サティヤ サイババの御言葉

日付:2005年11月19日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
女性の日の御講話より

唯一性の精神を育てなさい

愛の化身である皆さん!

今日はレディース デー(女性の日)なので、大勢の女性たちが皆と共に喜びを分かち合うために、ここに集まっています。私たちは、覆い(ウパーディ)、すなわち身体的な姿に基づいて、女性と男性を見分け、区別します。しかしながら、女性と男性の内に存在しているブラフマン(神)の原理は同一です。

サルヴァム カルヴィダム ブラフマー
(まさに、このすべては神なり)

すべての人が神性に到達することを切望しています。多くの聖者、預言者、ヨーギたちは、神のヴィジョンを手に入れるために激しい苦行をしました。神はどこにいるのでしょうか?

ダイヴァム マーヌシャ ルーペーナ
(神は人間の姿をとって化身する)

神は人類を守るために人間の姿をまといます。これはすべてのアヴァター(神の化身)たちの使命であり続けています。

人は誰もが神の化身

愛の化身である皆さん!

神は名と姿と属性を超越しています。神は無限であり、特定の姿に限定されません。ある時、聖者ナーラダと他の数人の聖者たちが、ナーラーヤナ神に、人間の姿をとって化身して人類を救済してほしいと、祈りました。ナーラーヤナ神は言いました。

「ナーラダよ、神の力(ブラフマシャクティ)は陽である。神の力は陰の力(マーヤーシャクティ)と結び付かない限り、地上に化身することはできない。陽と陰が結合して、初めて神は人の姿をとって現れるのだ」

聖者や預言者たちの祈りに応え、神は人間の姿をとって降臨します。神は人類の安寧のために奮闘し、万人に喜びを授けます。アヴァター(神の化身)は、唯一なる自己存在の本質(ブラフマスワルーパ)と人間性(マーナヴァットワ)の具現です。同一のブラフマンの本質が万人の中に隠れているのです。人は神を体験するために内なる目を育まなければなりません。

イーシュワラ サルヴァ ブーターナム
(神はすべての生き物の内在者である)

この宇宙劇では、神だけが監督であり、また俳優でもあります。神は、母親、父親、夫、妻、娘、息子等、あらゆる役の衣装を身につけます。人は「今日、私は孫息子が生まれるという祝福を授かりました」などと言います。孫息子はブラフマー神の具現です。ブラフマー神ひとりが、この世でさまざまな名と姿を装っているのです。

地上に化身する時、神はジーヴァ(個の生物)の姿をまとわなくてはなりません。神性(ダイヴァットワ)の原理と個体性(ジーヴァットワ)の原理は分かつことのできないものです。片方を除外して、もう片方を見つけることはできません。神性に特定の姿はありません。名と姿があるのはジーヴァのみであり、デーヴァ(神)には名も姿もありません。神は万物に内在しています。

実のところ、皆さんは誰もが神の化身なのです。皆さんが周りに見るすべてのものも、神の現れです。皆さんがここで見る小鳥たちでさえ、神聖原理を授かっています。神性の浸透していない場所はありません。神でない姿形はありません。しかしながら、神は帰依者たちの感情に応じて、特定の姿を装うのです。

神は次のように褒め称えられています。

シャブダ ブランマーマイー、チャラーチャラマイー、
ジョーティルマイー、ヴァーングマイー、
ニッティヤーナンダマイー、パラーットパラマイー、
マーヤーマイー、シュリーマイー
(音、動くもの、動かぬもの、光、話す言葉、
永遠の至福、完全さ、迷妄、富の具現)

ですから、口から出る言葉でさえ、私たちの生まれもった神性の現れなのです。皆さん方一人ひとりを通して話しているのは、まさしく神なのです。皆さんはこのことに確信を持たなければなりません。

もし、誰かが自分を非難するなら、その人の姿をした神が自分を非難しているのだと考えなさい。あなたがそのような唯一性(エーカットワ)の精神と寛容を培うなら、激しい非難や譴責にも、決して動揺することはなくなるでしょう。あなたの心は常に平安であることでしょう。何が起ころうとも、それを神の意志として真摯に受け止めなさい。行為者は神である、神のみである、と固く信じなさい。あなたの同胞である人たちを、単なる個人と見なしてはなりません。誰かに話しかける時には、自分は神に話しかけるのだと考えなさい。

他の人々に神を見ず、我が物のように扱うなら、怒り、嫉妬、憎しみ等のような邪悪な性質に余地を与えることになるでしょう。唯一性の精神を育てなさい。そうして初めて、あなたの人生は救われるでしょう。

高潔な人物のところへ行って教えを請えば、その人物はただこう言うでしょう。

「いとしい息子よ、自分自身を知りなさい」

今、人々は他人について知ることに関心があります。人々は問い続けます。

「あなたはどなたですか? あなたはどこから来ましたか?」と。

けれども、「私は誰か?」と自分自身に問いかけることをしません。こうした自己探求をして、初めてあなたは正しい答えを手に入れることができるでしょう。

神はあなたに人間の体を授けました。あなたに話させ、歩かせ、笑わせ、そして、泣かせさえするのは、まさしく神なのです。すべての物事は神の意志によって起こります。そう固く信じなさい。

聖母イーシュワランマの無私の願い

この機会に、私たちは聖母イーシュワランマと、彼女が示した模範を思い起こすべきです。イーシュワランマは美徳の鑑でした。イーシュワランマは、いつも幸せで、明朗で、にこやかな笑顔をしていました。イーシュワランマの心は愛と慈悲に満ちていたため、優しく、思いやりがありました。

ある日、イーシュワランマはある願いを持って私のところにやって来きました。

「スワミ、この村の子どもたちが何かの病気に罹ると、母親たちはわざわざブッカパトナムの病院まで子どもを連れて行かなければなりません。悲嘆に暮れた母親があんなに遠くまで子どもを抱き運ぶ姿を見るのは、ひどく痛ましいことです。たとえブッカパトナムにたどり着いても、適切な治療を受けられる保証はありません。ですから、どうか私たちの村に小さな病院を建ててください」

私は、その願いは適切な時期に必ず叶うだろうと言って、イーシュワランマをなだめました。時(カーラ)と行為(カルマ)と原因(カーラナ)と義務(カルタッヴィヤ)がふさわしい時に、人は願い通りの結果を手に入れることができるのです。イーシュワランマの願いに従って、私は病院を建てました。

別の日、イーシュワランマは別の願いを持って私のところへやって来ました。

「スワミ、小さな子どもたちが重い教科書を抱えて、はるばるブッカパトナムの学校まで歩いて行く姿は、見るに耐えません。あなたですら、当時、ブッカパトナムまで歩いて行かなければなりませんでした。どうかこの村に小さな学校を建てて、勉強のために遠いブッカパトナムまでとぼとぼと歩かなければならない難儀から、子どもたちを救ってやってください」

私はイーシュワランマに請け合いました。

「心配いりません。必ずこの村に学校を建てましょう」

それゆえ、私はその願いを叶えました。

さらに、イーシュワランマは、また別の願いを持って私のところへ来ました。

「スワミ、この村の人たちは飲み水の設備がなくて苦しんでいます。村人たちはわざわざチットラーヴァティー川まで水を汲みに行かなくてはなりません。チットラーヴァティー川でも、水がいつも手に入るとは限りません。あの川はいつでも水がある川ではないからです。水があるのは雨が降った時だけです。私は、小さな子どもが弱々しい肩に、水のいっぱい入った壷を乗せて運んでいるのを見ると、とても悲しくなります。水は命の支えです。ですから、どうか私たちの村に井戸を掘って、村人たちの喉の渇きを癒してください」

私はイーシュワランマに言いました。

「あなたの願いはいとも簡単です。私は必ずその願いを大規模な方法で叶えましょう。それらの件について心配してはいけません。私は必ず、この村の人々が適切な教育と医療を受けられるようにしましょう」

私はイーシュワランマに約束した通り、村に小さな学校を建てました。初期のころ、イーシュワランマは、すべての村の子ども全員が学校に行けるわけではないことを心配していました。後に、私は単科大学を創設しました。イーシュワランマはとても喜びました。徐々に単科大学は総合大学へと発展していきました。

まず手始めとして、私は丘の上に小さな病院を建てました。私の依頼で、東ゴーダーヴァリー地区のシーターラーマイアフ医師が、その病院で奉仕するためにやって来ました。彼は熱心な帰依者でした。彼は最期の息を引き取るまでここで奉仕しました。当時、病院は一人の医師と二人の看護師がすべてを切り盛りしていました。

今では、高度専門病院の設立により、イーシュワランマの願いよりも遥かに多くのことが達成されています。当時のイーシュワランマの純朴な願いが、巨大な社会福祉事業への道を開いたのです。

以前、チットラーヴァティー川の土手に行った時、私は村の女性たちが壷に水を汲むために砂をすくっているのに気がつきました。その後、イーシュワランマも、村の主婦たちが飲料水を確保するために困っていることを私に伝え、彼女たちの困難を取り除くために何かしてほしいと頼んできました。そこで、私は数百キロ離れた所から村に水を供給する手配をしました。

実際、私はイーシュワランマが示した小さな望みをすべて叶えました。その理由は、イーシュワランマの望みは決して自分のためのものではなく、常に村人たちのための、より大きな望みだったからです。いつ何時、誰が望みを示しても、それが真に無私無欲のものであるならば、スワミは必ずその願いを叶えるでしょう。かつては小さな学校であったものが、今では多くの専門分野を扱う総合大学に姿を変えました。かつては小さな井戸であったものが、巨大な恵みの水プロジェクトに姿を変えました。

電気は当時の田舎の人々にとって、類まれな恩恵でした。政権を握った政治家たちは、村に電気を通すことにあまり熱心ではなく、またその能力もありませんでした。そこで私は、政治家の支援や助けを求めずに、どうしても独力で設備を提供しなければならないと決意しました。プッタパルティに電気が通った時、歓声がわき起こりました。それは近隣の村々に嫉妬を引き起こしさえしました。そのため、私は他の村々にも電気設備を拡大しました。それは気まぐれな思いつきの行為ではなく、村人たちの必要性を確認した上で供給されました。

この大ホールをごらんなさい。私はこのホールを誰のために建てたのでしょう? あなた方全員を快適にするためではありませんか? 次のような諺があります。

パロパカーラーヤ プンニャーヤ パーパーヤ パラピーダナム
(人は、他の人々を助けることで徳を積み、他の人々を傷つけることで罪を犯す)

Help ever、 Hurt never.
――常に助け、決して傷つけてはならない

それゆえ、いつも、あらゆる人を助けるよう努力しなさい。利己主義は悪です。「利己主義」(selfishセルフィッシュ)より魚(fishフィッシュ)の方がましです。不幸なことに、昨今では、いたるところで徹底して利己的な人々を見かけます。徹底した利己主義が染み込んでいる今の政治の原因を突き止めるのは困難ですが、その行き着くところは、手に負えない腐敗と邪悪な風潮です。もし、この種の政治が取り除かれるなら、いたるところに幸福が満ち溢れることでしょう。

今、ありとあらゆる人が政治に参加しています。パーンワラ(パーン売りの男)やビーディ(巻きタバコ)の行商人でさえ、政治的な野心を抱いています。人は政治に参加する前に、政治の真の目的と意味を理解しなければなりません。実際、政治家たちは社会に役立つ代わりに、本来なら自分たちが奉仕すべき人々に害を及ぼしています。政権の座にある者たちは、利益を得たい人々からちやほやされることを当然と考えています。しかし実際のところ、その利益は利権がらみのものです。ですから、私は皆さんにそのような政治を避けるよう忠告します。政治に頼る代わりに、あなたが持って生まれた力を頼りとしなさい。票を求めて一軒一軒頼んで回るというのは、どういった類の活動ですか? もし、自分の力量が不足していれば、その試みは必ず失敗します。

神の恩寵に頼りなさい。もし、あなたが神を頼るなら、神はあなたに有利なように人々の心を変えるでしょう。神がすべてです。勝利は、あなたが神の恩寵にすっかり頼りきった時、初めて手に入ります。重ねて言いますが、神への祈りは利己的な理由のためであってはなりません。あなたが利己的であれば、あなたは他の人々を助けることがほとんどできない状況に陥ることになります。

何よりもまず第一に、良い性質を身につけなさい。少なくとも、自分の周りのいくらかの人の役に立たなくてはなりません。あなたの努力は犠牲の要素を示すべきです。

カルマンニェー ヴァーディカーラステー マー パレーシュ カダーチャナ
(人には行為をする権利だけがあり、その結果に対する権利はない)

(バガヴァッドギーター 2章47節)

一生を通じて活動的でありなさい。どのような仕事を始めるにせよ、あなたが生まれ持っている力に頼りなさい。他人の援助や支援や助けに頼ってはなりません。自力本願(真我に頼る者)でありなさい。もし、家族や子どもたちの十分な教育と繁栄を望むなら、神に祈りなさい。

ハートを浄化するよう努めよ

どこを見ても、神は存在しています。星から丘にいたるまで、昆虫から象にいたるまで、あらゆるものにはブラフマンが遍在しています。あなたの心を神聖な感情で満たしなさい。神は、ハートに内在する者(フリダヤヴァースィ)と呼ばれています。ここでのハートは心臓のことではありません。心臓が肥大すれば病気になります。私が今述べているのは、万人の内に宿っている霊的なハートのことです。ハートが大きくなれば、寛大さが生まれます。反対に、ハートが小さくなれば、狭量な感情しか持てなくなるでしょう。

ですから、卑しい性質を心に抱いてはなりません。人間として産まれることは非常に神聖です。だからこそ、神は人間の姿をまとうのです。それゆえ、ハートの純粋さを育て、神聖な態度で人生を過ごしなさい。私が講話をしたり、皆さんにバジャンを歌わせたりするのは、皆さんのハートを広くするためです。早朝の時間帯にナガラ サンキールタンに参加すれば、あなたのハートは至福に溢れるでしょう。自分が満足するためだけに歌うなら、十分ではありません。グループでのバジャンに真心を込めて参加し、あなたの喜びをすべての人と分かち合わなければなりません。喉を全開して神の栄光を歌い、すべての人に神の御名の甘露を飲ませてあげなさい。あなたの目的は、あらゆる活動において常にハートの拡大を成し遂げることにあるべきです。そのとき初めて、「人間」という名前はあなたにふさわしいものとなります。寛大であり、自分の幸せを皆と分かち合いなさい。

現在、利己主義と私利私欲が増加しています。人々は自分のハートを清める努力をしていません。反対に、人々は自分の過ちを隠そうとし、ひとかどの人物であるふりをします。人々は自分の家族や友人の幸福にしか関心がありません。皆さんは、他人の気持ちや福祉についても気遣うべきです。愛は神です。愛に生きなさい。愛は「私」や「私のもの」という狭量な感情で汚されるべきではありません。誰もが唯一性の精神で仲良く暮らすべきです。それは、神は誰の内にも存在するという揺るぎない信念を抱いた時、初めて可能になります。神性が内在していなければ、人は生きられません。その自覚を持って、常に神意識の中で生きなさい。

他人の苦しみを自分の苦しみと見なしなさい。人からしてほしくないことを人にしてはなりません。愛をあなたの命の息吹と見なしなさい。愛の中で成長しなさい。寛大な心を持ち、あなたの愛をすべての人と分かち合いなさい。あなたが体験した苦しみを他の人たちが体験しないように祈りなさい。すべての人を幸福にし、人生において前進しなさい。それは、あなたが愛を育んだ時、初めて可能となるのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.38 C18