サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年

北極星

清らかなハートは、完全な輝きを放ちます。甘い愛は、汚れなき喜びを授けます。善は、人類を低下させる病への最も有効な特効薬です。善は、常に豊かな不滅の貯蔵庫です。完全に善と結びついていれば、すべての悲しみを手放すことができます。善は大きな満足を与え、アーナンダ〔至福〕は恐れからの大いなる解放を与えてくれます。実に、人生が神の思いに溶け込むと、人生は北極星〔ひときわ輝く星〕に定まります。

人間は不滅の子です。すべての人は兄弟です。なぜなら、すべての人は同じ神の炎の火の粉だからです。すべての人は根本的にアートマン〔真我/アートマ〕であり、アートマンへの愛と、アートマンを顕現させようと努力することは、個々人すべてが生まれながらに持っている権利です。そこには相互の愛がなければなりません。そして、この相互の愛から生じる普遍的なアーナンダ〔至福〕がなければなりません。

しかし、今日あるのは、その段階とは真逆のことです。人間たちのそうした行動を何と言えばよいでしょう? 日々の口論や問題を何と言えばよいでしょう? 意見の対立や論争についてはどうでしょう? 略奪と殺害についてはどうでしょう? これらすべての原因は何なのでしょう? すべては私たち自身のことであり、すべては私たち自身なのです。私たちは自分自身に刃物を向けているのです。これは、心の清らかさの表れですか? ヴェーダに定められている「サッティヤム ヴァダ、ダルマム チャラ」〔真実を話し、ダルマを行う〕という指示は、どうなっているのでしょうか?

どの人も皆、幸せになりたい、心の平安を得たいと願っています。そのために、それぞれがさまざまな行動をとっています。けれども、幸せも平安も人を避け、人とかくれんぼをしています。しかし、人間は捜すことをあきらめるでしょうか? いいえ、あきらめません。人は幸せと平安を捕まえるために、駒のようにぐるぐると回っています。ですが、まだ捕まえることができません。

お金で共同体のモラルを向上させることはできない

このような状態になる理由は何なのでしょうか? 努力の欠陥なのでしょうか? それとも、カルマの法則そのものなのでしょうか? あるいは、この世の根本的な性質なのでしょうか? それとも、この失敗は、時代の精神によるものなのでしょうか? いいえ、少し考えれば、これらの推測はどれも本当ではないことがわかるでしょう。本当の原因は、「善が勝利することへの信心の欠如」です。その信心は、神への信愛が育つことによってのみ得ることができます。

現在、自分が世の中を改善する、と断言している人はたくさんいます。彼らは改善しようという意志を持ち、懸命に努力しています。彼らは壇上で机をたたき、世界は悪い状態にあり、自分にはいつでも出せる救済策を持っていると叫びます。しかし、彼らは努力の末に、結局、世界をさらに深刻な病気にしているのです。

どうやって講義によって清らかさを得ることなどできるでしょうか? 彼らは、もっとお金を使うことで共同体を清らかにするのだと提案しています。どうやってお金でモラルが向上できるというのでしょうか? 五年計画が次々と実行されていますが、腐敗は続いています。悪が高まっています。ますます空気が汚くなっています。

では、改善するには何をすればよいのでしょうか? 診断が間違っているのでしょうか? それとも、薬がないのでしょうか? 過ちは、間違った診断と間違った治療にあります。この病気は、限度のない自由という病気です。それこそが、制御不能な激情と、破壊兵器に頼る状態をもたらしたのです。自由は、一定の限度内で享受すべきものです。そうでなければ、自由は放埓(ほうらつ)や放縦(ほうじゅう)にさえなってしまいます。自由を制限するものを、規律と呼びます。規律は、すべての行いの分野で行使する必要があります。この規律がないために、今のこの国の悲しい窮状があるのです。

人は遅かれ早かれパラマパダに到達すべし

他人を指導し、世の中を規定しようと決心する前に、自分自身と自分の感情や激情を制御することを身につけて、自分の心にやましいところがないようにしなければいけません。内にいる敵に勝利してこそ、外にいる敵も打ち負かすことができるのです。平和を確立するための努力は、今日、非常に巨大なものになっていますが、その成果、特別な具体的な成果は、ほとんどありません。

この世それ自体、人間には謎です。この世は人知や想像力の及ぶところではありません。そして、人間一人ひとりがその神秘の断片なのです。もちろん、この世の本質を見抜き、その真の姿を悟ることに成功した人たちもいます。しかし、人はそうした賢者たちをないがしろにしています。そんな中で平安に暮らすにはどうしたらいいのでしょう? 食べなさい、そうすれば、味がわかります。入りなさい、そうすれば、深さがわかります。彼らに助言を求めなさい、そうすれば、真の価値がわかります。

時間の車輪は、間断なく回っています。ある日の悪は、別の日の善となって現れ、ある宗派の道徳は、別の宗派の目には不道徳に映るようになります。ある人にとって正しいことが、別の人にとっては間違っています。ある人の敵は、別の人の友です。こうした二元性の罠(わな)にはまって、人は振り子のように揺れ動き、根底にある単一性に気づかずに、何度も転び、何度も盲目的に探し、人生という道をつまずきながらもがいているのです。人の歴史が始まって以来、人は泣いたり笑ったり、喜んだり悔しがったり、立ち止まったり急いだりしています。これが、この世での人間の旅路の物語なのです。けれども、どれほど困難な道であっても、人間は遅かれ早かれ、最高善、すなわち、パラマパダという、逃れられない運命に到達しなければなりません。

人間は、自分の高次の運命を知って、サーダナ〔霊性修行〕の道を着実に歩まなければなりません。そして、その道をふさぐ壁を壊さなればなりません。人間は、愛という、偉大な、一つにする性質を育んで、兄弟愛を持ってすべての人にアプローチしなければなりません。それが人間に最高の幸せと平安を与えるのです。アートマ シャーンティ〔真我の平安〕(心の平安)のためには、ヴィシュワ プレーマ(普遍的な愛)以上の道具はありません。

もう一点あります。模倣は、決して進歩の基礎にはなり得ません。人のまねをして得意がるのは、霊的な転落の第一歩です。模倣は、自分の識別力と推理力を弱めます。模倣は、まさに自由の根源を断つものです。ヒンドゥー〔インド人〕の生き方、ヒンドゥーの文化、ヒンドゥーのために定められた規則の目的は、非常に重要であり、意味であふれています。それは、全意識をより高い価値へ、そして究極的には、神へと向けることにほかなりません。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C41