サティヤ サイババの御言葉

日付:1962年11月23日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ババ様三十七歳の御降誕祭の御講話より

カリキュラムを立案すること

大臣のチェンナ レッディー(アーンドラ プラデーシュ州政府の大臣でババの帰依者)は、一時間前にプッタパルティの学校の校舎(ババが寄贈したもの)を落成しましたが、その喜ばしい出来事に伴う集会が、今ここで開かれています。というのも、プッタパルティ村には、今ここにいる、インド中から集まった大勢の人たちの十分の一の人数ですら集まれる場所はないからです。大臣が私に出会い、私が大臣の家に行ったのは八年前でした。しかし、この村に来たい、プラシャーンティ ニラヤムに来たい、という大臣の切なる願いは、今日やっと実現しました。その今日でさえ、大臣は校舎の落成式を利用して、やっと私のところに来ることができたのです。大臣は、この行事を実行するために、そして、何年もの願いを満たすために、東ゴーダーヴァリー県から急いでここに直行してきました。

村では、二人の人物が同じ見解を持っていることはなく、二人の人物が同意することがありません。これは、人々の間に、悪い感情、誤解、慢心、妬み、憎しみを引き起こし、助長させる原因です。しかし、私はこのことを、この村の人だけに言っているのではなく、何千という村々からここにやって来た人たちにも言っているのだということを、覚えておきなさい。それが村全体にかかわる問題であれば、自分の狭い偏見、個々の憎悪を前に押し出さずに、皆にとって善いこと、共通の福利だけを考えなさい。そうすれば、自分の個人的な好き嫌いは一切忘れます。私は「プッタパルティ ババ」とも呼ばれています。ですから、この村にいる皆さんは、村のために何か善いことをしたいと思ったら、全員いつでも私のところに来る権利があるのです。

村の小学校が、広々として、風通しがよい、複数階のある新校舎を保有し、そこに引っ越す今日という日は、実に、この村の歴史に残る日です。今日は、教育が発展して美徳と謙遜と平安をもたらす、新しい時代の始まりです。

インドはダルマを味方に持つ

私は、皆さんの心(ハート)が他のことで一杯になっていることを知っています。(約一ヶ月前に勃発した中印国境紛争で)侵攻されて占領された土地からの中国軍の撤退について思案したり、殺された兵士や負傷した兵士の家族の気持ちを考えて同情したりしているのです。チェンナ レッディー大臣も感情をあらわにしてそれらに言及しました。兵士たちは中国軍の侵入を食い止めようとして祖国のために戦いました。戦没者のために祈ること、そして、勇敢な戦士たちが幸せな気持ちで凱旋(がいせん)することを祈ることが、皆さんの第一の義務です。それと同様に、あなた自身の短所や欠点を探し、それらをすぐに直すことも、皆さんの義務です。皆さんは、自分の国と文化を救うために、自分の才能を発見して伸ばし、自立した、強い、成熟したインド人にならなければなりません。そして、何にもまして、固い信念で身を固めなければなりません。最後には真理と愛が勝つ、公正と不屈の精神が勝つという信念です。皆さんはそれを試みていないので、信念の力を自覚していないのです。

同様に、マハーバーラタの戦争の最中、人々は、

「クリシュナのいるところ、必ず勝利あり」

ということを信じていました。なぜなら、クリシュナは常に真理の側につき、真理は敗北をもたらさないからです。インドは自らの側にダルマを持っています。つまり、クリシュナを持っているということです。ですから、まもなく勝利の歌が聞こえてくるでしょう。もしまだ聞こえていないのであれば!

中国軍がインドに危害を加えることはできません。なぜなら、私たちは、美徳の力、真理、公正、愛、堪忍、寛容を欠くことがないからです。これらが本当の戦闘部隊であり、本当の弾薬であり、軍備です。

アシュワッターマが、憎しみによって何も見えなくなって、こっそりとパーンダヴァ兄弟の軍事キャンプに侵入し、眠っていたドラウパディーの子どもたちを虐殺したとき、ドラウパディーはその狂気に満ちた犯人に復讐(ふくしゅう)することを拒否しました。というのも、アシュワッターマはパーンダヴァ兄弟の師(グル)の息子であり、グル同様に敬意を受けるに値するからです。ドラウパディーの拒否は高潔さであり、この国の母たちのハートを感動させました。あれは弱さではありません。むしろ精神力を強くするものです。敵の士気をくじくものです。敵には恐れがついてまわり、自らの歩みにつきまとう勝利への躊躇(ちゅうちょ)と疑いによって、敵は臆病者と言われるのです。

実践しないなら、学んだことは役に立たない

ですから、勇敢でありなさい、確信していなさい。私の降誕祭が暗いニュースで損なわれることはありません。皆さんはきっと、肯定的な明るいニュースを受け取って喜ぶでしょう。(さらにスワミは、プラシャーンティ ニラヤムの旗の掲揚の際に、「サナータナ ダルマが危害を受けることはありません」ともおっしゃいました。)

今は、今日のこの行事が行われている学校について話さなければなりません。チェンナ レッディー大臣は、企画大臣でもありますから、教育の立案に関することも話しました。どれほど多くの立案を練っても、その立案を実施しても、もし学校で学んだことを実践しないなら、意味はありません。たとえば、「健康と健康法」という課は小学生の教科書にも載っていて、生徒たちはそれを暗記して繰り返すことで学習しますが、実際、それらがどれくらい実行されているか調査してみなさい。村の道、村の井戸、村の家々、村の子どもたちを見て、果たして五十年も六十年も健康と健康法の規則を教えてきた効果が見られるかどうか、私に報告しなさい! もし生活や健康に関する事柄さえも無視されているならば、学校で教えている他のもっと難しい科目はさらに低い効果しか生んでいないということは、私がわざわざ皆さんに言うまでもありません。

子どもたちにミシシッピ川の長さやベスビアス山の高さを教えて何になりますか? なぜ絶対に必要ないような情報を子どもたちの頭に詰め込むのですか? そうではなく、魂を強くする強壮剤を与えなさい。主の御名を繰り返し唱えるという強壮剤、ハートの静寂の中で神の栄光を瞑想するという強壮剤を。

以前、子どもたちは「ラーマーヤナ」と「アクシャラマーラ」(文字の花輪)を一緒に学んでいました。子どもたちは、

シュッダ ブランマ パラートパラ ラーマ
(ラーマは純粋なブラフマンであり、
最高のものの中でも最高のお方)

と、読み書きしたものです。今では、「リンリンと鐘が鳴る、子猫ちゃんは井戸の中」(マザーグースの歌)と歌っています。この種の、馬鹿らしくて意味のない、訳のわからない言葉があらゆる所に広まっています。これは言うなれば、毒性の伝染病が平安と歓喜の種をだめにしているようなものです。

医者は、自分のところにある薬をただ差し出しているのではありません。医者は病気を診断し、患者の素性、家系、習慣、食べている物、好き嫌いを調べます。それから適切な治療法を処方するのです。この国と、この国以外の世界中の国々が、今、苦しんでいる、「貪欲」、「急ぐこと」、「憎悪」という病気と不満をなくすために、教育の立案者たちは、適切な治療法を発見しなければなりません。そうすれば、霊性修行の初めの数歩は、たとえ幼少期であっても子どもに教えなければいけないということがわかるでしょう。人は、たとえ子どもでも、自分のハートの中に歓喜と平安の泉を持っています。それらを育み、それらが流れ出してあらゆる活動の場を豊かなものにするための、完全な自由をそれらに与えること――これが教育の本当の目的です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.2 C49