サティヤ サイババの御言葉

日付:2004年5月6日
場所:バンガロール、ブリンダーヴァンのサイ ラメーシュホールにて
「イーシュワランマの日」の御講話

 

母親の胎内から生まれ出るとき、
人はどんな花輪も首にかけてはいない。
真珠や黄金も、トパーズやルビー、その他の貴重な宝石の首飾りも身につけてはいない。
しかし、そこには前世における良い行い、
悪い行いの結果をつなぎあわせて完璧な環となった花輪がある。
創造主ブラフマーが、生まれ出る人の過去の行いの結果をつないで重たい花輪とし、
誕生のとき、その花輪を彼の首にかけるのだ。

(テルグ語の詩)

愛の化身である皆さん!
 この世界にはすべての人に四人のグル(註:師)がいます。ヴェーダは「マットゥルデーヴォー バーヴァー、ピットゥルデーヴォー バーヴァー、アチャルヤデーヴォー バーヴァー、アーティティデーヴォー バーヴァー」と宣言しています。それは、母親、父親、教師、そして客人は神とみなされるという意味です。この四人のうち、母親が最初でもっとも重要なグルです。母親の教えの中にはいくつかの内なる意味があります。非常に注意深く母親の指示に従う者が真の弟子です。母親は他の人々と同じように普通 の人間に見えるかも知れませんが、その教えを深く調べてみると、彼女が偉大なグルだということにあなたは気づくでしょう。しかし、霊性の道にいない者たちはこのすべてを軽くあしらうことでしょう。

あるとき、母イーシュワランマは、水がいっぱいに入った容器を抱えながらチットラーヴァティー川から帰って来ました。彼女と一緒に、水を満たした容器を持った一人の老女が、その重さに耐えられず大変そうに歩いていました。
 「お母さん、水がいっぱいの容器を運ぶのは大変ではないですか?」とイーシュワランマは尋ねました。イーシュワランマの歩調についていけないその老女は、汗を浮かべつつ答えました。
 「そうとも!こんなに長い道のり、抱えていくのは大変だよ。でもね、この仕事を助けてくれる子どもが私にはいないのさ。だから、重たいこれを毎日自分で運ばなくちゃならないんだよ」。この苦しみの言葉はイーシュワランマの心に焼きつけられました。

しばらく歩くうち、彼女は小さな男の子を見かけました。彼は、片方の手に石版と鉛筆を持ち、重たい本を入れた袋を首にかけて運んでいました。その子はしっかり歩くことができませんでしたが、ブッカパトナムの学校まで行かなくてはなりませんでした。
 「かわいい坊や、この石版と鉛筆は何のためなの? どうしてそんなに重い本を運んでいるの?」とイーシュワランマはその男の子に尋ねました。
 「お母さん、ぼくは、先生が教えてくれることをぜんぶ書き留めるために、この本を運んでいるんだよ」。イーシュワランマは、これらすべての出来事を心の中に留めておきました。

さらにしばらく歩くと今度は、幼児をおぶってブッカパトナムへと向かっているか弱い女性に出くわしました。イーシュワランマは、この女性にまた尋ねました。
 「あなたは、か弱くて子どもをおぶってられないように見えるけれど、なぜブッカパトナムまで、そんなに長い距離を歩かなくてはならないのかしら?」
 その女性は答えました。「お母さん! ほかに何が私にできるっていうんですか? このへんぴな村には私の子どもに薬をくれるお医者さんがいないのです。息子は風邪と熱に苦しんでいます。私は息子をブッカパトナムの病院まで連れて行かなくてはならないのですよ」。この出来事もまた、イーシュワランマの心に焼きつけられたのでした。

かつてコルカタ(カルカッタ)の近くのへんぴな村に、一人の母親と男の子が住んでいました。その子が生まれるとすぐ父親は死んでしまいました。母親は、いくつかの風変わりな仕事をして得たわずかな収入でどうにかその子を育てました。家の中には、その男の子が夜勉強するためのランプさえありませんでした。彼は、よく街灯の下に座り勉強したものです。このように彼は大変な困難を伴いながら勉強を続け、高い学位 を獲得したのです。この小さな男の子は、伝説的なイーシュワラチャンドラ ヴィッディヤーサーガルへと成長しました。
 あるとき、コルカタでお祭りが催されていました。イーシュワラチャンドラの母親も、すり切れたサリーを着てそのお祭りに出かけました。彼は母親のかわいそうな様子を目にしました。他の誰もが高価な衣服を身につけてお祭りに来ている中、ヴィッディヤーサーガルは、すり切れたサリーを着てお祭りに行こうとしている母親を見ることに耐えられませんでした。
 「お母さん、どうしてそんなすり切れたサリーを着てお祭りに行くのですか?」と彼は尋ねました。母親は答えました。
 「愛しい息子よ、私は、どんなものであれ、持っているものに満足しているんだよ。どうか心配しないでおくれ。お前は自分の勉強を続けて、出世するんだよ」。
 この出来事の二、三年後、ヴィッディヤーサーガルは学業を終えました。彼は高給の良い仕事を得ることができました。彼は、初任給で母親に上等なサリーを何着か買いました。すると母親は彼に言いました。
 「この高価なサリーはあまりうれしくないね。もしもお前が私たちの村の貧しい人たちを助け、彼らの苦しみを少なくともある程度軽くしてくれるなら、それで私は十分なんだよ」。さらに、彼女は三つの願いがあると言いました。すぐにヴィッディヤーサーガルは母親の足元にひざまずき、
 「お母さん!あなたの願いを満たすのは私の義務です。母親の願いを叶え幸せにすることが息子の義務なのです。どうぞあなたの願いが何なのか私に教えてください」と請いました。母親は答えました。
 「愛しい息子よ、私たちの村には、貧しく、無学で病気の人々がいる。いったい誰が彼らの苦しみを軽くできるのだろうね? お前が彼らの困難を取り除いて初めて、私は本当に幸せになれるんだよ。この村の子どもたちは長い距離を歩き、隣村まで勉強しに行かなくてはならない。これにはとても心が痛むんだ。あの子たちは、教育のためにどうしてそんなに苦労しなくちゃならないのかね? この村に小さな学校を建てておくれ。そうすれば子どもたちはここで快適に勉強することができる」。ヴィッディヤーサーガルは、母親の願い通 りに、村に小さな学校を建て、母親は満足しました。

別の日、ヴィッディヤーサーガルは母親が物思いに沈んで坐っているのに気づき、そのわけを尋ねました。彼女は言いました。
 「愛しい息子よ、この村の人々は飲み水が不足してとても苦しんでいる。遠いところから歩いて水を運んでこなくてはならないんだよ。この村の井戸は完全に枯れてしまった。私のような老女がいったいどうやってそんな遠いところから水を運べるかね? もしもお前が私たちの村に井戸を掘る手配をしてくれたら、村の皆にとってはすばらしいお恵みとなるだろうよ。これが私の二つ目の願いだよ」。ヴィッディヤーサーガルは、
 「お母さん、必ずあなたの願いを叶えてさしあげます。村の飲み水の問題を解決するようやってみます」と母親に約束しました。初めに、彼は二、三の掘り抜き井戸を村に供給しましたが、それらはあまり使い物になりませんでした。雨季の間しか水を供給することができなかったからです。夏の間、井戸は一滴の水すらもたらすことなく干上がってしまいました。それゆえ、母親は、彼に水不足問題の恒久的な解決策を見つけるよう勧めました。ヴィッディヤーサーガルは大きな井戸を掘るよう手配し、二度と水不足の問題が起こらないよう解決したのでした。彼の母親は満足しました。

しばらくしてヴィッディヤーサーガルは仕事で昇進しました。給料も増えました。彼は母親のそばに行き尋ねました。
 「お母さん、三つ目のお願いは何でしょうか?」彼女は答えました。
 「愛しい息子よ、お前は学校を建ててくれた。村に飲み水を供給してくれた。でも、この村の母親たちは、子どもが病気になると隣の村まで治療のために連れて行かなくてはならないのだよ。私は彼らの苦境を見ていられない。だから、もしもお前が私たちの村に小さな病院を建てるよう手配してくれるなら、私はうれしいよ」。母親の願いに従って、ヴィッディヤーサーガルは、村に病院を建設しました。このように、ヴィッディヤーサーガルはついに母親の願いのすべてを叶えたのでした。
 彼は、善良な行いによって次第に仕事で高い地位を得ていきました。給料も地位 が上がるにつれて増えました。それにもかかわらず彼は謙虚で従順であり続けたので、彼自身の名声を得たのです。ある日、母親は彼を呼び、
 「愛しい息子よ、お前がとても高い地位を獲得して私は幸せだよ。でもね、傲慢になってはいけないよ」と助言しました。

ある人々にとって、
過ぎた富はエゴを増大させ、次々に多くの邪悪な性質への道を開く。
富があなたから去るとき、エゴもまた消え去り、その結果、
邪悪な性質は消えうせる。

(テルグ語の詩)

しかしながら、ヴィッディヤーサーガルは傲慢ではありませんでした。彼は教育とともに謙虚な性質を培い、偉大な説法者として名声を博しました。教育ある多くの人々が彼の周りに集まり、彼の話に耳を傾けました。
 あるとき、近くの町で集会が開かれることとなり、ヴィッディヤーサーガルはそこで講演する予定でした。ヴィッディヤーサーガルはその町へと出発しました。ヴィッディヤーサーガルが乗っている電車の同じコンパートメント(註:仕切った車室)に、ICS(註:インドの官庁の独立前の名称)の職員が一人乗っていました。その職員はヴィッディヤーサーガルの話を聴きに行こうとしていたのですが、ヴィッディヤーサーガルについては名前しか聞いたことがなく、見たこともありませんでした。
 さて、その職員は電車から降りるとすぐさま「クーリー、クーリー!」(註:苦力、荷物の運び屋)と叫びました。これを見たヴィッディヤーサーガルは彼に近づき、どんな荷物を持っているのかと尋ねました。その職員は、小さなスーツケースが一つだと答えました。ヴィッディヤーサーガルはこう問いかけました。
 「この小さなスーツケースを運ぶのにクーリーが必要でしょうか? 私が運んでさしあげましょう。しかしいったいどちらへ行かれるのですか?」職員は答えました。
 「イーシュワラチャンドラ ヴィッディヤーサーガルという、偉大な学者かつ説法者が話をすることになっている。私はそれを聞きに行くのだよ」。すると、ヴィッディヤーサーガルはスーツケースを持ち、その職員と一緒に歩き始めました。
 二人はヴィッディヤーサーガルの講演会場に到着しました。そこでヴィッディヤーサーガルはその職員にスーツケースを渡しました。すると職員は財布を取り出し、ヴィッディヤーサーガルにいくら運搬料を払えばいいのかと尋ねたのです。ヴィッディヤーサーガルは、
 「あなたは私にあなたに奉仕する機会を与えてくれました。それで十分です」と言って、ていねいに彼の申し出を断りました。彼は静かにその場を立ち去りました。おかしな人がいるものだ、と考えながら、その職員は会場へと向かい、聴衆の中に座りました。
  一方、集会の主催者たちは、イーシュワラチャンドラ ヴィッディヤーサーガルが到着したら花輪をささげようと待っていました。数分のうちに大変簡素な衣服をまとったヴィッディヤーサーガルが到着しました。彼は暖かい歓迎を受け、集会の主催者たちから惜しみなく花輪で飾られたのでした。この歓迎の式を見守っていたあの職員は、駅から彼のスーツケースを運んだ人物がイーシュワラチャンドラ ヴィッディヤーサーガルその人だということに気づき、大変驚き、また、恥ずかしく思いました。彼は、心の中で偉大かつ謙虚なその人にうやうやしくあいさつしました。ヴィッディヤーサーガルは話を始め、謙虚さは教育ある人にとって一番の性質であると説明しました。自尊心と傲慢は過ぎた富の結果 であり、自尊心が強く、傲慢な人は、人間の基本的性質を失ってしまう、と彼は話しました。

プログラムが終了したのち、ICSの職員はヴィッディヤーサーガルに会い、自分の間違えを心から詫びました。
 「先生、あなたのお話は、私の目を覚ましてくださるすばらしいものでした。私は、自分は高い教育を受けている、という自尊心のために傲慢に振舞いました。どうぞお許しください」と彼はヴィッディヤーサーガルに乞いました。

その後、ヴィッディヤーサーガルの学者と説法者としての評判は急速に高まりました。彼はすばらしい奉仕を人々のために続けました。何人かの貧しい学生に教育を受けさせたり、飲料設備のないいくつかの村々に飲み水を供給しました。彼の母親は息子が、貧しく困窮している人々にすばらしい奉仕を行っていることがとても幸せでした。彼女は、すべての母親がそのような気高い子どもに恵まれますようにと神に祈りました。

同じように、サティア サイは自分の母親の願い通り、プッタパルティで貧しい人々のために、住居の建設や彼らの子どもたちへの教育、村人への飲み水の供給など、いくつかの地域社会福祉活動に着手しています。母がその昔に口にしたのは小さな願いでした。しかし、時がたつにつれて、それらは巨大プロジェクトとなり、歴史を築きました。
 母、イーシュワランマはスワミが村人に行った偉大な奉仕をとても幸せに感じました。彼女は、満足しながら、
 「愛しい息子よ、あなたは貧しい人のために家を建て、村人のために飲み水の問題を解決しました。暗闇の下でよろめいていた村に電気を供給してくれたし、学校と病院も建ててくれました。あなたは私のすべての望みを叶えてくれましたね」と言いました。彼女は、自分の息子がそのような偉大な仕事を引き受け完成させたことがとても幸せでした。彼女はよく自分の周りに集まった女性たちに、  「私は、スワミにプッタパルティ村に小さな学校を建てておくれとお願いしたのです。でも、スワミはこの地にすばらしい教育機関を設立したのですよ」と話していました。

このように、母親の謙虚な願いは、最終的には多くの人々に巨大な恩恵を与える大掛かりなプロジェクトに変容したのです。今日、国が必要としているのは母親の教えに従う子どもたちです。母親の教えはとても単純で取るに足らないものに見えるかも知れませんが、それはやがてすばらしい幸福を与えてくれるのです。
 イーシュワランマの願いはとても単純なものでした! 彼女は小さなプッタパルティ村に飲み水が供給されるよう願いました。しかし、スワミはアナンタプール地方全域に飲み水を供給したのです。彼女は私に小さな学校を建てて欲しいと思いました。しかし、サティア サイは巨大な建物を建設しすばらしい教育機関を設立したのです。その昔、村人たちは初歩的な医療設備すらないために苦しんでいました。ですから、母、イーシュワランマは私に小さな病院を建てて欲しいと願ったのです。しかし、スワミは偉大な癒しの寺院、サティア サイ スーパー スペシャリティ ホスピタルを、プッタパルティと、もう一つ、バンガロールに建設しました。このように、母親の小さな願いは偉大な機関の建設という結果 になったのです。

愛の化身である皆さん!
 あなたは誰にも従う必要はありません。あなたの母親を満足させる活動に従事するならば、それで十分です。あなたの母親が幸せであり満たされているのなら、それはあなたにすばらしい恩寵を授けてくれることでしょう。母親の言うことは何でも喜んで、心から彼女の指示に従いなさい。今日必要なのはそれなのです。あなたの母親に従い、彼女の愛の受取人となりなさい。そうすれば、世界全体が発展することでしょう。あなたは他の価値ある行為を行う必要はありません。母親を満足させるためにあなたの全人生を捧げなさい。サティア サイは自分の母親の願いを叶え、彼女に満足を与えたからこそ、その栄光があまねく広がったのです。

サティア サイはすばらしい病院を建設し、貧しい者の中でもっとも貧しい者から一番のお金持ちにいたるまで、すべての人々に高価な治療をまったく無料で提供しています。医療サービスの分野でサティア サイ ハイヤー メディカル サイエンスと比べることのできる機関は世界のどこにもありません。この病院では薬、手術、食べ物など、すべて無料で提供されています。今日の急騰する経費の枠組みの中で、どうやったらこれらすべてを無料で提供できるのか誰も理解することはできません。不幸にも、人々は私たちの病院で行われている奉仕の価値に気づくことができません。
 今日、多くの病院が電子的なメディアでその設備を宣伝することによって人々を魅了し、人々が苦労して稼いだお金を略奪し、怠慢によって患者の死を引き起こすまでになっています。これは正しいことではありません。貧しい人々は無料の食事、無料の教育、無料の水、そして無料の医療が与えられるべきなのです。
 これらの奉仕を無料で提供する以上に偉大な奉仕はありません。私は卒業生も在校生も全員がそのような奉仕を引き受けることを望みます。私たちは学生から学費として一パイサも集めたりしません。サティア サイ教育機関はまったく無料で教育を提供しています。その他の機関では高い教育を受けるために巨額な金銭を支払わねばなりません。しかし私たちの学生は支払いの必要がないのです。私は愛と大きな期待をもって、ここにやって来たすべての学生に、幼稚園からから大学院まで、まったく無料の教育を提供しています。事実、すべての私たちの奉仕は、愛情のこもった配慮とともに無料で行われているのです。

先ほど話をしたシーク教の学生は、高等教育を受けるために長い間努力していました。しかし、資金不足のために高等教育を続けることができませんでした。したがって彼はわずかな給料の仕事を始めたのです。のちに彼は私たちの大学に入り、MBAを獲得しました。今、彼はスワミへの大いなる捧げものとしてホステルに奉仕を捧げています。スワミの機関には、彼のような奉仕活動を行っている学生が幾人かいます。
 彼のあとに話をした青年はデリーの出身です。彼もまた高等教育を受けることに大きな期待をもっていましたが、資金がありませんでした。彼は私たちの学校に入り、首位 の成績でMBAの学位を得たのです。このすべてが無料でした。それ以来、彼はスワミに奉仕するためにここにとどまっています。彼は自分の人生を、奉仕する青年を育てるこの機関のために捧げると決意しました。  
 このように、サティア サイ 教育機関の全学生は広い心と奉仕の精神を培っているのです。私たちの学生はみな広い心をもっています。ここでは心の狭い学生を一人も見つけることはありません。学生たちは愛で満たされ、兄弟のように振舞っています。私は、そのような理想的な青年男女を訓練することに取り組んでいるのです。私たちのすべての学生が、愛と犠牲の精神をもって、喜んで社会への無料の奉仕活動に着手することが私の願いです。

私たちの卒業生の多くが、デリーやアーグラーなどの大都市で高給の仕事に就いています。事実、インドのトップ企業が、高給の仕事を示しながら私たちの学生に奉職を求めています。そういった所で働いている卒業生はまた、貧しい学生たちに無料の授業を提供するなどの奉仕活動を行っています。どこにいようとも、私たちの学生は犠牲の精神と広い心で奉仕活動を行っているのです。教育は単なる机上の知識ではありません。広い心や犠牲の精神を育むこと、喜んで社会の仲間たちと自分の資産を分かち合い、彼らを幸せにすること、これらが真に教育のある者の性質です。
 プラシャーンティ ニラヤムには、社会への奉仕を行うことによって幸せと満足を得ている学生たちがいます。私の主な仕事とは、そのような青年男女を育てることです。彼らに必要なものすべてを私は与えています。さらに、必要ならば彼らをより高い教育のために外国へ送りもするのです。

ここに座っているドクター バドマナブハンを皆さんは知っていると思います。彼はとても若くして医師の資格を受け、ここブリンダーヴァンに小さな診療所を設立したいと思いました。私は、彼を呼んで言いました。
 「ドクター、君は医学においてより高い学位を得なくてはならない。今の学位 で学業を終えるべきではない。君の家庭環境ではより高い教育を続けさせてもらえないかも知れない。しかし、私は君とともにいるのだよ。私が君により高い教育を与えてあげよう」。
 ある日、私は彼を夕食に呼び、その後、より高度な医学の勉強のために彼をウィーンに送ったのです。彼はこれに従い、医学の分野で高い学位 を取得しました。帰国して今、彼はブリンダーヴァンですばらしい奉仕を行っています。彼は拝金主義者ではありません。スワミの奉仕において獲得する名声こそが、彼にとって何よりも重要なことなのです。名声以上に偉大な富があるでしょうか? 彼は貧しい人々に奉仕します。彼は、心臓手術を受けても、貧しい人や病人への奉仕を続けています。そのように、スワミは彼を愛にあふれた優しい心、神聖な心をもつ無私の人間に形づくり、人々に奉仕するよう促したのです。

高い教育を受けているにもかかわらず、私たちの学生はとても控えめでエゴがありません。彼らは、のちに私たちの教育機関で教鞭を取ります。エゴのない高貴な魂を養うことが私の堅い決意なのです。

(スワミの)この体はときどき軽い病気をします。しかし、それが私を悩ますことはありません。病気は人体にとっては自然なことです。昨年、一人の青年が鉄の脚立に立って彩 色旗をドアに飾り付けていました。一方、私はドアを開け自分の部屋から出て行きました。彼は私を見るなり緊張して、脚立から落ちてしまったのです。彼の転落によって、鉄の脚立が傾き、私に倒れかかりました。私が腰の骨を骨折したのはその時なのです。このようにして起こった出来事ですが、これは過去のカルマのせいではありません。私は自分のけがを気にしませんでした。
 ところが昨日、自分の部屋に入ろうとしたとき、私はなにげなく体を支えようとして壁のレンガの突起に手を置きました。その途端レンガは壁からはがれて床に落ちました。結果 的に私も転倒し、手首を床に強く打ちつけることとなりました。それは事故でした。しかし、何があろうとも私は自分の義務を行わなくてはなりません。もちろん過去のカルマのために事故は起こりますが、この出来事はその類ではありません。これは不注意による私の過ちのために起こったことです。そのような混乱はたまに起こりますが、いかなる病気も私を苦しめることはできません。こういう出来事には気を留めず、私は自分の仕事を続けています。

ここに七人の青年がいます。彼らは全員大学院を卒業しました。彼らは、ここで奉仕を行いながらずっとスワミとともにいたいと思っています。私は彼らの面 倒を見ています。
 「かわいい子どもたちよ、君たちは自分の学業を進めなくてはいけない。そのために自分の両親に頼る必要はない。必要なものはすべて私が面 倒みよう。一生懸命勉強し成功しなさい。他人のために手本となりなさい」と私は彼らに言いました。そのようにして私は彼らに、より高い学業のための手はずを整えているのです。私は常に他人を助け、また誰にも迷惑をかけません。私自身いかなる病気にも苦しむことはないのです。いくつかの小さな出来事は起こるでしょう。しかしそのようなことは気に留めず私の仕事をやり続けることでしょう。
 昨日、私が転倒したとき大きな音がして、そこにいた人々は何か大変な事故が起こったのではないかととても心配しました。彼らは心の中で思いました。
 「いったいスワミに何が起こったのだろう! 最近までスワミは腰の骨折のためにきちんと歩くことができなかった。そして今、スワミは手にけがを負ってしまった。何という不幸が我々に降りかかったのだろう!」
 しかし、私には何も重大なことは起こっていないし心配する必要もない、と言って彼らを慰めました。帰依者たちは、私が参加しなくてはならない集会をここで準備していました。この体に何が起ころうとも私は自分の義務を断念することを好みません。ですから、ここに来ることを承諾したのです。私は、服を着ました。学生たちは私のガウンを覆うショールを準備したので、包帯を巻いた腕に不便を感じはしないでしょう。それでも医師たちは私に安静を勧めました。彼らの助言は正しいのです。しかし、私は医師たちの助言に逆らい、二人の青年の助けを借りて自らの意思でここに降りてきました。私が青年たちをとても愛しているがゆえに、彼らも同じ強さで私を愛します。彼らは絶えず私に付き添い、私の面 倒をみています。

(スワミの指示に従って数人の青年が立ち上がりました。聴衆に彼らを示しながら、スワミは話をされました)この青年たちはデリーや他の遠い都市などからやって来て、ここブリンダーヴァンとプラシャーンティニラヤムで学びました。彼らは皆、私の所に留まり、私にすばらしい奉仕を行っています。このけがは薬で治るようなものではありません。彼らの愛そのものがすばらしい薬として効いているのです。彼らの愛だけがさまざまな形で私を守ってくれているのです。(再び一人の学生を示されながら…)

この青年は博士号を取得しました。この青年たち全員が高い教育を受けています。それでも彼らは後ろにさがってスワミに奉仕したいのです。スワミの住居にはまだ何人かの青年がいます。たとえば、サティアジットと何人かの青年たちは影のように絶えず私に付き添い、私の面 倒をみています。そのような青年は私の唯一の財産なのです。私にこう尋ねる人々がいます。
 「スワミ、あなたの財産の価値はどれ程のものでしょうか? それはどこにあるのでしょう?」と。
 「愛する者よ、私の財産はこれくらいだ、と言うことはできない。私の学生が私の財産なのだよ。お金に換算することはできない。青年たちへの私の愛情の表現は、どのようにしても言い尽くせるものではない」と私は彼らに言いました。私は一日たりともこの財産なしで生きることはできません。彼らもまたスワミの愛情のこもった配慮なしに生きることはできません。彼らは自分たちの奉仕によって世界にすばらしい見本を示しているのです。
 セヴァ(無私で愛情のこもった奉仕)だけが、教育ある者にすばらしい価値を授けます。彼らが大変な愛情をこめて行っている奉仕の量 を述べることはできません。私たちの学生の優しい性質を言葉で適切に評価し表現できる人はいません。誰も、彼らの広い心を理解することはできません。外見上、彼らは他の学生と同じように見えます。しかし、彼らの一人ひとりが大学院の二つの学位 を持つ、高い教育を受けた者なのです。そのような青年は世界に偉大な奉仕を行うことができます。彼らはさまざまな方法で私に奉仕しています。

スラヴァナム(聞くこと)、キルタナム(歌うこと)、ヴィシュヌスマラナム(ヴィシュヌ神を憶念すること)、パダセヴァナム(神の蓮華の御足に奉仕すること)、ヴァンダナム(神を崇敬すること)、アルチャナム(礼拝)、ダシャム(苦役)、スネハム(友情)、アートマニヴェダナム(自己放棄)――彼らは、ここで述べた九つの帰依において、私に対する完全で無条件の愛を表現しています。
 医師たちは私にベッドに横になるよう勧めました。それにもかかわらず、私は私の帰依者に対する責務を果 たすことを決めたのです。その堅い決意を知った青年たちは、私のローブを覆うショールを縫い、私を下へと降ろしてくれました。この奉仕は小さくて取るに足らないものに見えるかも知れません。しかし、より深く問うてみれば、このようにスワミに奉仕する機会を得ることは大変難しいとわかるでしょう。彼らの愛情のこもった配慮ゆえに、私はさほどの不便も感じることなく下に降りて皆さんに話をすることができたのです。今の私の状態でそれは本当に可能だったのでしょうか? 実際、彼らの純粋な愛が私をここに連れて来たのです。
 この青年たちは良い教育とともに良い人格をもっています。ここにいる青年たちや小・中・高等学校また、プッタパルティのその他の機関の青年たちが行う奉仕は、言葉で言い表せるものではありません。これらの機関の少年たちでさえ、良い振舞いをします。
 私の学生たちの良い性質を説明するために、私は今日、皆さんの前に立っています。そうでなければ講話を行うつもりはありませんでした。学生たちは、私の助言通 りにすばらしい奉仕を社会に行っています。高貴な性質を培うこと、健康で幸せであり、この青年たちと同じように謙虚で社会に良い奉仕を行うことを、私は今年この機関に加わる新入生たちに切に望んでいます。すべてを祝福して講話を終わりとします。

 

サイババ述

翻訳:サティア サイ出版協会
出典:http://www.sssct.org/Discourses/2004/Easwaramma_Day.htm