラオは、私の周りで起きていることを知ったとき、すぐに自動車でやって来て、私を自分の家に連れて行きました。彼は、「あなたの兄さんや義理のお姉さんに叱られませんでしたか? 彼らにぶたれたりはしませんでしたか? どうしてあなたは家を出て行くことにしたんですか?」と言って、いろいろと私に尋ねました。私は歌を歌いました。

この世とのつながりは、バッジの形でどこかに行ってしまいました。
ハンピへの聖地巡礼も、その目的を果たしました。
ババは、もうこれ以上、マーヤは彼を縛りつけておくことができないと言って家を出ました。

(テルグー語の詩)

私は、「世俗的な執着は、私が手放したバッジのようなものです。だから私は家を出たのです。私はもう、あそこには住みません」と言いました。私はハヌマンタ ラオの家にすら入りませんでした。その家の前に大きな岩がありました。私はその岩に座って、誰とも話をしませんでした。私に起きた変化を見て、誰もが仰天して言葉を失いました。夜になると、学校から家に帰る途中のシェーシャマ ラージュが、私を一緒に連れて帰ろうとしました。しかし、家に帰らないという私の決意は揺るぎませんでした。そのとき、ハヌマンタ ラオは、「サティアをあなたと一緒に無理に連れて帰ろうとしないほうがいいですよ。彼に、しばらくここに滞在させてはいかがですか? あとで私が彼をあなたのところに連れて行きますよ」と言って彼を説得しました。

私はしばらくそこに滞在しました。多くの人が私の所にやって来て、「お前はお化けか? それとも魔物なのか? いったいお前は誰なのだ?」などと言って、さまざまな質問をしました。私は彼らに、自分はお化けでも魔物でもない。「私の本当の姿はサイババであると知りなさい」と言いました。彼らは、「お前がサイババであるということを、どうやって信じればいいのか? お前はその言葉を証明することができるのか?」と尋ねました。事実、その当時、アナンタプール地区の人は、サイ ババという名前すら、誰も聞いたことがありませんでした。私は花を何本か手に取って、それを床に投げました。人々が驚いて見ている目の前で、花は床の上に落ちて、ひとりでにテルグー語のサイババという文字の形になりました。誰かがカメラを持って来て、私が岩に座っている写 真を撮りました。私の前に小さな石がありましたが、それは、写真にはシルディ サイ ババの姿に写っていました。その写真は何枚も焼き増しされてみんなに配られました。

その日私が腰掛けた岩は、今でもそこにあります。その場所に、シュリ サティア サイ オーガニゼーションのアンドラ・プラデーシュ州統括世話人のアンジャネイアが、広いホールを持った寺院を建てました。

だんだん私の名声が広まり、さまざまな村や都市から、人々が私の周囲に集まり始めました。悪霊に取り憑かれた人が、牛車で私のいる所に運ばれて来ました。彼らは、私が悪霊を退散させることができると信じていました。精神的に障害のある人々も、私の所に連れて来られました。彼らが信じていた通 り、悪霊は祓われ、患者の精神病は癒されました。すると人々は、私の神性を信じるようになりました。

大勢の人々がやって来るようになったので、シェーシャマ ラージュは、私を彼のもとに置いておくことができなくなりました。そこで彼は、(父親の)ペッダ ヴェンカマ ラージュに手紙を書いて、私をプッタパルティに連れて帰るために、出かけて来てくださいと頼みました。その当時、プッタパルティは非常に辺鄙な村だったので、手紙が届くまで何日もかかっていました。ところが、ペッダ ヴェンカマ ラージュは、市場に買い物に行った先のブッカパトナムで、その手紙を受け取りました。その手紙には、「お父さん、もうこれ以上、サティアを私たちの家に置いておくことはできません。どうかすぐにこちらに来て、彼を連れて帰ってください」と書いてありました。ペッダ ヴェンカマ ラージュは、ブッカパトナムから真っ直ぐウラヴァコンダにやって来ました。彼は十分なお金の持ち合わせがなかったので、シェーシャマ ラージュからバス代を受け取って、私をバスでブッカパトナムまで連れて行きました。その先は交通 の手段がなく、私たちは、プッタパルティまでの長い道のりを歩かなければなりませんでした。実際、プッタパルティという村の名は、近隣地帯を越えた所ではほとんど知られていませんでした。

私たちがプッタパルティに到着すると、この肉体の祖父であるコンダマ ラージュが家にいました。彼は非常に厳格で、深く神を思う人でした。そしてヴェンカマ ラージュに「ヴェンカッパ、この子の好きなようにさせなさい。決してこの子にさからってはならない。この子は神聖な意識に浸っている。しばらくうちに住まわせなさい」と言いました。祖父は私を手元において、愛を込めて注意深く私の世話をしました。

ペッダ ヴェンカマ ラージュと、チンナ ヴェンカマ ラージュ、ヴェンカタラーマ ラージュ、ヴェンカタ スッバ ラージュの四人の兄弟は、別々に暮らすことにしました。コンダマ ラージュは、財産を四等分して、彼らに分け与えました。そのとき、ペッダ ヴェンカマ ラージュは、「お父さんは誰と一緒に暮らすのですか?」と尋ねました。コンダマ ラージュは「私は誰とも一緒に暮らさない。私は自分の財産はいらない。私には、サティアをくれ。それで十分だ。あの子は私の面 倒を見てくれるだろう」と答えました。その当時、誰も私を、サティアナーラーヤナという正式の名前で呼ぶ人はいませんでした。みんな私を「サティア」と呼んでいました。その日から、私はコンダマ ラージュの家で暮らして、彼に仕えました。
 毎日、朝と晩に、姉のヴェンカンマが私の所にやって来ました。ときおり彼女は、「サティア、あなたは夢を見るのですか? 誰かがあなたの前に現れて、話しかけるのですか?」と尋ねました。しかし、私は彼女に何も言いませんでした。彼女は、サイババを深く信じていました。ある日、彼女は、「サティア、どうか私にサイババの写 真をください」と祈りました。私はすぐにサイババの写真を物質化して、彼女に与えました。彼女は、最後の息を引き取るまで、その写 真を肌身離さず持っていました。

ある日、コンダマ ラージュがヴェンカンマを呼んで言いました。「周りの人々は無知に包まれて生きている。彼らはサティアの神聖な性質に気づくことができないでいる。サティアは、まさに神御自身なのだ。彼は決して空腹を覚えず、決して喉の渇きを訴えることもない。彼は空腹と睡眠を超越しているのだ」

ナマギリアンマというのが、イーシュワランマが両親から授かった本当の名前でした。コンダマ ラージュは、私の神性に気づいたので、息子のペッダ ヴェンカマ ラージュに、彼女の名前をイーシュワランマに変えるようにと言いました。というのも、コンダマ ラージュは、彼女が神の母親であることをよく知っていたからです。

真夜中に、コンダマ ラージュは、よく私の鼻の近くに静かに手を置いて、私が息をしているかどうか調べました。ときには、まったく呼吸を感じることができないこともありました。私からソーハムの音だけが聞こえているのです。人々が私に会うためにコンダマ ラージュの家に押し寄せるようになりました。誰かに尋ねられると、彼らは、「コンダマ ラージュの息子は神の力を持った子どもです。彼は私たちの夢の中に現れて問題を解決してくれます」と答えました。

あるとき、シェーシャマ ラージュが休暇中にプッタパルティを訪れました。彼は多くの人がコンダマ ラージュの家を訪れているのを快く思いませんでした。そのころ、彼は完全に疑っていました。彼はコンダマ ラージュと口論をして、誰も彼の家に入れないようにしなさいと言いました。 その当時、村では教育を受けた人はたいへん尊敬されていました。シェーシャマ ラージュは、教職課程を終了したばかりで、村の人々は、彼を非常に教養のある人物と見ていました。彼はコンダマ ラージュに言いました。「おじいさん。誰もこの子に近づけてはいけませんよ。彼には神の力なんかないのですから。サティアはヒステリー症にかかっているのです」。このように、シェーシャマは私を嘲笑した発言をしていました。

サイは偉大だという評判が、着実にあらゆる所に広まっていきました。人々があまりたくさん押しかけてくるので、家の中に人が入りきれなくなりました。そのとき、ペッダ ヴェンカマ ラージュは、人々に、毎週木曜日だけ家に来るようにと言いました。しかし人々は、木曜日まで苦しみに耐え続けることはできないと言って抗議しました。すると、スッバンマがヴェンカッパを呼んで、増え続ける人々を彼の家に入れることは現実的に無理なので、私を彼女の家に連れて行って、彼女が、私の世話と、来訪者の世話をしましょうと言いました。
 スッバンマはブラーミンであり、スワミはラージュ家のカースト(クシャトリヤ)に属していたので、プッタパルティのブラーミンたちはスッバンマの提案に反対して、彼女を村八分にすると言いました。しかしスッバンマは、自分には子どもがいないし、他人ひとの家を訪ねることも好きではないので、村八分になってもかまわないと言いました。そして、「私は決してサティアを見捨てません」と、言いました。
 村には、何軒かハリジャン(「神の子」の意味、カーストの最下層の人)の住まいがありました。このハリジャンたちは、スワミに深く帰依していました。私はよく彼らの家を訪れました。スッバンマまでも、私に付いて彼らの家を訪れました。彼女は、たとえ一瞬でも私から離れていることに耐えられなかったのです。彼女は、実の息子に対するように、私の世話をしていました。村のブラーミンたちは、スッバンマを完全に敵視し、彼女の実の母親や兄弟までもが彼女に敵対しました。神の化身を信仰する道には、そのような障害はつきものであり、彼女はよくそのことを理解していました。彼女は、どんな人を敵に回すことになっても、まったく気にかけないと言明しました。彼女は、私一筋に生きようという固い決意をもっていました。
 間もなく、彼女の家にも、訪問者があふれるようになりました。そこで、あるとき、ヴェンカッパが彼女に近づいて、「どうしてあなたが、私の息子のせいでこんな苦労をする必要があるのでしょうか? 別 に家を建てて、彼をそこに入れましょう」と言いました。そこでスッバンマは、サティアバーマ寺院とヴェヌゴーパラ スワミ寺院の間にある土地を提供しました。そこに小さな部屋が作られました。家族の者が私をその部屋に閉じ込めて鍵をかけましたが、鍵をかけて閉じられた部屋から、私はいつも外に出て、小高い丘の頂上に座っていました。こうした不思議なことは、毎日起きていました。

一方、スッバンマにカーストのことで敵対していた人々は、毒を盛ってスワミを亡き者にすることに決めました。そのころの私は、ヴァダ(インドの珍味)がたいへん好物でした。そこで、敵対者たちはいくつかヴァダを作って、その中の数個に強い毒を混ぜました。スッバンマはいつも、彼らの家には行かないようにと、私に警告していました。しかし私は、彼女の反対を押し切って、あらゆる場所に行っていました。このときも私はその家に行って、わざわざ毒入りのヴァダを選んで食べました。この毒殺の試みの結果 は皆さんが知っている通りです。

ペヌコンダで、一人の男が、自分はサイ ババの帰依者で、奇跡の力をもっていると言い出しました。そのほかにも、何人かの人が私の着物や身振りを真似て、あちこちを回っては信者を集めようとしました。ただ単に私の名前を使ったり仕草を真似たりするだけでは、いつまでも信者をつなぎ止めておくことはできません。人々は間もなくそのことに気づきました。

この後、私はバンガロールに滞在するようになりました。イーシュワランマとヴェンカンマは、プッタパルティを見捨てないでおくれと私に懇願しました。私は彼らに、決してプッタパルティを見捨てないことを約束しました。マイソールのマハラニ(王妃)を始めとする王族たちが、よくプッタパルティを訪れました。その当時、チトラヴァティ川にはたいていいつも水が流れていました。彼らは水の少ない川床に厚い木の板を置いて応急の道を作り、その上を車で通 りました。地域の身分の高い人も低い人も、信者になる人が増えてきたので、反対者がさまざまな妨害工作をする機会はなくなってしまいました。

すべての偉大な人々は、母親の強い影響によって生まれたのです。子どもたちの偉大さをもたらすものは、母親の崇高な道徳的人格と行動です。ラーマの偉大さをもたらしたのはカウサリヤーの美徳です。同様に、シータが育てたからこそラヴァとクシャは素晴らしい人物に育ちました。このように有徳の母親のお陰で、理想的な子どもたちが育つのです。私は、イーシュワランマに約束してからは、決してプッタパルティを見捨てませんでした。全世界がここに集まってくるかもしれませんが、私がプッタパルティを捨て去ることはありません。アヴァターは、自分が生まれた土地を捨てることはありません。もしここから植物を抜いて別 な場所に植えるとすれば、それはどのくらい生き続けるでしょうか? 木は、種から芽が出た場所で成長するべきです。このような理由から、サティア サイ ババは、根をプッタパルティに留め、プッタパルティを巡礼者の聖地としたのです。ブッカパトナムの高校が建てられたとき、私は、人々から祈りの歌を歌うように頼まれて、バーラタ(インド)の人々の、多様性の中の一体性を強調する詩を創って歌いました。

母性の力は説明できません。母親が、道徳的価値を正しく守り、それに厳しく従うことが、子どもの中の優れた性質として現れるのです。母親は、教育を受けていないかもしれません。彼女らの偉大さは、教育や書物による知識によって決まるのではありません。教育のないイーシュワランマの美徳が、プッタパルティにこのような名声をもたらしたのです。イーシュワランマの息子が褒め称えられているのに、イーシュワランマが忘れられているのは、嘆かわしいことです。イーシュワランマがいなければ、どうしてこのように驚くべき力が生まれることができたでしょうか? 皆さんは、決して両親を粗末にしてはなりません。

このプッタパルティという村の、名前の起こりは何でしょう? それにまつわる不思議な話があります。ヴェヌゴーパラ スワミ寺院の近くに蟻塚があり、その中に一匹の蛇が住んでいました。牛飼いたちは、毎日、牛を村の外れに連れて行って草を食べさせていました。群れの中の一頭が、毎日蟻塚に行くと、蛇が牛の乳首からミルクを飲んでいました。その牛は、家に帰って来たときには、いつもミルクが出なくなっているのです。牛飼いたちはその理由を突き止めて、蛇を殺す計画を立てました。
 ある日、蛇が牛のミルクを飲んでいるとき、彼らは大きな石で蛇を殴りつけました。蛇は激怒して、牛飼いたちと牛が村の中に住めなくなるようにと呪いをかけました。牛飼いたちが、プッタパルティを離れてゴークラムの近くに家を建てたのは、そのためです。今でも、皆さんはそれを自分の目で確かめることができます。牛飼いたちが蛇を殺そうとした大きな石は、現在ヴェヌゴーパラ スワミの神像として崇められています。

私が今日、こうしていろいろお話ししたのは、皆さんに、サイ ババという名前とプッタパルティという名前の意味を知らせたかったからです。プッタパルティには偉大な歴史があります。多くの傑出した人々が、スワミに会うためにこの場所を訪れました。ここには多くの富豪が住み、村に大きな名声をもたらしました。その当時、マイソール州のマハラジャ(藩王)とその母親が、頻繁にこの地を訪れました。そういった多くの身分の高い人々が、プッタパルティの偉大さを知り、この地を深く敬いました。

プッタパルティの神はあなたを常に守護します。
彼は慈愛の化身です。
彼はあなたの手を取って、人生の大海を渡してくれます。
彼は、いかなる状況にあっても、決してあなたを見捨てることはありません。

(テルグー語の詩)

愛の化身である皆さん!
 皆さんは、多大な徳を積んできたので、本当に幸運に恵まれています。というのも、サイという神を身近に感じることができるからです。皆さんがスワミと歌い、スワミと遊ぶことができるのは、大いなる幸運です。皆さんはサイと共にいて、サイは皆さんと共にいます。私がよく、「私とあなたは一つです」と言うのはそのためです。神の力と栄光は、人間の理解の範囲を超えています。神に対する揺るぎない信仰心を培いなさい。

学生の皆さん!
 プッタパルティに来て、ここで勉強している以上、皆さんは、プッタパルティの威信を高めるためにあらゆる努力をすべきです。私は皆さんに、重要なことを一つ指摘したいと思います。学生たちは普通 、休暇を自分の家で過ごしたいと望みます。しかしここでは、学生たちは休暇が始まっても家に帰ろうとはしません。実家に帰るのは、ごく少数の学生のみです。ほとんどの学生は、大学院の勉強が終わったあともここに残りたがります。それはなぜでしょう? ここには、最も素晴らしい神の磁石があります。神はすべてのものを引き付けます。神の力はあらゆる推測を超えています。皆さんはこの先、この磁石の力をますます豊かに体験するようになります。

(バガヴァンは「ハリ バジャナ ビナ…」というバジャンをお歌いになり、御講話をお続けになりました。)

(アンジャネイア博士を指差して、スワミはおっしゃいました。)彼はウラヴァコンダにマンディール(神殿)を建てました。そのマンディールには、私が人々に初めて教えを伝えたときに座った岩が祀られています。彼は医学博士号を修めて、仕事をしていました。そして、退職したあとは、スワミへの奉仕に身を捧げることを決意しました。現在彼は、シュリ サティア サイ セヴァ オーガニゼーションのアンドラ プラデーシュ州の統括世話人をしています。(年配の帰依者を指差しながら)彼は、アンジャネイア博士の義父です。彼もまたウラヴァコンダに住んでいます。彼はスワミのために、特別 に100エーカー(40ヘクタール余り)の土地を確保しています。彼はそこでさまざまな種類の果 物を育てていて、できたものをプッタパルティに送っています。彼は、百歳の誕生日を一年前に済ませました。
 私はここで、もう一つ重要なことを伝えたいと思います。このプラシャーンティ ニラヤムで、スワミに命を捧げる帰依者たちは、百歳の命をまっとうします。カストゥーリはここに来て寿命をまっとうしました。プージャリ キスタッパの場合も同じでした。皆さんは、カマヴァダニのことを聞いたことがあるかもしれません。彼は偉大なヴェーダ学者でした。彼はここに来て、30年住みました。彼は一度もプッタパルティを離れませんでした。ある日彼は、このマンディールでラーマ カリヤナムの儀式を執り行ったあと、私に、「スワミ、私は自分の部屋に戻ります。沐浴をしてから戻ってきます」と言いました。「あなたはここに戻って来る必要はありません。沐浴のあと、食事をして静かに眠りなさい」と、私は言いました。彼は自分の家に戻り、沐浴を済ませました。そして、スワミに言われたとおりに、食事を取って休みました。彼は、眠っている間に安らかな死を迎えました。彼の心には、いつでもサイの名前がありました。彼は何の病気にもかかりませんでした。
 もう一人、スーライヤという名の帰依者がいました。彼は独身で、彼には欲望がありませんでした。ここに来る前、彼はヴェンカタギリのラージャ(藩王)に仕えていました。ある日彼は、王様にプッタパルティに行きたいという気持ちを伝えました。王様はたいそう喜んで、彼がここに来るための仕度をすべて整えてくれました。彼はここに30年以上も滞在してスワミに仕えました。彼も百歳まで生きて、眠っている間に安らかに死を迎えました。

(了)

 

サイババ述

出典:http://www.sssct.org/Discourses/2003/Birthday.htm
翻訳:サティア サイ出版協会