サティヤ サイババの御言葉

日付:2005年4月9日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
テルグ正月の御講話より

愛と一体性は真の永遠なる財産

森羅万象は真理より生じ、真理に帰融する
この宇宙に真理の存在しない場所があるか?
驚きと畏怖の念をもって
この純粋で汚れなき真理を熟考せよ

テルグ語の詩

肉体は五大元素からできており、
遅かれ早かれ朽ち果てる
しかし、内在者には生も死もあらず
内在者は何の執着も持たぬ、永遠の目撃者
アートマの姿をとる内在者は、まさに神にほかならない

テルグ語の詩

今朝のハイダラーバードの帰依者たちの美しい調べの歌とバジャンは、耳にとっての喜び、そして、心にとってのごちそうとなりました。

神の愛はこの世で最も貴重なものです。愛の力を持ち得ない生き物がこの世に存在しないのと同じように、神の愛の美徳の偉大さはどれほど賞賛しても足りません。聖賢ティヤーガラージャは次のように歌いました。

蟻(あり)からブラフマン(神)に至るまで
シヴァの中にも、ケーシャヴァ(クリシュナ神)の中にも
純粋かつ汚れなき愛という御姿で、
あなたは宿っておられます
おお ラーマ! どうか私の守護者にもなってください

テルグ語の詩

蟻の姿はどのようなものですか? ブラフマンの姿はどのようなものですか? ブラフマンは無限大です。一方、蟻はとても小さな生き物です。肉体的観点から見れば、蟻とブラフマンの姿は比べようもありません。しかし、霊的観点から見れば、どちらにも神性が内在しています。

人間らしさは利己心を捨てたときに輝く

あるとき、お腹をすかせた一頭の熊が蟻塚に行き、一匹の蟻に乞いました。

「お腹が減って我慢できない。どうか何か食べ物を恵んでくれ。」

蟻は笑いを抑えられませんでした。蟻は言いました。

「私のような小さな生き物が、どうやってあなたに食べ物を差し上げられるでしょう? 私はあなたの空腹を満たすのに十分な食べ物を持っていません。お待ちなさい。私に何ができようか。」

当然、蟻は巣に半年分の食物を蓄えてあります。その蟻は巣に入って仲間の助けを借り、蓄えていた食糧をいくらか持ち出しました。熊は不思議に思いました。

「蟻のような小さな生き物が、どうしてこんなにたくさんの食糧を蓄えることができるのだろう?」

もし意志を固めて必要な努力を傾けるならば、どんなものにも蓄えをすることはできます。大きい小さいは問題ではありません。「ジャントゥナム ナラ ジャンマ ドゥルラバム――あらゆる生類の中で、人として生まれるのは最もまれなことである」と言われています。姿形は小さくとも、蟻は食べ物を手に入れ、それを友に分け与え、将来のために蓄えることができます。一方、昨今の人間は、知力を授けられているにもかかわらず、しばしば一日の食物にさえ事欠くありさまです。これは恥ずかしいことではありませんか?

この世には人間の知性より優れたものは存在しません。ところが、人間は知性を正しく使えていません。人々は利己心と私利私欲のために卑劣に振る舞っています。人間は何一つ生活に事欠くことはありません。何でも好きに使うことができます。人間は手に入れることのできる資源を適切に使う識別心に欠けています。人間は自分の狭量な性質を捨てて、より高いレベルに上ることができずにいます。蟻からでさえ学ぶべき教訓があります。人は蟻に足を刺されると、腹を立ててすぐにその蟻を殺そうとします。その一方で、自分の生活を不幸にしている自分の中の悪い性質を滅する努力をしていません。

愛の化身たちよ!

この広い世界のどこを見ても、愛以上に力があり、愛以上に価値のある原動力を見つけることはできません。根深い利己心や私利私欲は、人の知性を正しい道から踏み外させ、人を堕落させます。利己心を捨てるなら、人間らしさが開花して、あなたの中に潜在している力が顕現するでしょう。あなたの知性の力は多種多様なものとなるでしょう。

社会に奉仕することで神性を獲得せよ

愛の化身たちよ!

近ごろの学生たちは広範囲に本を読んでいます。しかし、頭(マスタカ)にがらくたが詰まっていれば、本(プスタカ)を学ぶことはほとんど役に立ちません。学生たちは頭に無駄な情報を詰め込んで、そうする過程で自分のエネルギーを誤用しています。何冊もの教科書を何度も繰り返して読んでも無意味です。教科書が皆さんを生死の輪廻(りんね)から救い出すことはできません。皆さんは、自分を不死にしてくれる知識を手に入れるべきです。現代の学生は書物から得た知識を熟知しています。学生たちは教科書に出てくるどんな質問にも答えられる知識を持っています。しかし、書物から得た知識を実際に役立つ知識に変える努力はしていません。

ある人は、文学士や文学修士など高い学歴を得て、
高い地位に就くかもしれない
ある人は、富を蓄え、慈善活動をし、
名声と評判を手に入れるかもしれない
ある人は、体力をつけ、
健康に長寿を楽しむかもしれない
ある人は、ヴェーダを学び、
ヴェーダを説く偉大な学者になるかもしれない
しかし、誰一人、真の神の信者に値する者はいない

テルグ語の詩

人が身につけた知識は、社会の公益のために役立たせるべきです。富や知識は、利己的な目的ではなく、他の人々の幸福のために役立たせるべきです。神が皆さんに肉体を授けたのは、ただ単に食べて、眠って、世俗的快楽を味わうためではありません。

パローパカーラールタム イダム シャリーラム
(人の体は人に善をなすよう作られている)

体は、あなたが自分の知識と識別力を正しく使い、生来の人間的価値を外に現すために授けられています。社会があなたの受けた教育と手に入れた知識から何の恩恵も得られないなら、それらは何の役に立つでしょう? 現代人は、新しい発見や発明をしていますが、人間として生まれてきた目的を今日に至るまで全く理解していません。「マーナヴァ」(人間)という言葉にはどのような意味があるでしょう? 「マ」は「アグニャーナ」(無知)、「ナ」は「~なし」に、「ヴァ」は「ヴァルティンチュタ」(身を処すること、ヴリッティヒ ヤッスヤ サハ)です。したがって、「マーナヴァ」(人間)とは「無知によらずに身を処する者」という意味です。

ところが、昨今では、マーナヴァ(人間)という名に一致した英知の人生を送っている人など、とても見つけることはできません。知性的な高い学位を授けられていながら、人は無益なものを追いかけて一生を無駄にしています。

どんな仕事でも、着手する前に、それが人間という肩書きにふさわしいものかどうかを調べなさい。人はすべてを神の意志として受け入れるべきです。神は人間が他の人々の幸福のために働けるように、知性と知識と富を授けました。ところが、人間は神の望みとは反対の行動を取り、そうすることによって自らを駄目にしています。

雄牛や水牛といった動物はさまざまな方法で人間への奉仕に従事します。一方、人間は動物でさえ持っている奉仕の精神に欠けています。人として生まれた目的を理解することなく、人間は悪魔的な性質を育て、不幸な人生を送っています。個人(ヴィヤシティ)は人間らしさを意味し、社会(サマシティ)は神性を象徴しています。ですから、人は社会に奉仕することによってのみ、神性を獲得できるのです。

愛の化身たちよ!

皆さんは高度な教育を受け、非常に聡明かもしれませんが、蟻や鳥や動物たちから学べることがたくさんあります。そうした人生の教訓は、教室で教えられるものではありません。教師たちですら、内なる神性の本質を理解する努力をしていません。教育はただ生計を営むためのものではありません。皆さんは自分の知識を人に分け与え、あらゆる人に喜びを与え、そうすることで神の段階まで上らなければなりません。平等心(サマットワ)は真の人間の証しです。人間性(マーナヴァットワ)の中に平等心がなければ、神性(ディヴヤットワ)に到達することはできません。ですから、第一に平等心を育てなさい。

神の力はすべての人間に潜在しています。しかし、人間は、自分に潜在している神の力を顕現させることができないために弱くなっています。神の力を現すためには、神聖な思いを培わなければなりません。人間性は、近い過去に現れたわけではなく、遠い昔から存在していました。人間は母親の胎内から生まれますが、人間らしさは神性から生まれ、いつの時代にも存在してきました。どの人にも神性が内在しています。生来の神性を認識できないために、人間はまさに人間の本性そのものを忘れつつあります。実態のない単なる姿だけの人間が、いったい何の役に立つでしょうか? 人間としての生は、人間の特質を発揮したときに初めて成就を得ます。

ウパニシャッドやシャーストラのようなあらゆる聖典は、人類に救済の道を示すよう意図されています。人間はそういった聖典の教えに従い、自分に潜在している神性を表に現すべきです。聖典は神性という隠れた宝を内側から引き出してくれるでしょう。だからこそ、バヴガヴァンは教育機関にエデュケア プログラムを導入してきたのです。エデユケーション(一般の教育)は世俗的な知識に関係しています。エデユケーションは書物を通して得られる一方で、エデュケアは人間の中に隠れている神性を外に現すようにできています。エデユケーションは一時的な恩恵を有していますが、エデュケアは永続する幸福を授けます。単にエデユケーションを身につけるだけでは偉大になれません。人はエデュケアを実践し、隠れている価値を表に現すべきです。

変容を目指して懸命に努力せよ

愛の化身たちよ!

エデュケアは時の急務です。エデュケアを通してのみ、あなた方は自分の体の原子の一つひとつ、細胞の一個一個に存在する神性を認識することができます。実のところ、あなた方は毎瞬毎瞬、神性を見ているのですが、その真理を認識することができずにいるのです。遍在の神性を認識したとき、初めてあなたは自分自身を「教養ある人間」と呼ぶことができます。世俗の知識は外界から得られる教育に関係しています。それは単なる書物に関する知識です。一方、エデュケアは書物から手に入れることはできません。書物から知識を集めてみても、恩恵は生じません。必要とされるのは変容であり、それはエデュケアを通してのみ可能です。変容をもたらさない情報を手に入れることは、単なる時間の浪費です。しかし、人間はそのようなゴミにすぎない情報を好むようになってしまいました。人間の知性、知識、力はすべて、神からの贈り物です。エデュケアを通してそれらを養い、正しく使わなければなりません。

実に、神は人間に莫大(ばくだい)な潜在能力を授けました。それは愛です。愛は筆舌に尽くしがたく、測り知れないものです。愛よりも大きな力は存在しません。ところが、人間は愛の価値を認識せずに、それほどの力を打ち捨てています。人間は、愛は身体的、世俗的な人間関係を意味するという誤った観念を抱いています。真の愛は、二つの心が一つになることを意味します。人々は愛という言葉を実際の意味を知らぬまま、繰り返し使っているのです。愛は誰も傷つけません。愛はいつも助けます。ですから、愛をあなたの真の富と見なしなさい。この世に愛よりも大きな財産はありません。皆さんは神の贈り物である愛を、世俗的な物事や感覚の悦楽に向けています。皆さんの第一の義務は、「常に助け、決して傷つけない」という格言どおりに愛を正しく使うことです。これより偉大なダルマはありません。

愛の化身たちよ!

愛はあなたの真実で永遠なる唯一の財産です。ところが、皆さんは愛をつまらぬ世俗的な追求に向けています。愛は心の中に大切に保管して、神聖な目的のために役立てるべきです。あなたは多くの人に愛を分け与えるかもしれません。けれども、愛は決して減ることがありません。皆さんは、真の意味で愛を理解すること、体験することができていません。愛はあらゆる生き物の命の息吹です。愛を理解するには、愛の海に深く潜らなければなりません。愛は表面的なレベルで理解できるものではありません。完全に愛にどっぷりと浸らなければなりません。世俗の愛は、ちょっと味わったら捨てることができますが、ひとたび神の愛を味わったなら、決して捨てることなどできません。愛は神、神は愛です。ですから、神から愛を引き離すことはできません。愛の中で生きなさい。それが、愛を理解し、神を経験する唯一の方法です。

愛の化身たちよ!

愛について説くことは容易かもしれませんが、愛を理解することは困難です。愛を体験するために、あらゆる努力を傾けなさい。もし、あなたが自分の愛の本質を理解すれば、他の人々の愛も理解するようになるでしょう。愛は、あなたの中に、あなたと共に、あなたの周りにあります。ひとたび愛を理解すれば、あなたはまさしく愛の化身となるでしょう。

学生の皆さん!

愛の原理を理解すればするほど、あなたは高潔になります。ひとたび愛の原理を理解して、それを実践するならば、他の人々もあなたに負けまいと心がけるでしょう。

汚れなき兄弟愛はラーマーヤナの真髄

叙事詩ラーマーヤナでは、四兄弟のラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナだけでなく、兄弟の妻たちも重要な役割を演じました。妻たちは世界に偉大な理想を示しました。人々はラーマだけを称え、他の登場人物の模範的な行いを軽視しています。実のところ、他の登場人物もラーマと同じくらい立派でした。

皆さんはラクシュマナとシャトルグナの母親であるスミトラーのことを聞いたことがあるでしょう。人々はラーマーヤナにおけるスミトラーの役割を重視していません。事実、叙事詩の中で、スミトラーの名前は目立って描かれてはいません。スミトラーは美徳の鑑(かがみ)でした。スミトラー(「ス」は善良な、「ミトラー」は女性の友の意)という名前そのものが、彼女が誰にとっても良い友であったことを示しています。スミトラーは誰にも自分の幸福を分け与えました。カウサリヤー(ラーマの母)とカイケーイー(バラタの母)の息子は一人でしたが、スミトラーの息子は二人でした。その理由を探るなら、その背後にある神秘を理解することができます。

ダシャラタ王が男児を授かるための供儀(プッツトラカメーシティ ヤーガ)を執り行った時、供犠を受け取る神(ヤグニャ プルシャ)が現れて、聖賢ヴァシシュタに聖なるパヤサム(お米と牛乳を煮た甘いデザート)の入った器を手渡しました。ヴァシシュタはその聖なるパヤサムをダシャラタ王に与え、ダシャラタ王はそれを三人の王妃たちに均等に分配しました。

カウサリヤーとカイカーイーは自分に分け与えられたパヤサムを持って各々の祈祷(きとう)室に行きました。二人とも、自分の息子がアヨーディヤーの王位を継ぐに違いないと考えて喜んでいました。一方、スミトラーにはそのような考えはありませんでした。スミトラーはパヤサムの器を持ってテラスに行き、日光で髪を乾かしている間、その器をテラスの城壁の上に置いておきました。突然、一羽の鷲がさっと舞い降りてきて、聖なるパヤサムの器を持ち去ってしまいました。スミトラーは大急ぎでそこから駆け下りて、カウサリヤーとカイケーイーに起こった出来事を伝えました。カウサリヤーとカイケーイーはスミトラーに救いの手を差し伸べ、自分たちの聖なるパヤサムを分け与えました。カイケーイーは自分のパヤサムの半分をスミトラーにあげました。カウサリヤーもそうしました。

やがて、カウサリヤーはラーマを産み、カイケーイーはバラタを、スミトラーはラクシュマナとシャトルグナを産みました。カウサリヤーとカイケーイーの息子は揺りかごの中で幸せそうに遊んでいましたが、スミトラーの息子は食べ物も摂らずに夜昼なく一日中泣いていました。スミトラーは聖賢ヴァシシュタのところへ行き、この窮状を訴えました。ヴァシシュタ仙は目を閉じました。ヴァシシュタ仙はヨーガによって身につけた眼力で真実を知ることができたのです。ヴァシシュタ仙はスミトラーに言いました。

「そなたはカウサリヤーから与えられた聖なるパヤサムを食したため、ラーマの一部(アムシャ)であるラクシュマナを産んだのだ。同様に、シャトルグナはカイケーイーによって与えられたパヤサムの分け前から産まれた。ゆえに、シャトルグナはバラタの一部である。ラクシュマナをラーマの隣に、シャトルグナはバラタの隣に寝かせなさい。そうすれば、二人は穏やかに眠りにつくであろう。」

スミトラーはヴァシシュタ仙から指示されたとおりにしました。すると子どもたちは大人しくなり、泣くのをやめました。スミトラーはたいへん嬉しく思い、カウサリヤーとカイケーイーに言いました。

「ラクシュマナとシャトルグナはお二人の贈り物です。私の子はお二人の子に仕えることでしょう。ラクシュマナはラーマに、シャトルグナはバラタに仕えることでしょう。息子が自分の兄弟に仕えることができるとは、私は幸運です。」

これが、ラーマとラクシュマナ、バラタとシャトルグナの親密な関係の理由でした。スミトラーは、二人息子のラクシュマナとシャトルグナが常にラーマとバラタに同伴していたことに対して、筆舌に尽くしがたい至福を味わっていました。スミトラーは我が子と離れていても決して憂鬱になることはありませんでした。

出来事が、なぜ、何の目的で起こるのかを知っている者は誰もいません。ダシャラタ王の四人の息子は、成長するにつれ、ラクシュマナは常にラーマと共に、シャトルグナは常にバラタと共にいるようになりました。バラタもラクシュマナも強い戦士でした。二人の存在なしには、ラーマーヤナはあり得ません! ラクシュマナはラーマに仕えるために生まれ、シャトルグナはバラタに仕えるために生まれました。ラクシュマナは愛の体現でした。同様に、シャトルグナは自分の意のままに力のすべてを尽くしてバラタに仕えていました。そのため、ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナの四兄弟は、とても離れることなどできませんでした。ですから、ラーマはカウサリヤーのもとに生まれ、バラタはカイケーイーのもとに生まれ、ラクシュマナとシャトルグナはスミトラーのもとに生まれたと言うのは正しくありません。母親は違っても、兄弟たちは常に一緒に行動していました。ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナの四兄弟は、同一の神性の同一の実質と様相の一部だったのです。

同様に、四兄弟の母親のカウサリヤーとスミトラーとカイケーイーも、いつも一緒に行動していました。三人の間に不和はありませんでした。

実に、四兄弟の間の一体性は、ラーマーヤナという物語の要です。ラーマーヤナの栄光を完全に描写できる者は誰もいません。各人が独自の方法でラーマーヤナの栄光を描写しようと試みます。その結果、今ではラーマーヤナに関する多くの文学作品を手にできるようになりました。

人間性は単なる姿形に限られたものではありません。人間性は、体、心(マインド)、知性、感覚、そして何にもまして、愛の座であるハートで成り立っています。ラーマーヤナは、これら人間性の五つの側面の大きな相互作用の大いなる物語です。どれほど努力を傾けたとしても、これらラーマーヤナの要因の相互作用を完全に述べることは誰にもできません。

あるとき、カウサリヤーが用事を済ませていると、バラタが駆け寄ってきて、カウサリヤーの膝(ひざ)に座って泣き出しました。カウサリヤーはバラタが泣く理由がわからず、少し驚きました。カウサリヤーはバラタを慰めようとして、なぜ泣いているのかを尋ねました。バラタの答えによると、兄弟はボール遊びをしていて、ラーマが毎回他の兄弟たちを勝たせるために、わざと負けたということでした。このように、兄弟の間にあった一体性と愛と情けは、常に相手を喜ばせようとするものでした。兄弟はお互い一緒にいることで最高の至福を味わっていました。ラーマの本性を完全に理解できたのはラクシュマナだけ、バラタの本性を完全に理解できたのはシャトルグナだけでした。

ラーマーヤナの中の女性たちも実に模範的でした。ラーマが父であるダシャラタ王の願いと命令を成就するために森へ向かった時、スミトラーはラクシュマナにラーマに随行するようにと言いました。ラクシュマナは直ちにラーマに従いました。ラクシュマナは長兄であるラーマに従って森へ行くことで、大きな喜びを味わいました。同様に、シャトルグナもバラタに同行することで大きな喜びを味わい、バラタの行くところはどこであれ随行しました。

「シャトルグナ」という名前は何を示唆しているでしょうか? それは「敵を滅ぼす者」という意味です。ラーマ、ラクシュマナ、バラタ、シャトルグナは理想的な兄弟でした。彼らの模範を賞賛するだけでは十分ではありません。私たちも日々の生活の中で大きな愛の絆(きずな)を味わい、それを他の人々と分かち合う努力をしなければいけません。

大叙事詩ラーマーヤナは単なる物語ではありません。ラーマーヤナは神我の本質(アートマ タットワ)を明らかにし、詳しく説明しています。人は神我の原理を、反動、反射、反響と共に体験しなければなりません。ラーマーヤナの原理は、正しく理解されて、日常生活の中で実践に移されなければなりません。

ラーマーヤナはむしろ人間関係の物語

愛の化身たちよ!

ラーマーヤナは他のプラーナ聖典(インドの古代の神話や伝説を集めた十八の聖典)とは比較できません。ラーマーヤナは単なる詩作品ではなく、親子、兄弟、夫婦、王と臣民との間にある人間関係に関する偉大な学術論文です。私たちがこうしたより大きな背景におけるラーマーヤナの趣旨を理解したとき、初めて国は国民間の愛と情けと共に繁栄することでしょう。数年の間に、いや、ごく短期間のうちに、世界中がラーマーヤナの偉大さに気づいて、ラーマーヤナの中に示された理想を見習うことでしょう。今、世界には、多種多様な国家と宗教と階級が見られます。これはいけません。この状況は必ず変化します。短期間のうちに、世界は真理に気づくでしょう。

唯一なる宗教だけがある、それは愛という宗教
唯一なる階級だけがある、それは人類という階級
唯一なる神だけがいる、神は遍在

ラーマーヤナによって提示されている最も偉大な真理は、人類における唯一性です。それほどの一体性があるとき、人々の間に相互間の愛が存在するようになるでしょう。異なる人々の間で相互に愛が育つなら、全世界が大きな喜びと幸福を体験することができます。それゆえ、ラーマーヤナこそが、全人類に大きな喜びを与えることができるのです。ですから、すべての人に「ラーマ! ラーマ! ラーマ!」と神の御名を唱えさせなさい。

ラクシュマナの妻ウールミラーは優れた画家でした。ウールミラーは、戴冠式でシュリー ラーマに贈呈する絵を描いていました。ちょうどその時、ラクシュマナが部屋に入ってきました。ウールミラーは誰が入ってきたのか見ようと立ち上がりました。慌てていたため、描き終えていない絵の上に、絵の具がこぼれてしまいました。ウールミラーは非常に気分を悪くしました。

「どうしてこの絵は汚れてしまったのでしょう。私はラーマ様の戴冠式に、ラーマの美と威厳を描いて世に示したいと願っていたのに」とウールミラーは思いました。ウールミラーはたいへん慈悲に満ちたハートを持っていました。そして、いつも高潔な考えを抱いていました。ウールミラーは、夫のラクシュマナがラーマに随伴して森へ行くことになった時も、ただの一瞬も悲しみませんでした。ウールミラーはラーマが森へ追放されていた間、ずっとシュリー ラーマを憶念していました。ウールミラーだけでなく、バラタとシャトルグナの妻(マーンダヴィーとシルタキールティ)も同様にシュリー ラーマを絶え間なく憶念し、ラーマがアヨーディヤーの都に帰還することを祈っていました。こうして彼女たちがラーマを絶え間なく憶念している時、彼女たちの力は日ごとに増していきました。

ラーマーヤナの一つひとつの出来事の意味を分析するなら、すべての出来事は一つの原理、すなわち一体性の原理を指し示すでしょう。兄弟間の一体性、夫人たちの一体性等々です。

ランカーでの悪鬼〔ラークシャサ〕たちとの戦いの最中にラクシュマナが意識を失って倒れたことがありましたが、そうした災難の時でも、ラーマは気落ちしませんでした。ラクシュマナの母親のスミトラーも同じでした。ラクシュマナは主ラーマへの奉仕に勤しんでいるのだから決してどんな危険もラクシュマナに及ぶことはないということを、常にスミトラーは確信していました。こうして、ラーマが森へ追放されていた十四年間、弟たちとその妻たち全員が、常にラーマの幸福のみを考え、ラーマの幸福のみを望んでいました。母親たちも同じでした。この者たちのハートはそれほど高潔だったのです。

愛の化身たちよ!

ラーマーヤナの登場人物たちの偉大さや高潔さをどれほど多く語ってみても、それは満足のいくものではなく、その理由を十分論じることもできないでしょう。ラーマーヤナの物語は「神の物語」ですから、完全に描写することは不可能なのです。

ヴィシュヌ神の物語は 驚嘆すべきもの
それは 三界に住むすべての人々の人生を清める
それは 世俗の束縛を断ち切る鎌のごとし
辛苦の時に助けを施す親友のごとし
森で苦行をする聖人賢者を守る避難所のごとし

ですから、主シュリー ラーマによって示された理想を日常生活の中で見習うことは、すべての間にとって、とても大切なことなのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.38 C7