サティヤ サイババの御言葉

日付:1960年11月24日
場所:プッタパルティ村
ババ様の三十五歳の御降誕祭の御講話より

ヴィッディヤーのための礎(いしずえ)

小さな丘に囲まれたこの小さな村に、はるか彼方(かなた)のヒマラヤの山岳地方から、ウッタープラデーシュ州の知事であるブルグラ ラーマクリシュナ ラーオ博士が、あなた方の学校の校舎の礎石を据えるためにはるばるやって来ました。これは、少なくとも一つのことを明らかにしていると思います。それは、真面目に霊性修行をすれば、どんなに難しいことも成し遂げられるということです。

今日は、プッタパルティ村全体、そして、周囲の村々さえも、喜びに浸っています。私もとても幸せです。なぜなら、それは単にこの場所に新しい建物ができるということだけではなく、今日は繁栄と進歩の新時代の幕開けであるからです。知事が据えた礎石は、ヴィッディヤーラヤ(教育の家、学校)のためだけではく、ヴィッディヤー(教育、教養、学識、高次の知識)のためでもあります。知事は、自国の自由のために犠牲を払い、国のリーダーたちから尊敬と好意を得たうえに、優れた多言語学者でもあり、サナータナ ダルマ(永遠の法)の敬虔な信者でもあります。知事によってこの村の学校が始められるのは、本当に、大変縁起のよいことです。

先ほど知事が述べたように、プッタパルティが北はヒマラヤ山脈から南はカンニャークマーリー岬まで名の知れた村となったことを、あなた方は誇らしく思ってよいでしょう。しかし、知事が付け加えたように、それは大きな責任を伴うことでもあります。私が思うに、この行事は今年の降誕祭の頂点であり、栄光です。なぜなら、私の目の前にいる農民たちの顔に新たな希望と喜びが表れているからです。プッタパルティ村の年長者たちは、自分たちに欠陥があったせいでこの数年に何を失ったかに、少なくとも気がつきました。

プッタパルティは何百万という人々から感謝と共に敬われる

真珠を採るには、はるばる海まで行って、深いところまで潜(もぐ)らなければなりません。ただ浅瀬で水に浸(つ)かっただけで、「海に真珠があるというのは作り話だ」と言うのは、愚かさの印です。それと同じように、ここの年長者たちは長いこと私のマヒマー(奇跡を起こす力、奇跡)に関するあらゆる話を疑い、まさに各人の家の戸口に置かれていた素晴らしいチャンスを利用することができませんでした。年長者たちは光を見ただけであり、温かさは感じませんでした。それは、彼らは物理的には極身近にいても、実際に役に立つ目的からは遠く離れていたということを証明しています。彼らは、光、栄光、輝きを見ることはできましたが、近くに来て私のハートの温かさを分かち合うことはできませんでした。

人々は、嘘と束(つか)の間のものに足を取られ、真実と永続するものをつかみ取る黄金のチャンスを失ってしまいます。人々は自宅の庭の木の枝になっている実のことを知るのを拒み、実が熟す前にもぎとって、「すっぱい」と言って回ります。これは人の悲運です。人はずっと神を無視して、慢心と貪欲によるつまらない喜びを追い求めてきました。

実際に、プッタパルティという地名は、今日、何百万という人が感謝と共に崇(あが)め、覚えている地名です。プッタパルティという地名は、不滅の名として歴史に刻まれることでしょう。それほどの幸運に恵まれた村は他にありません。しかし、あなた方はそのことに気づくのが遅かったのです。今日までの二十年間、この村の内輪もめの波を静める努力がなされてきましたが、その間、他の村々は私の恩寵と祝福を求め、それらを勝ち得ました。バクタ(神を信愛する者、帰依者)たちは、「こんな悪い雰囲気の場から出て、バンガロールかマドラスか他の都市、あるいは、お望みなら、どこか別の静かな田舎に腰を落ち着けてください」と、事あるごとに私に懇願してきました。しかし、今この場で言っておきますが、この木は芽を出した場所で成長しなければなりません。植え替えはされません。私はこの場所を捨てません。私は捨てません。この場所はティルパティ(インド最多の参拝者数を誇るティルマラー ティルパティ寺院の門前町)へと変えられるでしょう。今、小さな少年少女たちは、必ずや、壮麗さをまとったその姿を見ることになるでしょう。

あらゆる進歩に必要な三つの必要条件

この村だけでなく、どの村も、敵意心、つまらないことでの口論、復讐(ふくしゅう)心(しん)という病気にかかっています。知事が述べたように、農民たちをよりよくするために、過去十五年間、多くの試みがなされましたが、その結果は期待と予想をはるかに下回っています。なぜなら、進歩に必要な三つの必要条件を欠いているからです。それは、勇気(ダイルヤ)、熱意(ウトサーハ)、至福(アーナンダ)です。あなた方に畏怖(いふ)と驚嘆の念を植えつけること、勇気を植えつけること、あなた方の熱意を鼓舞すること、あなた方を歓喜で満たすことは、周囲の自然それ自体が十分やってくれます。母なる自然から受け取ったあらゆる美と富と慈悲を見る目を閉じさせて、自分たちの宿命を嘆き悲しんでふさぎこむのは、ある種の誤った無執着(ヴァイラーギャ)です。

あなた方は、他の人々と自分自身に奉仕するというチャンス、神の栄光と神の恩寵をその目で見るチャンスを与えられたことを、主なる神に感謝すべきです。そして、すべての人を自分の兄弟姉妹と見なすべきです。そうする代わりに、もし自分のハートを憎しみで毒し、口論にふけるなら、さて、それによってあなたが得られる大きな利益は何ですか? それらにふけったあと、あなた方は少なくとも平安と満足を引き出しましたか? あなた方が手に入れたものは、さらなる憎しみ、さらなる無駄だけです。

周囲の村々は政府の援助を有効に役立てています。しかし、ここでは政府の前に手を伸ばす必要がありません。あなた方には願望成就の木(カルパブリクシャ)があり、その木はあなた方が欲しがるものをすべて、いつでも与えることができます。あなた方には、皆を守護し、向上させる、主なる神がいます。国民の徳は国の宝です。すべての徳の根っこは、神の御名の憶念(スマラナ)です。

歓喜と平安を確実に得るための王道

ナーラダ仙は、「御名を唱えることに自分の息を献じた者は自分以外にいない」という自惚(うぬぼ)れにさいなまれていました。あるとき、ナーラダは、一人の農夫が、鶏の鳴く早朝から日暮れまで苦しい労働に従事しながらナーラダの三倍という圧倒的多数の唱名(ナーマスマラナ)を何とか成し遂げて、より優れた帰依者と判定されたことを知って、恥じ入りました。歓喜はあなた方が生まれながらに持っている権利です。平安はあなた方の奥深くにある性質です。神はあなた方の杖(つえ)であり支えです。それを手放してはなりません。邪悪な人がでっちあげた話、悪意ある人が言いふらしている話によって、信仰の道から離されてはなりません。

数え切れないほどの神の御名の中から、最も自分に訴えかける御名と、その御名にふさわしい御姿に心を留め、今からその御名を唱えることを始めなさい。これが歓喜と平安を確実に得るための王道です。それはあなたに兄弟愛を感じさせ、同胞への敵対心を取り除いてくれるでしょう。

あなた方は多くの種を蒔(ま)きますが、そのうちのいくつかは蟻(あり)に食べられ、いくつかは雨に流され、いくつかは鳥についばまれ、いくつかは害虫にやられます。しかし、いくつかは強くたくましく芽吹きます。この小さな学校は、たくましい高等学校へと成長します。本当ですから、私を信じなさい。あなた方の側では、この村の名誉と評判を保つために手を尽くしなさい。

私が、ここから何千キロも離れたヒマラヤ山脈の真ん中にあるナイニータールに行ったとき、人々は歓迎の辞をヒンディー語で書いて印字して、私を歓迎してくれました。それには、このプッタパルティ村のことも書いてありました。人々はプッタパルティをプンニャ クシェートラ(神聖な場)と呼んでいました。ここに世界の四方八方から実際に人々がやって来たとき、その人たちに、神を畏(おそ)れる男女が平安と満足のうちに暮らす、徳高き共同体(村)を見せようではありませんか。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.1 C34