サティヤ サイババの御言葉

日付:2007年1月14日
場所:プラシャーンティ ニラヤムのサイ クルワントホール
サンクラーンティにおける御講話

自分の良心に信頼を置きなさい

太陽は穏やかで平安に満ち
日は短く
涼しい風が吹き渡る
田畑は黄金色(こがねいろ)に実り
川岸では満開のマリーゴールドが真珠の首飾りのようだ
農夫は喜びに歌い
プシュヤ月(インドの暦の一つの月)にサンクラーンティの甘美な祝祭が訪れて
我らの家を新しく収穫した穀物で満たす

(テルグ語の詩)

神は、サンクラーンティの祝祭〔インドの冬至〕が人々にあらゆる繁栄をもたらして、人々が食物やその他の必需品に不自由しないよう意志しました。収穫を家に持ち帰った農民たちは、それぞれの家庭で幸福に休むでしょう。農業労働者すら自由になります。というのも、収穫の時期はサンクラーンティまでに終わるからです。数カ月間田畑で昼夜一所懸命に働いたのち、神の恩寵よって、農業労働者たちは家庭の安らぎを楽しみます。何であれ神の成すことは人間にとってよいことです! なぜなら、万人は神の「アムサ」(一部)であるからです。「ママイヴァムショー ジーヴァローケー ジーヴァブータ サナータナ」(あらゆる生き物に内在する永遠なるアートマは私の存在の一部である)と、『バガヴァッド・ギーター』でクリシュナ神は述べました。人間だけでなく、動物も鳥も昆虫さえも神の化身です! しかしながら、人々は皆、この真理を認識していません。

聖者ティヤーガラージャは自らの不滅なるキールタナ〔神への讃歌〕の一つでこう歌いました。「Cheemalo Brahmalo Shiva Kesavaadulalo prema meera velasi unde birudhu vahinchina Rama nannu brovara」(おお、ラーマ! 純粋で汚れのない愛という姿で、あなたはアリからブラフマまで、そして、シヴァ神とケーシャヴァ〔クリシュナ神〕にさえ、すべての存在に宿っています。どうか、私の守護者にもなってください)。この真理に気づくことができずに、人々は自分の体の上を()うアリを殺します。しかし、もし神が化身としてアリの姿をとって現れたなら、人々はアリを崇拝します。このように、すべての違いを作るのは感情なのです。

この時期、昼間の太陽は、やさしく、穏やかです。日は短く、夜は長くなっています。夜の月光は涼やかで心地よくあります。昼間一所懸命に働いたあと、人々は夜、快適に眠ります。人の体は休息を必要とします。それゆえ、人はだれもが適切な休息を取るべきです。ことわざにもあるとおり、「昼食のあとは昼寝を少々」です。昼食の後は少なくともちょっと昼寝をすべきです。だからといって、夜、長い間、起きていてはなりません。夜は十分に睡眠を取るべきです。

すべては神の意志です。全宇宙は神によって創造されました。世界で神の意志なく動くものは何もありません。

神が意志しなければ、草の葉一枚動くことはできない
この真理を知らぬ人々は
知性と識別に関する自分のプライドに心を奪われる
しかし、どれほど偉大であろうとも、 己の前途に横たわっているものを知る者はいない

(テルグ語の詩)

「HINDU」〔ヒンドゥー教徒〕とはだれですか? HINDUという語のつづりの、HはHumility・謙遜、IはIndividuality・人格、NはNaionality・国、DはDevotion・信愛、UはUnity・一体性を表しています。

どこであれ一体性のある所には、神性が存在するでしょう。世界を結び付けることができるのは神性だけです。「これは私のインドです」。「これは私の日本です」。「これは私のドイツです」などと言って、世界を細切れにしてはなりません。すべての人に内在する「私」と呼ばれる神性はただ一つです! 一つの人種があるだけです。人類という人種です。人間らしさは、非常に神聖で、聖なる、神のごときものです。「マーナヴァ」(人間)という言葉は、非常に神聖であることを意味します。サンクラーンティの祝祭は、あなたにこの真理を思い出させ、この現実に目覚めさせます。

兄弟よ、ガンギレーッドゥダスが来たよ
来て、いっしょに彼を見に行こう
彼は銀のメダルとベルトをしているよ
彼は飾りのついたものを持って、額には特別なしるしを付けている
彼は豪華な衣装を着けた神聖な雌牛と雄牛を連れて来て、結婚式を挙げるんだ
結婚式を見て、贈り物をしよう

(テルグ語の歌)

このようにして、村人たちは自分の牛を上品に飾って、いっしょに芝居をするのです。サンクラーンティは鳥たちにも喜びを与える祝祭です。鳥たちは、寺やミナレット〔イスラム寺院の尖塔(せんとう)〕に大勢でとまって、さえずり、歌うでしょう。鳥たちはそのようにして、世界のあらゆる地域と宗教の人間に、一体性と喜びの教訓を説くのです。悲しいことに、近ごろでは、宗教を信じない人たちもいます。宗教は従う人間にすばらしい理想を植え付けます。

シュリ・サティア・サイ教育機関ではさまざまな学生が勉強しています。そうした学生たちには、宗教の差別 はまったくありません! 実に、そうした相違を信じる人は人間ではありません。ただ一つの宗教があります。それは愛の宗教です。真の人間は一つであり、そのような宗教に従います。私たちはすべての宗教にある善良さを培わなければなりません。鳥や獣や虫から学ぶことはたくさんあります。宗教とは愛を意味します。今日、私たちはそのような愛の宗教を見出せません。愛がなければ、だれとの関係もあり得ません。ですから、私たちは愛の宗教に従わなければなりません。現代では、だれもそのような愛の宗教を考えつきません。

私たちの先祖は、宗教の本当の意味を認識し、形式においても精神においても、それに従いました。先祖たちはこの点において年長者を手本としていました。今でも、どこかの子どもに「だれが君にそう言ったんだね?」と尋ねれば、子どもたちは「私のおばあさんに言われました」、「私のおじいさんに言われました」と答えます。年長者の忠告は決して無視してはなりません。年長者の忠告に従うなら、結果 的にそうしてよかったということがわかるでしょう。残念ながら、近ごろでは、だれも年長者のよい言葉に耳を傾けません。そのくせ、人はテープレコーダーのさまざまな映画の歌に耳を傾けます。人はそうした歌をまねようとします。テープレコーダーでどんな曲がかけられても、人はその曲をまねしようとします。人は今、人間らしく生活していません。人は単なるレコードかテープレコーダーになりつつあります。決して年長者の言葉を無視してはなりません。人は、今、年長者の正しい忠告を聞かずに、人間の本性とは逆の行動を取っています。人々は、よいものを聞かず、あらゆる不要で不当な行為に浸っています。

サンクラーンティの祝祭は人間の高潔さを人に思い出させます。「イーシュワラ サルヴァ ブーターナーム」(神はすべての生き物に宿る)と言われています。ですから、すべての人間、いいえ、それどころか、すべての生きとし生けるものは、神のアムサ(一部)です。けれども、皆さん自身の振る舞いには欠点があるように見えます。その理由は何でしょう? 皆さんは、神聖な思いをかなぐり捨てて、自分のマインドがありとあらゆるものを追いかけるのを許しています。これが、皆さんの振る舞いが汚れる原因です。皆さんは今、青春の真っ盛りにいます。今の年齢では、皆さんの体と心と知性は、強く、しっかりとしています。ですから、皆さんは自分の神聖な思いにかなうために、自分の能力を適切に使わなければなりません。

人はカルマ(行為)によって生まれます。カルマは人間のもっとも重要なダルマ(義務)です。

人間は、行為に生まれ、
行為によって維持され、最終的に行為に融合する
行為は苦楽の原因
誠を語るなら、人間にとって、行為は神なり

(テルグ語の詩)

ですから、私たちはカルマを行い続けるべきです。カルマとは何ですか? カルマとは、単に読書をしたり、サッカーやバレーボールなどの試合をすることではありません。息を吸うことと吐くことさえもカルマです! この二つなしで成しえるカルマはありません。息を吸うとき、「ソー」という音が生じます。同様に、息を吐くときには「ハム」という音が生じます。ですから、息を吸うこと、吐くことの行為の一つひとつが、「私は神である」という意味の「ソーハム」という音を生じさせているのです。大きなエネルギーである、この命を支える呼吸は、人間への神からの贈り物です。呼吸は人の命を維持するのになくてはならないものです。

食べて、飲んで、陽気に過ごすというのは、人間の真の性質ではありません。あなたがどこに行っても、人々はまず、あなたの性質をよく見るでしょう。皆さんは、「ごらんなさい! 彼の振る舞いは善良です! 私たちは彼と話しをするととても幸せを感じます。ただ彼を見るだけでも幸せを感じます」と人々が言えるような行動を取らなければなりません。皆さんに幸せと喜びをもたらしてくれるのは、皆さんのよい性質に他なりません。人は自分のパンチャプラーナ(五つの生気)と、パンチャブータ(五大元素)と、パンチャインドリヤ(五感)を正しく使うべきです。私たちの摂る食物はサトウィック〔浄性〕でなければなりません。唐辛子やチリ パウダーをたくさん摂るのはよくありません。「テイスト」〔taste・味、味覚、嗜好〕を渇望してはなりません。「テイスト」は人生を「ウェイスト」〔waste・浪費〕するでしょう。人は、特別 な味や風味を味わいたいと思うことなく、飢えを満たすために食べるべきです。

空腹な者に食事を与えることよりも偉大な慈善はなく、
両親よりも偉大な神はなく
よい仲間よりも偉大な利得はない

(テルグ語の詩)

真理ほど偉大なものはありません。真理はただ一つです。二つはありません。よい仲間に加わることによって、あなたもよくなるでしょう。だれが真の友人ですか? よい人々だけが皆さんの真の友人です。「あなたの仲間を教えてくれれば、あなたがどんな人なのかを言い当てよう」。ですから、いつもよい仲間に加わらなければなりません。よい人々と話し、よい人々と暮らしなさい。そうして初めて、あなたはよい人になります。さもなければ、あなたは自分をだめにしてしまうでしょう。よい友人は、つねにお互いにとってよいことのために働き、お互いの中に変容をもたらすよう努めます。もし、何らかの理由で友人が悪い道に足を踏み入れたとき、あなたがその友人をよい道に連れ戻そうとしないなら、あなたの友情は何の役に立つのでしょう? 一方、もし、あなたが悪い道に足を踏み出してしまったら、あなたの友人はあなたが正常な道に戻るのを助けるべきです。ですから、互いによい道を歩む助けをしようとすることが、真の友情の証です。けれども、現代の友人同士は、互いに「hello」〔よろしく〕と言って、関係を絶ちます。「good-by」〔さようなら〕はあとで言います。このような態度はよくありません。皆さんは、「good-by」と言う代わりに、「good boy」〔よい青年〕にならなければなりません。このように、皆さんは日常生活の中で真理の道を歩まなければなりません。そうして初めて、皆さんは本当の意味で、識別 心を備えた、教養のある、勇敢な人となるでしょう。もし、あなたが犠牲の感覚をもつ善人であるならば、さまざまな人があなたについて来るでしょう。もし、あなたの振る舞いがよくないなら、だれもあなたの顔を見ることさえしないでしょう。あなたの仲間に入ってくるのは、品性のない人々だけです。これはあなたの霊的進歩にとってよくありません。

皆さんは「だれだれとだれだれは私のよい友人です」と言います。ですが、それはどれほどの長さのものですか? しばらくの間だけです。やがて、その人があなたの言葉に注意を払わなかったり、あなたの要求を拒むようになれば、あなたはその人を嫌います。あなたは敵になります。はっきり言うなら、だれかと友情を育むときはとても慎重でなければなりません。

人生のあらゆる局面において、あなたの振る舞いそれ自体が、あなたの人間関係の目撃者です。どこにでも住みなさい。どんな国にでも行きなさい。ただし、よい人格を保持しなさい。すべての人を敬いなさい! すべての人を愛しなさい! だれも嫌ってはなりません。よい評判を得なさい。私たちに偉大さをもたらすものは学位 ではありません。今、世界で博士号を持っている人は何人いますか? 今、国内にIASを終了した人は何人いますか? 世界はこうした人々のおかげで多少なりともよくはなりましたか? 実際には、いわゆる教育を受けた人々のせいで、この国は高い地位 からずるずると滑り落ちているのです。そのようないわいる「偉大な」人々に関心を寄せるのはやめましょう。人々がお互いに「ナマスカール」(合掌)をしてあいさつし、相手の幸福を尋ねるなら、それで十分です。そうすること自体が偉大さです。人は、教育とともに、謙虚さと従順さを吸収しなければなりません。そのような学生だけが、真の学生です。皆さんは、エゴ、プライド、誇示、その他の悪い性質をほんのわずかでさえ持つべきではありません。

昨日の劇でプラフラーダの役になった学生は、よく演じました。彼の声は甘美でした。また、彼の芝居も模範的でした。プラフラーダの父のヒラニヤカシプは、神への憎しみのために罰を受けなければなりませんでした。神はナラシムハ アヴァター〔人獅子〕の姿を身にまとい、ヒラニヤカシプを殺しました。私たちが善良で道徳にかなった人生を送るとき、私たちの最後もまたよいものとなるでしょう。よい評判も得るでしょう。私たちは、生まれてから死ぬ まで、模範的な人生を送らなければなりません。しかしながら、人々はよい言葉に耳を傾けません。人々は誤った忠告だけを聞いて、自分をだめにしています。列車やバスで旅をしているとき、ラーマの御名の栄光を美しく歌う物乞いに出くわすことがあります。旅行者は幸せな気持ちでその歌に聞き入ります。最後に、物乞いが歌い終えてその場を去ろうとすると、人々は、「君は美しく歌って我々を幸せな気持ちにしてくれた」と言って物乞いを誉めます。人々は物乞いに何かを施して感謝を表します。このように、皆さんが他の人を幸せにするとき、人生は真に意味のあるものとなり得ます。

全学生がこのホールに集まっています。このような機会には、皆さんの間でよい思いと言葉を分かち合わなければなりません。よい思い、よい言葉、よい行いは、神の性質です。私たちはよい性質を培わなければなりません。日の出の時、ちょうど50フィート〔約152センチ〕の身長の人が太陽に向かって立てば、影の長さも50フィートになります。太陽が昇るに従って影の長さは短くなります。正午に太陽がちょうど頭上に来ると、影はあなたの足の下に収まります。これと同じように、あなたが神に向かって旅を始め、少しずつ神への道を進んでいくと、マーヤー(迷妄)という影はあなたの後ろに来ます。一方で、あなたが神に反して逆方向に旅するなら、マーヤーという影はあなたの正面 に来るでしょう。

愛の化身である皆さん!
 私たちの学生はすべて金です。どのような種類の金でしょう? 純粋な24金です。私たちの学生がどこに行き、どんな活動に参加しても――スポーツにおいても、教育においても、振る舞いにおいても、話においても――あらゆる活動において、よい評判を得ています。もっぱらこうした理由から、私は人々が「シュリ・サティア・サイ教育機関の学生は立派な人格を備えている」と誉めているのをいたる所で目にしました。皆さんはただ学生たちを見るだけで、一人ひとりの顔にサイ・ババが映っているのがわかるでしょう。

アティ・ルッドラ・ヤグニャは今月の19日にチェンナイで始まります。けれども、チェンナイの人々は、アティ・ルッドラ・ヤグニャではなく、スワミの学生の到着を心待ちにしています。人々は、「サイ・ババは、自分の学生といっしょにヤグニャに参加するために、ここに来るのだ。ババの学生こそが私たちの手本だ」という気持ちで待っているのです。

親愛なる学生の皆さん!
 よく勉強しなさい。時間を無駄にしないように。時間を見つけたときはいつも、よい本だけを読みなさい。善良な神への道を歩み、よい人間になりなさい。世界中のすべての人々を善良な市民に変えることができるのは、シュリ・サティア・サイ教育機関の学生だけです。皆さんがよくなって、他の人をよくしなさい。カーマ(欲望)やクローダ(怒り)といった悪い性質を避けなさい。

パーンダヴァ兄弟は大行進を始めました。ドラウパディ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァは、旅の途中で倒れてしまいました。ダルマラージャは旅を続け、一番先にナラカ(地獄)に到着しました。ダルマラージャは、そこで多くの人々が己の犯した罪のためにさまざまな罰を受けているのを見ました。ダルマラージャが地獄に足を踏み入れるやいなや、人々は苦しみが取り除かれて楽になり、おおいなる幸福を感じました。さて、ここで疑問が生じます。どうしてダルマラージャは、最初に地獄に行かなければならなかったのでしょうか?

ダルマラージャは、生涯決して嘘は言いませんでした。しかしながら、マハーバーラタの戦いの最中、ダルマラージャは、強力な戦士ドローナチャルヤがその知らせを聞いてショックで死ぬ ように、「Aswatthama hathah」(アシュワッタマが死んだ)と大声で言ってから、小さな声で「kunjarah」(象の)と言ったのでした。「Aswatthama hatha kunjarah」という言葉は、アシュワッタマという名前の象が死んだという意味です。不幸にも、ドローナチャルヤの息子もアシュワッタマという名前だったのです。戦争の騒音と喧騒で、ドローナチャルヤは「kunjarah」(象の)という言葉をよく聞き取れず、ダルマラージャの言った言葉を「アシュワッタマが死んだ」と誤解しました。「息子アシュワッタマの死」の悲しみとショックに耐えられず、ドローナチャルヤは戦場で弓矢を投げ捨てました。ですから、ダルマラージャは、いっとき嘘をついたことによって、間接的にドローナチャルヤが戦死した責任を負いました。この罪をあがなうために、ダルマラージャはいずれは地獄で過ごさなければならなかったのです。そのあと、ダルマラージャは天国に連れて行かれました。ダルマラージャが天国に向けて発とうとしていたとき、地獄で罰を受けていた人々は、ダルマラージャの足元にひれ伏して、「どうか我らを見捨てないでください! ここにいて我らに幸を授けてください」と請いました。ダルマラージャは、「親愛なる者たちよ! 私は神の命令に従わざるを得ない」と答え、天国へと発ちました。どこにいようとも、もし私たちが善良であれば、よいことだけを体験するでしょう。よい行いはよい結果 のみを生じさせます。

親愛なる学生の皆さん!
 この教育機関で試験に合格した暁には、もし皆さんが望むなら、ほかの場所でさらに高度な学習を続けることができます。しかし、学問的な優秀さとともに、皆さんの振る舞いもまた他の人の手本となるようにしなさい。嘘、不正、非行に携わってはなりません。真理の道を歩み、不死となりなさい。ギーターチャルヤ〔クリシュナ神〕は、「ママイヴァムショー ジーヴァローケー ジーヴァブータ サナータナ」(あらゆる生き物に内在する永遠なるアートマは私の存在の一部である)と宣言しました。この真理を忘れないようにしなさい。皆さんはこの真理を胸に、どこででも、どんな種類の教育でも、続けていきなさい。(バガヴァンはここで、「私は皆さんを困らせていますか?」と尋ね、学生たちは声をそろえて、「いいえ! スワミ!」と答えました。) 皆さんがたすべてを幸福にすること、皆さんの進歩のために働くこと、皆さんからすべての痛みと苦しみを取り除くために奮闘すること、同様に皆さんの両親も幸福にすること――これが私の仕事です。皆さんの幸せが私の糧です。私にはそれ以外の食物は必要ありません。その一種類の食物だけで私には十分です。ですから、あなたたちが皆、いつも幸せな生活を、至福に満ちた生活を送りますように! 皆さんはいくつもの困難に遭遇するかも知れません。困難はわきに置いて、前に進み続けなさい。

今日、何人かの人々が、「サイ・ババの評判は日に日に広まっている。サイ・ババはすべての外国人をヒンドゥー教徒に変えている」と言って、デマを流しています。彼らは私に非常に嫉妬しています。その嫉妬のせいで、彼らは新聞にありとあらゆる馬鹿げた話を書きます。そのような記事は無視するようにしなさい。私たちは自分の良心に対する強い信頼を持っていなければなりません。彼らが何を言っても、たわ言と見なして、わきへ追いやりなさい! 私はそのようなこととは無関係です! 自分の良心に信頼を置きなさい。私が何をしても、それは万人のためです! もしだれかがあなたをののしったら、その人はあなたではなく、あなたの体だけをののしっているのだと受け取りなさい。もし彼らが人前であなたに罵倒を浴びせるなら、目に見えない空気に同化させてしまいなさい。一方で、もし彼らが静かにあなたをとがめるなら、それはあなたに届きません。彼らのことを思い悩んではなりません。神への信仰をしっかりと保っていなさい。それこそが皆さんの態度であるべきです。

神はすべての生き物に内在しています。名前と姿は異なっているかもしれません。けれども、神はただ一つです。神はすべてに内在しています。あなたたちは皆、神の化身です! その思いを育みなさい。上下の違いを育ててはなりません。万人は一つです。父なる神のもと人類は皆兄弟であるという原理に信仰を置き、幸せに生活を送りなさい。

親愛なる学生の皆さん!
 私は、あなたたちが皆、よい成績で第一級試験に合格することを願っています。

(バガヴァンは「ハリ バジャナ ビナ スカ シャーンティ ナヒ」のバジャンで御講話を終えられました)

 

サイババ述

翻訳:サティア・サイ出版協会
出典:http://www.sssbpt.org/Pages/Prasanthi_Nilayam/Makara_Sankranthi2007_Discourse.html