サティヤ サイババの御言葉

日付:1993年5月
場所:ブリンダーヴァン
夏期講習「人から神への変容」(十)の御講話より

ヴァイシェーシカ ダルシャナ

小さなものの中で一番小さく
大きなものの中で一番大きく
遍在の目撃者として輝いているもの
ブラフマンはプラクリティであり
プラクリティはブラフマンである

神の愛の具現たちよ、

まだ歴史も始まっていなかったころ、神の英知に恵まれた往昔(おうせき)の偉大な賢者や聖仙たちは、神の声を聞きました。彼らは神の世界を探り、それを調べて探求し、神の声を通して聞いた偉大な英知を人類に伝えました。彼らは聞いたことを実際に経験しました。

宇宙は、物質(パダールタ)と霊(パラールタ/最高の富/アートマ)という二つのもので構成されています。しかし、この言葉の意味を探究し、その言語の秘密を解明し、無数の側面を一致させて人類に伝えたのは、パーニニ〔紀元前インドのサンスクリット文法学者〕です。物質の性質を探り、調査し、自らの発見の知識を世界中に広めたのは、カナーダ仙です。ヴァイシェーシカは、賢者であるカナーダ仙が解釈した哲学の体系です。〔ヴァイシェーシカは「特異な」の意〕。

ヴァイシェーシカの創始者、カナーダ仙は、物質の性質を徹底的に調査した後、人類に物質の非永続性と霊の永続性を明言しました。世界に存在するあらゆる知識の部門はヴェーダに由来します。一時的なもの、そして、一時的なものを扱う世俗的な知識の研究は脇に置き、往昔の賢者たちは、不滅なる神性の科学の研究に生涯を捧げました。彼らは苦行と瞑想のおかげで永遠なる偉大な真理を知覚し、その神聖な知識を他者と分かち合いました。

生来の単一性

物質の世界は、物理的な調査によると、多様性によって特徴づけられるように見えます。けれども、物質の内的な性質を深く掘り下げて調べると、物質が生来持っている調和と神性が明らかになります。山は岩でできています。大地は土でできています。木は木でできており、人間は肉でできています。物質は、物質ごとに異なる多様な性質を有しているように見えますが、実際には五大元素の現れです。ヴァイシェーシカ哲学は、物質世界を特徴づけている多様性は幻〔マーヤー/迷妄〕から生まれることを人類に明言しました。そして、ヴァイシェーシカ哲学の提唱者たちは、すべての物質を調和させるアートマの単一性を断言しました。ヴィシェーシャ〔特異性〕は原子間に存在する違いの研究対象にほかならないものであり、ヴァイシェーシカは物質のヴィシェーシャ〔特異性〕をあらわにするものです。

ヴァイシェーシカ哲学は、原子の世界を探求し、物質に関する真理を結論づけます。この哲学の提唱者たちは、物質は変化せず、変化するのは形状だけであることを証明しました。たとえば、壊れた壺(つぼ)は大地と同化し、土と化します。壺や岩は変化しますが、物質それ自体は同じままです。あなたは銀をさまざまな型に流して、水差しやお皿など、さまざまな形の銀にすることができますが、銀そのものは同じです。このように、変化するのは形だけで、物質は変化しないということが証明されています。

同様に、ヴァイシェーシカ哲学の提唱者たちは、あらゆる音の形態を、原始音オームまでたどりました。音は数多くありますが、その源は同じです。ハーモニウム〔インドの鍵盤楽器〕の七つの音〔西洋の音階と同じ七音〕はそれぞれ異なりますが、音の源は同じオームです。

ヴァイシェーシカ哲学は、最終的に、物質と同様に霊〔アートマ〕の永続性を確認します。この哲学の体系は、事実に基づいて結論を下します。ヴァイシェーシカ学派は、男女は同じであることを明らかにし、男と女は、性別は異なるかもしれないが、人間としてはまったく同じであると論じています。創造物にとって、男性と女性は等しく必要です。

調和の必要性

ヴァイシェーシカ哲学がもたらしたものは、単一性と調和であり、不和ではありません。今日の世界の悲惨な状態の原因は何ですか? 人類が堕落したのは、不一致と違いを増幅させたからです。人間がどん底まで成り下がってしまったのは、霊〔アートマ〕の単一性を無視しているからです。世界に平和がないのは、本(もと)を正せば人間の利己心のせいです。人は、社会に何の貢献もしないで、社会に多くを期待しています。あなたは社会に対して何も良いことをしていないのに、どうして社会から良いことを期待できますか? もしあなたが社会の平和と向上のために努力するなら、社会もあなたの平和と向上のために努力するでしょう。

ヴァイシェーシカ哲学は、あなたがこの世で味わう苦痛と喜びをもたらした張本人はあなた自身であるということを、明白な言葉で断言しています。世間があなたの喜びにどれほど貢献したかを世間に問うのではなく、あなたが社会の福祉にどれだけ貢献したかを自問しなさい。ヴァイシェーシカ哲学は、私たちが社会に負っている義務を断言しています。このように、自分の行いや活動がどれほど人類の福祉と幸福に貢献しているかを知ることは、人間の側にとって不可欠なのです。

原子には無限の力が詰まっています。ヴァイシェーシカ哲学は、単なるうわべに満足するのではなく、物質の内的な性質を探るよう人に勧めています。

この哲学は、光り輝く真理の灯火として立っています。この哲学は、真理を深遠な永遠の実在として明示することによって、すべての時に神の光輝を放ちます。この哲学は、このように人に呼びかけています。

「おお、人よ! 私たちは同じ巣の鳥だ。私たちは同じ母親の子供であり、同じつる草の花だ。私たちは同じ国の国民だ」

なぜ憎しみを抱かなければならないのですか? 実のところ、あなたが他人を憎むとき、あなたは自分自身を憎んでいるのです。体は魂が入れられた鳥かごです。鳥かごは、鳥がひなであるうちは鳥を入れておくことができます。ひとたび羽が大きくなれば、鳥は羽ばたいて鳥かごの外に飛んでいきます。人は、アートマを悟るまでは体という避難所を求めなければなりません。ひとたびアートマの英知という翼が大きくなれば、無執着を深めて巣を手放します。

私たちは、母なる大地という同じ母の子供です。私たちは、土でできています。このことは、生まれたばかりの赤ちゃんの握りしめている手のひらの中には土がある、という事実によって証明できます。産湯に浸かってから数時間眠った後でさえ、赤ちゃんは手に土を握っています。土でできた体は、死ぬと土に戻ります。王も召し使いも、億万長者も貧乏人も、大地から来て大地に戻ります。土の中から採掘した宝石もそうです。宝石は木には生(な)りません。これらの真実に気づくなら、自分を母なる大地の子供であると考えることができるでしょう。

私たちは同じつる草の花です。私たちの心は、ハートというつる草に生える花です。花はそれぞれ異なるかもしれませんが、つる草は同じです。私たちは同じ種(しゅ)の子供です! 私たちは皆、鳥や獣の種に属しているのではなく、人類という種に属しています。私たちは人類という輝かしい種に属しているのですから、高尚な振る舞いをしなければなりません。私たちはサット・チット・アーナンダ〔実在・純粋意識・至福〕の海で生まれた波です。私たちは同じ種に生まれたのですから、誰にも憎しみを抱くことなく、人類の同一性の光で輝いているべきです。

ヴァイシェーシカという偉大な体系は、人類の同一性と神性の存在を掲げ、私たちに崇高な生活を送るように勧めています。現代のヴァイシェーシカ哲学のいわゆる提唱者たちは、日々の生活の中で自分たちの学派の高尚な教義を実際に経験することなく、人々に書物の知識だけを与えています。そのため、彼らの教えは人々のハートを照らしません。ヴァイシェーシカの真の提唱者は実に少ないのです!

英知に恵まれたインドの賢者たちは、物質世界の領域を超越し、スーパーマインドの領域に飛び込みました。スーパーマインドのとてつもない高みから見下ろした賢者たちにとっては、私たちの俗世の業績は、すべてくだらないものに見えました。ヴァイシェーシカ哲学の提唱者たちは、言葉の持つ深遠な意味と、言葉が言い表している物質をうまく説明しました。しかし、残念なことに、今、私たちの間には、適切で満足のいく単語の説明はありません。私たちは〔英単語の〕WALKをウォークと発音します。どうしてLは発音しないのかという説明はありません。一方、パーニニの〔サンスクリット語の〕文法は、言葉と音について最も合理的で説得力のある説明をしています。

私たちは善悪を区別しますが、実際には、この世に善や悪といったものはありません。善悪は時間の問題です。しかし、人が身体的な迷妄に縛られているうちは、善悪の違いを知らなければなりません。

ウパダーナとニミッタ

人間に識別力がないために、人間にとって無執着は重荷となりました。人間にアートマの知識が欠けているために、人間にとって体は重荷となりました。人間に愛が欠けているので、人間にとって心は負担となります。世界のあらゆる深い悲しみは、識別力の欠如に起因しているとも言えます。私たちは、識別力を使って、アダーラ(支え)とは何か、アデーヤ(支えられるもの)とは何かを見いだすべきです。陶工は壺を作りますが、粘土と水がなければ壺は作れません。ですから、粘土と水は「ウパダーナ カーラナ」(物質的な原因)を構成しています。壺を作る陶工はただの道具です。ですから、陶工は「ニミッタ カーラナ」(結果を生じさせる原因)〔原因である原因〕です。

同様に、神は原因であり、創造物は結果です。しかし、現代の一部の科学者たちは、創造主を信じておらず、創造物だけに基づいています。彼らは自分の業績を自慢し、知識をひけらかします。たとえば、彼らは脱塩のプロセスによって塩水を飲料水に変えることができると明言します。しかし、それには莫大な費用を必要とし、何億ルピーもかかってしまうでしょう。彼らはさらに、水素と酸素を組み合わせて水を作り出すことができると主張しています。科学者たちは、業績に心を奪われて、水素と酸素の創造者である神をおろそかにしています。

こうした人々は、神が自分たちにしてくれたことを神に感謝しません。私たちは、ハンカチを落としてしまった時にそのハンカチを拾って手渡してくれた人に感謝を表します。こういった取るに足らない善行をしてくれた人に感謝するのであれば、人類に生命という贈り物を与えてくれた神にはどれほどの感謝の気持ちを持つべきでしょう。

ヴァイシェーシカ哲学は、個々の魂と自然と物質の永続性を掲げています。これにとって、神はアダーラ(支え)です。ヴァイシェーシカの体系の提唱者たちは、宇宙は原子でできていると言いましたが、二つの原子が同じであることはありません。ヴィシェーシャ〔特異点/区別するのに役立つ諸性質〕は、一つの原子と他の原子との間に存在する違いにあります。ヴァイシェーシカの体系は、原子の特異性(ヴィシェーシャ)を掲げているので、ヴァイシェーシカと呼ばれているのです。

ヴァイシェーシカの体系の提唱者たちは、すばらしい神の創造物に驚嘆しました。聖者プーランダラダーサ〔ヴィッタラ神を称えた詩聖〕は、主の力に驚嘆してこう言いました。

「誰が鸚鵡の羽を緑に染め、くちばしを赤く塗ったのか? 誰が孔雀を輝くような多彩な美で色取ったのか?」

この一切は、宇宙の創造者の威厳を雄弁に語っています。

人間は原子を発見し、原子爆弾を作りました。しかし、人間は自分が作った武器に対する永続的な恐怖の中で生きています。だからチャーチルは、「人間はすべてを知ったが、自分自身をまだ知らない」と言ったのです。

プラフラーダはヒランニャカシプに言いました。

「あなたはあっという間に三界を征服しました。おお、父よ! しかしあなたは五感の世界と心の世界を征服しておりません」

人間は五感の奴隷になっています。人間は夜明けから日暮れまで五感の奴隷です。自分の外側にある五感に征服されているというのに、内側の器官である心(マナス)、知性(ブッディ)、意識(チッタ)、エゴ(アハンカーラ)を征服することがどうして期待できるでしょう?

「内にいる敵に屈する者には、決して外にいる敵を打ち負かすことは望めない」と言われています。人間は自分の五感の餌食となり、悲しみと苦しみにさらされています。しかし、人間は自分の悲しみの原因を調べません。人間は運命に身をまかせ、自分は苦しむ定めにあるのだといって自分を慰めています。しかし、すべてを運命のせいにするのは人間にとって正しいことではありません。

人間の努力によって人間が達成できないことは何もありません。本気になって努力すれば、人間は、自分の手の中に空気を閉じ込めることもできます。空を分割して自分の所有物として保持することもできます。海の水を全部コップ一杯の水のように飲み干すこともできます。手のひらの上に火を乗せることもできます。人生で何かを達成するのに必要なのは、真摯な努力のみです。

今、人は自分を映画のような人にしています。(テルグ語のマニシ〔人間〕を逆さに読むと、映画を意味するシニマ〔シネマ〕になる)。人間のしていることは、すべて人工的なものに染まっています。そのため、人間は五感の奴隷になってしまいました。自分の心を抑えることのできる人が本当の人間です。自分の心を征服していない人は、姿形は人間ですが、実際には人間ではありません。自分の心を完全に支配して、初めて人は自分を真の人間と呼ぶことができます。

ヴァイシェーシカ哲学の体系は、内なる世界の謎を解明し、創造の秘密をあらわにします。小さな種が、小枝、大枝、果実、花の一切を持つ木を含有しているように、どの原子も全創造物を含有しています。ヴァイシェーシカ哲学は、どのように大宇宙が小宇宙に含有されているかを説いています。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Summer Showers in Brindavan 1993 C10