サティヤ サイババの御言葉

日付:1962年9月29日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
プラシャーンティ ニラヤムに関する御講話より

あなたの意識を広げなさい

プラシャーンティ ニラヤムでは毎日が祭日です。毎日が聖なる日です。諺(ことわざ)にもあるように、「永遠の喜び(ニッティヤ カッリャーナム)は、永遠に新しい(パッチャ トーラナム)」のです。人々の慣習に従うため、また、外側の吉祥のしるしには内側の感情を磨いて昇華させる価値が含まれている、と感じているがゆえに、ここでもナヴァラートリ祭(聖九夜祭)が祝われます。だからといって、ドゥルガー女神やサラスワティー女神をあなたのハートに据えるのに、ここや地元でのナヴァラートリ祭を待つ必要はありません。あなたがその衝動を感じた日、その日こそが吉日です。ぐずぐずしたり、先延ばしにしたりしてはなりません。

私は、このニラヤム(住居)に旗を掲げるたびに、多かれ少なかれ同じことを話しています。それは、人は毎日同じような食べ物を食べる必要があるのと同じであり、人は毎日数回顔を洗う必要があるのと同じです。洗った顔が再び洗われるように、語られたメッセージは何度も繰り返し語られなければなりません。これはすでに私からその話を聞いた人にとっても必要なことであり、初めてここに来た人にとってはさらに必要です。

このニラヤム(住居)は、プラシャーンティ ニラヤムです。それは「最高(プラ)」の「平安(シャーンティ)」という形を有する住居です。実際には、あなた方一人ひとりが、プラシャーンティのニラヤムです。だから、私はよく、あなた方に「平安の(シャーンティ)化身たちよ(スワループラーラ)」と呼びかけているのです! 私の目的は、あなたの本質は「シャーンティ」、すなわち、」平常、平安、平穏、無執着」であるということを、思い出させることです。あなたの内に存在しないものを、引き出すことはできないでしょう? ですから、シャーンティは、あなたの奥底に、あなたの存在の中核として、必ず存在しているのです。それは果実が熟したことを示すものであり、熟した果実を満たす甘さです。

シャーンティは高尚な上昇経験

シャーンティは付けたりはがしたりできる外側の輝きではありません。若きユディシュティラ〔パーンダヴァ兄弟の長兄〕は、百回強く鞭で打たれた時、一粒の涙をこぼすことも、一つの喘ぎももらすことなく、それを自分の体力を試すものであると見なしましたが、シャーンティはそうした忍耐力と同じものではありません。シャーンティは、野心がくじかれたり欲望が満たされた時に生じる、もういい、という感覚ではありません。シャーンティは、自分の存在の源への帰融を達成した時に生じる高尚な上昇体験です。それは波が静まることであり、心の活動や興奮が静まることです。それに達成した人は皆、プラシャーンティの旗を掲げました。実に、あなた方一人ひとりが自分のハートの上にその旗を広げようと努力すべきです。

人間性を復活させ、現在冒されているすべての病気をそこから取り除くために、あなた方は皆、ダルマにかなった働き手たちの軍隊となり、サティヤ(真実・真理)、ダルマ、シャーンティ、プレーマ(愛)という武器を装備しなければなりません。私はしばしば、旗を掲げるのは単なる形式的な行事ではないと言ってきました。旗の掲揚は、その軍隊の発足と訓練における意味深い儀式です。私は決して、意味のない行いをしたり、目的のない言葉を話すことはありません。旗に描かれているシンボル〔燃える炎や五大宗教のマークや多重の円〕にも、すべて意味があります。

旗に描かれているシンボルの具体的な説明

皆さんもすでに気づいているように、プラシャーンティ ニラヤムには取り囲む壁がありません。それは、理想的な状態であり、人々は、どの方角からでも、何の障害も邪魔もなく、主に会いにくることができます。しかし、門はあります! ニラヤムに近づくと道は曲がり道になりますが、その道を歩く人たちには、他のすべての人と同じく、遺伝として受け継いだ衝動や、人格形成の時に打撲を受けた部分や曲がってしまった部分が、重い負担となってのしかかっています。彼らは欲望に突き動かされ、六つの悪い性質が撚(よ)り合わさった激情の鞭に打たれて、駆り立てられています。人々は、鈍性(タモーグナ)に支配されなくなった時、言い換えれば、幻想(マーヤー)というカーテンが少し開かれた時に、初めて門をくぐることができます。彼らはそこからニラヤムに向かって歩き、第二の門を通ります。そこで目を引くのは、堂々たる建物、柱で支えられた前廊、そして、その前に立つ彫刻であり、それらは、鈍性よりは優れている激性(ラジョーグナ)を喜ばせます。ホールに入れば、その激性も剥がれ落ち、中にあるさまざまな絵や像、そこで歌われるバジャンやナーマヴァリ(唱名)などによって、浄性(サットワグナ)が心を圧倒します。

ニラヤムの前にあるこのコンクリートの円柱は、旗に描かれているシンボルを立体化したものです。あなた方は皆、このことについて聞かされているはずです。今度は、あなた方自身がそれを他の人に教えるべきです。レンガの縁の内側にある最初の円には、見てのとおり、砂が敷かれています。あれは欲望(カーマ)です。それは何も成長することのできない無駄な土地であり、そこではどんな農作物も作ることはできません。次の円は怒り(クローダ)の円であり、人間の第二の敵です。ここでは、たくさんの葉が茂る丈夫な塊茎植物がその象徴として植えられています。それは原型を留めないほどしょっちゅう刈られていますが、次に雨が降るとまた芽を出します。怒りはそういうものであり、根絶したと思っても、あなたのプライドが傷つけられたり、あなたの望みが人から反対されたりすると、また芽を出してきます。怒りの根は吸盤の付いた蛸(たこ)の足のようなものであり、そこから逃れることは困難です。

ナヴァラートリ祭(九夜祭)では、毎回、何万人もの帰依者たちがここを歩いてこの植物を踏み、何の痕跡もなくなるほどになりますが、一ヶ月か二ヵ月後に降誕祭がやって来るころには、再び芽を出してかなりの高さに成長します。これが、怒りが人間をとらえる方法です。怒りは憎しみと復讐心へと成長します。見てのとおり、次の二つの同心円の赤い段がそれらです。あなたが道を歩いている時に誰かが目の前を横切ると、あなたはその人を憎みます。誰かががあなたの片棒を担ぐことを拒否すると、あなたはその人を憎みます。作為も不作為も、憎しみをもたらします。だから、ここには二つの段があるのです。

シンボルをあなたの意識の中で生きたものにしなさい

霊性の求道者は、貪欲と色欲の砂丘と怒りの荒野を超え、憎しみと復讐の崖をよじ登り、愛という緑の牧草地にやって来ます。あなたはそこで、円形状に広がる緑色の草が、善い思考と美徳で魅力的に飾られているのを見ることができます。そこを超えると、私たちはシャーンティの大きな広がりを得ます。そこでは、あらゆる感情の揺れは治まり、心は自らの沈黙のうちに静止しています。その時がチャンスです。ヨーガ、すなわち、普遍なる力、絶対的な英知、永遠の真理と霊的に一つになる霊性修行を果たすのです。円の中心にあるヨーガダンダ(ヨーガの支え)の上に示されている六つの中心点を意識が通って上昇したら、それから起こることを見なさい。ハートの蓮のつぼみが膨らんで、花びらが開き、その香りが宇宙を満たし、太陽の光が吸い込まれ、ここであなた方が見ているその象徴のように、アートマジョーティ(アートマの輝き、穢れなき光)があなたとあなた以外のすべてのものを、万物を抱く一なる炎で照らします。

このシンボルを黙想しなさい。これをあなたの意識の中で生きさせなさい。これが、私の言う、「あなたの心に旗を掲げなさい」ということの意味です。あなたはそれが非常に有益であることがわかるでしょう。この旗がニラヤムの風に吹かれて喜んでなびく時、それはあなたの意識の上でも喜んでなびいて、もっと努力しなさい、もっと霊的な努力をしなさいと、あなたに呼びかけなければなりません。

私が欲しいのは、ただのバクティ〔信愛〕ではなく、バクティによって動機づけられた行いです。あなたが今持っている責任をすべて振り切って、自分自身を救うという新しい責任を負いなさい。そうすれば、あなたは自分の義務をスムーズに果たし、満ち足りるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.2 C40