日付:1963年3月
場所:プラシャーンティニラヤム
クリシュナ神にまつわる御講話より
クリシュナ アヴァター〔神の化身クリシュナ〕の意味するものは、あなた方の理解を超えています。なぜなら、どのアヴァターも、この世の言葉、一般の人の言葉では説明できないからです。説明を試みることは、海のそばを流れる運河の中に海を入れようとするようなものです。あなたの思いやりの拡大と動機の浄化によって、あなたが世界のものではなくなって、世界への執着をなくした時、初めてあなたはアヴァターを理解することができます。
一なる至高神は、ゴーピー〔クリシュナを信愛した牧女〕たちによって、あらゆるものに内在するものとして経験されました。ゴーピーたちは心を定め、心の中にクリシュナ神を据えました。今しがた、ヴィーラバッドラ シャーストリは、ハートを固定して揺れ動かないように保っていないかぎり神はハートの中に留まってくれないと述べました。当然ながら、子供を揺りかごに入れる時には、揺りかごは、ぐらついていない、動いていない状態でなければなりません。しかし、ひとたび子供を入れてしまえば、揺りかごを揺らすことができます。なぜなら、揺らされてこそ、「私は嬉しい、あなたも嬉しい」という子守歌のとおりになるからです。覚えておきなさい、神もまた、三属性(グナ)〔鈍性・激性・浄性〕を持たないサット チット アーナンダ〔実在・純粋意識・至福〕が化身した子供なのです。
シャーストリは、ウッダヴァ〔クリシュナの従弟でグニャーナ ヨーガの大家〕がゴークラ村〔かつてクリシュナが住んでいた村〕に来た時、「牛は太っていて、何頭もいた。ゴーピーたちは幸せで喜びに満ちていた。芳香が漂い、音楽が流れていた」と述べました。しかし、実際は違いました。その場は荒涼として、男も女も、何の慰めも助けもありませんでした。牛たちも悲しみに打ちひしがれていました。ウッダヴァは彼らを命拾いさせました。クリシュナはウッダヴァにこう語っていました。
「彼らのハートは私のハートに溶け込んでいる。彼らの心は私のことだけを思っている。彼らは身体に必要なものも放り投げてしまった。彼らがかろうじて生きているのは、いつの日かもう一度私に会いたいと望んでいるからだ。」
このような状態で、どうやってゴーピーたちは、シャーストリが述べたように幸せに明るくいられることなどできたでしょう。ウッダヴァは、ゴーピーたちが完全に全託している姿、クリシュナとの別離に飲み込まれて苦しんでいる姿を見て、謙遜しました。それこそが、クリシュナがウッダヴァをゴーピーたちのところに行かせた理由です。
素朴なゴーピーたちはヨーガ行者よりも賢かった
クリシュナの行為の一つひとつには、意味と目的と甘い傾向がありました。ゴーピーたちはクリシュナが神であることを確信していました。クリシュナは多くのヨーギや苦行者、多くの王(ラージャ)や大王(マハーラージャ)の間を歩き回りましたが、彼らはクリシュナが神であるという真実に気づきませんでした。学のない素朴な牧女や牧童のほうが賢かったのです。
あなた方も、そうした苦しみをこうむって同じような気持ちになればゴーピーたちを理解することができるでしょうが、それまでは理解できないでしょう。このクリシュナのメッセージは、その苦痛に対する解毒剤です。
「あなたの悲しみは、あなたの限られた表面的な見方によって引き起こされている。あなたは私を縛られた有限の存在と見なしているので、私がはるか遠いところにいるとか、私がいないとか、私があなたの脇にいるなどと思うのだ。あなたは幻想を抱いている。真理に目覚め、喜びに浸りなさい。」
唯一者は、自らの自由意志によっては、多になりたいとは望みません。唯一者に欲望はありません。唯一者に好き嫌いはありません。唯一者は内在していて、超越しています。唯一者はこの一切であり、それ以上です。ならば、こうして多として顕現している理由は何なのでしょう? その理由はバクタ(神を信愛する者)の心にあります。あなた方は、「ババは私の前にこれこれこういう姿で現れた。私はこれこれこういう姿のババを見た」と明言します。しかし、起こっていることは何かというと、あなたがそういう姿を見ることを欲しているのです。私はそのような姿に変化(へんげ)しません。
神は砂糖であり、甘さです。あなたは砂糖を紅茶やコーヒーや牛乳や水に入れることができます。何に入れても甘くなります。それは私の特質です。甘さは私のサイン(署名)です。ひとたび溶けたなら、それは水でも砂糖でもない第三のもの、砂糖水(シロップ)になります。けれども、あなたの舌が嫉妬や憎しみや慢心の苦味を感じている時、どうやって砂糖を味わうことができますか?
食べ物を求めるように神を求めよ
神が関心を寄せるのは動機であって、捧げられた品物ではありません。ドラウパディー〔パーンダヴァ兄弟の共通の妻〕は器に残っていた小さな葉をクリシュナに供し、それはクリシュナの飢えを満たしたと同時に、宇宙の飢えも満たしました。なぜなら、ドラウパディーはそこにバクティ〔神への信愛〕をしみ込ませていたからです。ルクミニーが天秤に乗せたトゥラスィーの葉は、十四の世界すべてをお腹に有しているクリシュナの体重と同じ重さになりました。クチェーラがクリシュナに持っていった一握りの焼き飯は、一銭の値打ちもないものでしたが、クチェーラの妻のあつい信愛と信念で覆われていたために、大きな幸運をもたらしました。雀の涙ほどの行いに大量の気持ちを込めることは可能であり、神はそこに価値を置いて高く評価するのです。
クリシュナは原因を必要としません。クリシュナの行為や行動の原因を見出すことはできません。原因を探しても無駄です。もし原因を探しはじめて、それから道をたどろうとするならば、チャンスを得ることはまったくできないかもしれません。あなた方は神へと至るために人として生まれてきたのです。そのことを覚えておきなさい。人々は歩を進めるあなたを止めて、「なぜあなたは、聖地マドゥラブリンダーヴァンや、ティルパティや、プッタパルティに行くのですか?」と尋ねますが、「なぜあなたは食べ物を食べるのですか?」と尋ねる人は誰もいません。実際、人は食べ物を求めるように神を求めなければなりません。どちらも幸福のために必要なものです。人は幸福を求めます。人は元来の自分である真の自由を求めます。人は不滅であり、だからこそ、死を克服しようとするのです。
誰もがゴーピーたちのレベルに上がるべし
自分のサーダナ(霊性修行)の失敗を神のせいにしないで、自分自身を振り返ってみなさい。あなたは目覚まし時計を朝の六時にセットして眠りに就きました。それなのに目覚まし時計が十時まで鳴らなかったら、あなたは時計のナットかボルトかバネか歯車か何かがおかしいのではないかと推測します。それと同じように、期待していた結果が現れないときは、自分の何かが間違っているのだろう、食べ物や飲み物や睡眠の習慣、行いや振る舞い、他人に対する態度が間違っているのだろうと推測しなさい。ブラフミン〔婆羅門〕であれ学僧であれ、学生であれアーティストであれ、誰もが厳格な規律の規定に従わなければなりません。そうしないなら勝利には届きません。あなたは五感の主人となって、根本的なマーヤーシャクティ(幻力)からマハーシャクティ(最高のエネルギー)を得なければなりません。つまり、あなたもゴーピーたちのレベルまで上がらなければいけません。
体は輪廻(サムサーラ)の海を渡るための船としてあなたにあてがわれていますが、あなたは世俗的な喜びを与えてくれるものを集めるためにそれを使い、それを海に浮かべようとはしません。そうやって船を誤用していると、それは本当に幸福の助けとなる活動の邪魔をするようになります。ダルマにかなったやり方で舟を使いなさい。そうすれば成功はあなたのものになります。ビーマはダルマラージャに、十二年間の森での生活と一年の忍びの生活が終わった時に、もしドゥルヨーダナがもう一度サイコロ賭博に誘ってきたら、それを受けるかどうかと尋ねました。ダルマラージャは、「私は二度とダルマの道から逸れることはできない」と答えました。ダルマラージャがそういう心構えでいたおかげで、パーンダヴァ兄弟は、クリシュナの絶えざる恩寵とマールカンデーヤやヴェーダヴィヤーサといった聖仙たちの祝福によって助けられたのです。一方、カウラヴァ兄弟は、憤慨した聖仙たちの呪いに次ぐ呪い、そして、次々と襲ってくる凶兆によって、衰弱しました。
ゴーピーたちは神を切望する最高の模範
あなたのサーダナは、ただの読み書きだけではなく実体験が伴わなければなりません。ラーヴァナは過去に四つのヴェーダと六つのシャーストラ(霊性の科学)の大家でした。ラーヴァナの十の頭はそれらがいっぱい詰まっていました。しかし、それが何の役に立ちましたか? ラーヴァナには平安(シャーンティ)がなく、親類縁者に平安を与えることもできませんでした。ただ「おいしい食べ物、おいしい食べ物」と千回繰り返し言ったとしても何が得られますか? あなたは食べて、消化して、同化しなければなりません。あなたはバガヴァンの恩寵という銀行に預金をしていないのに、苦しくなると小切手を振り出して神の恩寵を期待します! 預金をするか、少なくともいくつかの財産(他人への奉仕、すべての人への愛、非暴力(アヒムサー)など)を手に入れなさい。そうすれば、それを担保に助けを得ることができます。そのどちらもないなら、なぜ銀行を責めるのですか?
私の言うことを信じなさい、毎日の本分の遂行と行動によって、あなたは神を顕現させることができます! ゴーピーたちはその最高の模範であり、最高の証人です。探求が満たされないという苦悶と共に神の御名を常に憶念しなさい。遠くにいることを強いられているという苦悶と共に神の美しい御姿をつねに憶念しなさい。そうすれば、あなたもあなたの内にクリシュナを見ることができます。その切望がなければなりません。そうすれば、結果は確実です。
主はひたむきさを欲し、模倣は欲しない
プラフラーダはその思い(バーヴァ)に没頭していて、崖から突き落とされ、象に踏まれ、父親の手先に襲われても気にしませんでした。なぜなら、プラフラーダは神だけを気にかけていたからです。神だけを必要としていたからです。ゴーピーたちも、横笛(ムラリー)の音が聞こえると、この世、感覚、現象界の多種多様な物事へ執着を一切失いました。ゴーピーたちは、有限である者に有限性に気づくようにといつも呼びかけていた無限なる者に最も崇高な霊的帰融を果たすことを、常に願っていました。
衝動的な感情を浄化することによって、人はより高い段階に到ります。神の神秘を理解した時――それはサーローキャ〔神を認知すること〕の段階です。その後、神を憶念することによって、サーメーピャ〔神に接近すること〕と、サールーピャ〔神の御姿を見る体験をすること〕の段階に到達します。多くの偉大な神秘主義の詩人たちがこの高みに達しました。ジャヤデーヴァはその極みに歌を歌いましたが、もしあなたがその歌を同じように歌っても、クリシュナが顕れることはないでしょう。クリシュナは模倣ではなくひたむきさを欲しているからです。ひたむきな信仰をもって口にのぼった御名こそが、ゴーピーたちが捧げた花束であり、ゴーピーたちの数珠の玉だったのです。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C8