サティヤ サイババの御言葉

日付:1963年9月8日
場所:プラシャーンティ ニラヤム

あなたと私

スッバラーヤ シャーストリ〔先の講演者〕が述べたとおり、体というものは、三属性(グナ)のはしごを、鈍性から激性へ、激性から浄性へと上(のぼ)っていって、ついには、はしごを越えてさらなる高みへと到(いた)ることができるようにするために使われるべきものです。体は今、多くの人のあらゆる悲しみと不安の根源になっています。なぜでしょう? 体は過去世で行った善悪のゆえに獲得したものです。カルマというのがそれらの総称です。カルマは、執着や憎悪、愛情や嫌悪によって引き起こされます。カルマは、まったくの無知、すなわち、自分自身を含めたすべての創造物は一つであるということを知らないことによって、生み出されます。この無知(アグニャーナ)は、善い(ス)知識(グニャーナ)によってのみ取り除くことができます。腹痛に苦しんでいる時の一番の治療法は、袋に塩〔焼いて温めた塩〕かお湯を入れてお腹に当てることであり、お腹に目薬をつけることではありません!

不二へと到るための三つのステップ

無知(アグニャーナ)は、神の普遍性を認識して、あなたの個別性を普遍なるものに融合させることによって、取り除くことができます。

まず、「私はあなたのものです」という姿勢をとりなさい。あなたという波に、自分は海に属するものであるということをわからせるのです。この最初のステップは、あなたが思っているほど容易なものではありません。波が自分を存在させているものは自分の下にある広大な海であることを知るまでには、長い時間がかかります。波のエゴはあまりにも強大なので、波が海の前に頭を垂れるほど謙虚になることを許さないのです。「私はあなたのものです。あなたは主人(プラブ)で、私は召し使いです。あなたは君主で、私は奉公人です」という心の姿勢は、エゴを弱め、あらゆる行為を価値のあるものにします。これは、子猫が母猫に対して取る態度(マールジャーラ キショーラ)と名付けられている敬虔(けいけん)な態度です。援助と食べ物を求めて物悲しげにニャーニャーと鳴きながら、跡形もなくエゴを取り除くのです。

次のステップは、「あなたは私のものです」という姿勢です。そこでは、波は権利として海に援助を要求し、主は個人を守護し導く責任を負わなければなりません。個人は、大切な、救われる価値のある存在であり、主は必ずその帰依者の必要を満たさなければなりません。スーラダーサは言いました。「あなたは私のものです。私はあなたを離しません。私はあなたを私のハートの中に投獄します。あなたは逃げられません」、と。

次のステップは、「あなたは私です」という姿勢です。あなたは実在であり、私は写しにすぎない。私は別個の個別性を有してはいません、という姿勢です。そこに二元性はなく、すべては一つです。二元性は幻にすぎません。

神の体得という、より困難な道を求めよ

霊的な生活の最初の印は無執着(ヴァイラーギャ)です。もし無執着でないならば、あなたは霊的な学問に関するかぎり文盲です。無執着は霊性修行(サーダナ)のABCです。あなたの無執着は、あなたに五感という重荷を捨てさせるのに十分なほど強力なものにならなければいけません。二、三分考えるだけで、この世の富や名声や幸福は空虚なものだということを誰もが納得するでしょう。あなたが裕福な時は、誰もがあなたを褒めちぎります。池に水がいっぱいある時には、何百匹という蛙(かえる)が池を取り囲んでいますが、水が干上がれば、池に向かって鳴く蛙は一匹たりともいなくなります。

「死人が宝石を身に着けていれば、我こそは故人の血縁だと多くの者が名乗りを上げる」、という諺(ことわざ)があります。死人が何も価値のあるものを身に着けていなければ、死人の前に歩み寄ってその故人のために泣く人は誰もいないでしょう。

あなたが自分と子供たちに困難を積み上げていようといまいと、あなたが自分の銀行口座に次から次へと預金を加えていけば、それはあなたの子供たちが清らかで快適で高潔な生活を送ることを難しくさせているのだ、と考えなさい。道を外れた方法で、わずかな名声を得ようとあなたがもがく時、何億というあなたの同国人の中で、今日、誰が、何ゆえに尊敬を受けているかを思い出しなさい。手放した人、放棄した人、俗世の体得という容易な道ではなく、神の体得という、より困難な道を求めた人だけが、どこであれ尊敬を受けている、ということがわかりませんか?

観念して神の意志を甘受しなさい

純金が、宝石の形に整えられるために坩堝(るつぼ)や金槌(かなづち)や金床(かなとこ)を歓迎するように、砂糖きびが、自らの甘さを保存して万人に砂糖として使われるために鉈(なた)や圧搾機、鍋や霧吹きや乾燥機を歓迎するように、あなたも運命によるあらゆる打撃、すべての不幸や悲しみを歓迎しなさい。パーンダヴァ兄弟は、いくつもの惨事に見舞われても決して躊躇(ちゅうちょ)することはありませんでした。彼らは、惨事が自分たちにクリシュナを思い出させてくれたこと、クリシュナを呼び求めさせてくれたことを、幸せに思いました。

ビーシュマは、今にも死のうという時、矢の床で涙にくれていました。アルジュナがその理由を尋ねると、ビーシュマは、

「私が泣いているのは、パーンダヴァ兄弟が味わった窮状が私の心をよぎったからだ」

と答えました。それからビーシュマは言いました。

「これ〔カウラヴァ兄弟の非道な行いを止(と)めなかった報いとして体中に矢が刺さったまま六十五日間過ごすという苦しみをこうむったこと〕は、カリユガに教訓を説くために為されているのだ。決して権力や地位や金銭を求めず、すっかり観念して神の意志を甘受することだ。そうすれば、常に幸せで、動じずにいられる。」

神は、帰依者が神のもとに駆け寄るより早く、帰依者のもとに駆けつけます。もしあなたが神に一歩近づけば、神は百歩あなたに近づきます。神は、母親以上、父親以上の存在になって、あなたの内からあなたを養うでしょう。これまで神に信頼を置いた多くの聖者たちを救い、養ってきたように。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C23