サティヤ サイババの御言葉

日付:1963年9月12日
場所:マイソール市
女子学生に向けた マハーラーニー女子大学定礎式の御講話より

女王であれ!

校長のパールヴァタンマは、首を長くしてこの日を待っていました。私が皆さんの大学に来て、皆さんに話をすることのできる日を。この大学は、彼女が今、述べたように、85年の歴史があり、何万人もの女性を教育し、世の中の様々な分野に送り出してきました。バーラタという国は、「バー」、すなわち、ブラフマヴィッディヤー(ブラフマンの知識)が、国民の「ラティ」(愛着)を引きつける場所であり、国民が自然と霊的な修行に引きつけられる場所であり、無限なるものの呼び声が熱心に耳を傾けられる場所です。今、その熱意が弱まっています。これは大きな不運です。皆さんは、熱意は失われていないということを確かめなければいけません。皆さんは、少なくとも自分のハートの中では熱意はよみがえっていますと、断言すべきです。

真理によってのみ動かされる理智と、卑しさや悪徳の不純を許容することのない意識――この2つはこの理想を実現させるための必須条件です。これらは人を信心深い人(アースティカ)にさせる富(アースティ)です! 理智は、「今回自分はなぜ生まれてきたのか?」、「何のために生まれてきたのか?」、「この冒険旅行はどこから始まったのか?」、「今生と来世はどんな人間的行為の結果なのか?」等々といった根本的な問題を、可能な限り念入りに調べなければいけません。意識は、その背後にある神性まで深く潜っていかなければいけません。

自分の本質である神性を信じよ

ヴィッディヤー〔高次の知識〕とヴィヴェーカ〔識別力〕をもたらさない教育は、まったくもって貴重な時間の無駄使いです。他に何を習おうが習わなかろうが、あなた方は有徳の人となるために必要な力、そして、現象界の誘惑と魅力に抗うために必要な力を身に付けなさい。ヴィヴェーカとは、今日過大評価されている頭のよさのことではなく、ものの正体を見る能力、束の間のものと永続するもの、特殊なものと普遍的なもの、浅いものと深いものを見極める能力のことです。さらに皆さんは、自分が得なければいけない神聖な霊的知識と経験の宝庫である年長者と昔日を敬う態度を備えているべきです。

さらに、皆さんは信仰心も持ち合わせていなければいけません。あなた方の本質である神性を信じ、真摯な修行と無執着(ヴァイラーギャ)の行によって到達可能な、より高次の価値あるものを信じなさい。ほんのわずかな自制によって、人生はさらに甘美なものにもなります。自分の望むものをすべて手に入れても、もういいと思うようになります。あなたの心(マインド)が追いかけるものの多くを拒否しなさい。そうすれば、あなたは運のいい時と悪い時の両方に十分耐えられるほどに自分がタフになったことがわかるでしょう。

今、人は物事の実質よりも外見で判断する傾向にあります。昔、ある男がいました。その男はガネーシャ神の熱心な帰依者で、身上を入れ揚げて純金のガネーシャ像を作るほどでした。男は、ガネーシャ神の乗り物のネズミも純金で作りました。それだけでなく、ガネーシャ神の傘も、玉座も、他の付属物も全部、純金で作りました。のちに、男に厄日が降りかかり、それら最愛のもの一切を売り払わなければならなくなりました。買い取りを申し出た商人が、一つひとつ目方を量って値段をつけはじめました。ガネーシャとネズミは同じ重さだから同じ額だと商人が言うと、男は腹を立て、ガネーシャはネズミよりも高値が付くはずだ、見くびられたと文句を言いました! それは、男が実質のことは忘れて、中味ではなく外観、つまり、形と名前の価値に執着していたからです。

教育はただ生活費を稼ぐことのためにあるのではない

もし自分の就いている役職に価値があったとしても、それは一時のものであり、定年になってラールバーグ植物公園のベンチに座るようになるやいなや、人から目を止められることも、挨拶されることもなくなります! 外側を磨く学校に通うのは、機会を無駄にするだけです。

教育はただ生活費を稼ぐためにあるのではありません。人生のため、満ち足りた人生、もっと意味のある、もっと価値のある人生のためにあるのです。高給の職に就くことに害はありませんが、教育を受けた人は、生活していくことがすべてではないということ、高給の職に就くことがすべてではないということに注意しなくてはいけません。加えて、教育は議論や批判の能力を身に付けるためにあるのでもなければ、競争相手を論破するためでも、自分が習得した語学や論法をひけらかすためにあるのでもありません。学問は、生死の輪廻(りんね)に打ち勝つことを教えてくれるもの、死が迫っても動揺せず、祝福にも運命の強風にも動かされない心の安定をもたらしてくれるものが一番です。そうした学問は、あなたの学問が終わったところから始まります。

この物質世界について学んで分析すれば、この世界は善と悪の寄せ集めにすぎないということがわかります。そうすると、その二元を超越しているものを切に求めるようになります。サティヤ〔真理/真実〕、ダルマ、平安(シャーンティ)、愛(プレーマ)を得て、初めてあなたの上に光が射してくるのです。根本的な原因は、基本的なことを知らないこと、体験していないことです。それでどうして永続する平安を得ることができますか?

苦楽は他人が運んでくるものではない

ある愚かな父親がいました。息子がサソリに刺され、軟膏を傷口に塗りなさいと医者から言われた父親は、

「サソリはどこを刺したんだ?」と尋ねました。

「端のほうです」と息子が、答えると、その父親は家の床の端に軟膏を塗りました! それで痛みを消せますか? ランプは暗い場所に持っていくものです。苦楽は他人が運んでくるものではありません。苦楽は自分の中から生じてくるものです。ですから、あなた自身を治しなさい。他人のせいにして、他人を治そうとしてはなりません。

あなた方は本の山を抱えて自分の部屋から大学に持っていき、またそれを持って帰ってきます。そして、答えについてよりも質問のことについてよく知っています。しかし、本を精読することよりも、観察と瞑想によって、より多くを学ぶことができます。本当に価値のあることは、ヴァーダやウパニシャッド、宗教の経典から学ぶことができます。

ある学僧が、氾濫するゴーダーヴァリー川を渡るのに船を雇いました。船が川を渡り始めると、学僧は船頭とたわいのない会話を始めました。

「学校に通ったことはあるのか?」と学僧が尋ねると、船頭は、

「ありません」と答えました。すると学僧は悲しげにこう言いました。

「ああ! ならば人生の4分の1を無駄にした。これまでの年月はゴーダーヴァリー川で溺れていたようなものだ」

それから学僧は、

「腕時計を見て時間を言うことができるか?」と尋ねました。船頭は、

「腕時計は持っていません。欲しいと思ったこともありません」と打ち明けました。学僧はそれを遺憾に思い、言いました。

「それでは、人生の半分はゴーダーヴァリー川の中に消えてしまったも同然だ」

次の質問は新聞のことでした。

「何か新聞を読んだことはあるか? 好きな新聞はどれだね?」と学僧は尋ねました。

「どの新聞も読んだことはなく、ニュースを知ることにも関心はありません。心配しなければならないことは十分にありますから」と船頭は答えました。学僧は、

「ならば、人生の4分の3は消えたも同然だ」と断言しました。

苦楽の両方に備えていなさい

そうこうするうちに、空に雷雲が立ち込めて、今にも雨が降りそうな雲行きになってきました。船頭は学僧のほうを振り向きました。今度は船頭が質問をする番になりました。船頭は尋ねました。

「泳ぎはできますか?」

学僧が船の上でおびえながら、

「できない」と答えると、船頭は言いました。

「そういうことなら、人生のすべてが、今、ゴーダーヴァリー川の中に溶けていくことになりますね」

これが、現代インドの学識者の実情です。彼らは、苦境に陥った時や緊急の時に落ち着きを取り戻して自らを救済するための訓練をしていません。

皆さんは物質的な快楽と魅惑の洪水に押し流されています。どれくらい長く、そうして漂っていることができますか? 欲望の世界に生きているときには、苦と楽の両方に備えていなければなりません。ボーガ(物質的な快楽)という大臣を招待したのであれば、大臣秘書のローガ(病気)もいっしょにやって来ますから、その準備もしておかなければなりません! 一方、もしティヤーガ(犠牲)という大臣や、その同僚であるヨーガ〔神との合一のための行〕を招待するならば、両者の秘書でもあるボーガ(物質的な快楽)も共に迎えて喜ぶことになりますが、ボーガは自分の上司の前では控えめに役を担います。

純粋で強い人格を育みなさい

真の教養とは、多くの言語を操ることではありません。私は、いくらか前に起こったある出来事を思い出しました。ある教養の高い紳士がいました。彼の妻はよくラクシュミーナーラーヤナという人物からの手紙を受け取っていました。その紳士は、ラクシュミーナーラーヤナというのは妻の大学時代の男友達ではないかと怪しんでいました。ある日、ラクシュミーナーラーヤナから、「鉄道の駅で待つ」という電報が送られてきました。紳士はそれを隠してしまい、妻とその見知らぬ人物に激怒しながら、事の成り行きをうかがっていました。それは悲劇に転じました。妻の大学時代の友人だったラクシュミーは、電報を打ったのに駅に着いても友人に会えず、がっかりしていました。彼女がその街に来ることになったのは、夫であるナーラーヤナが同じ街に転勤になったからでした! 単に読み書きができても、こうした愚かな疑いの元になるだけです!

自分には教養があると言っている人の中に有徳の振る舞い(シーラム)が見出せないなら、教育に意味がありますか? 純粋で強い人格を育みなさい。あなた方の多くは、結婚し、家族を養育するという大きな責任を持つことになります。それはとても価値のある機会です。自分の好き嫌いを他の人の好みに合わせることを身に付けなさい。犠牲と奉仕という心優しき術を身に付けなさい。覚えておきなさい、義理の母に対して怒りをもって返すなら、あなたも義理の娘から同じような仕打ちをされる日が来るということを! 義理の母の観点に感謝するようにしなさい。義理の母は、あなたよりも深い思慮、豊富な経験、大きな責任感を持っていることでしょう。家事については新米のあなたよりも、人や物事についてよく知っていることでしょう。

結婚してあなたが入ることになる夫の家庭は、よい訓練の場、霊性修行の場(サーダナ クシェートラ)です。欠点を指摘されても怒り出してはなりません。自分の行いをよく調べて、自分の誤りを見つけなさい。自分を調べることは、自己改善と平安への第一歩です。他の人の欠点は過大視せず、許容範囲を広くして、小さなものと見なしなさい。自分の欠点は過大視し、大きなものと見なして、早くなくすよう努力しなさい。あなたの欠点を探す人は誰もが友人であり、自分の幸福を願う人だと思いなさい。なぜなら、その人たちは、手遅れになる前にあなたに警報を出してくれているのですから。

やさしい性格とやさしい言葉を育みなさい

昨今では、人の誠実さを疑う論争戦術がいたるところに蔓延しています。これは危険な徴候です。そのせいで、敬意というものが消えてしまいました。教師を尊敬することもなくなってしまいました。もちろん、自分の教え子に「煙草をくれ」と言うような行いをして、自らの威厳を損ねている教師もいます!

法廷で判決を言い渡された殺人犯が、弁護人に異議を唱えてこう訴えました。

「バガヴァッドギーターが明言しているように、私はアートマ(純粋な真我)です。そうであれば、どうして私が殺したり、相手が殺されたりできますか?」

判事は答えました。

「心配無用。絞首刑になっても、あなたが死ぬことはなく、私があなたを死刑にすることもできない。一切はアートマであり、死ぬこともなければ、殺すこともなく、いたるところ、すべてのものに内在しているのだから」

ダルマが通用するのは、そのダルマがその人に適っている場合のみです。そうでなければ、人々はダルマの命ずることを気に留めはしないでしょう。

やさしい性格とやさしい言葉を育みなさい。やさしい言葉はやさしい性格があれば自然と出てくるものです。怒りと悪意のない言葉、取り繕ったものでも形だけのものでもない、ハートから直接出てくる言葉を話しなさい。そうすれば、あなたはすべての人に喜びと愛を拡げることになるでしょう。あなたの両親が、あなたに望みの服を着せてやれなくても、あなたがとても欲しいと思っているきらびやかな装飾品を与えられなくても、腹を立てて両親と口論してはなりません。一般大衆からのプレッシャーに身を任せてしまおうという誘惑に負けないくらいの度胸を持ちなさい。善い性質を養うこと(グナ ポーシャナ)は、体を養うこと(デーハ ポーシャナ)と同じように大切なことだということを覚えておきなさい。

静かな伴侶、人を感化する存在、教師であれ

あなた方は、人目を引く服装をして、何冊もの本を抱えて、バスに乗って出歩いていますが、私に言わせるなら、女性にとって最も効果のある化粧品は有徳の振る舞い(シーラム)です。

ナスタ(朝食)を重んじるのではなく、ニシタ(修行)を重んじなさい。朝食は抜いてもかまいませんが、修行を抜いてはなりません。今後は規則正しい修行の生活を送りなさい。それを習慣にして、それをあなたを危害から守ってくれる鎧にしなさい。

神に祈り、毎日同じ時間に神の御名を唱えるか、神の栄光を瞑想をするかしなさい。そうすれば、十分な見返りがあることがわかるでしょう。

「先に見返りを味わわせてください。そうしたら霊性修行に取り掛かりますから」などと言ってはなりません。実行しなさい。そうすれば、体験はついて来るでしょうし、ついて来なければなりません。

この大学はマハーラーニー〔藩王女、女王〕の女子大学として知られています。私はあなた方一人ひとりが、あなたの家庭の女王であってほしいと思います。女王は王宮の豪華な部屋の中から城壁の隙間を覗いて世界を見ています。女王は外を見ることができますが、人から見られることはありません。これは、シャーストラ〔論書〕に定められているとおりの、最高のストリーダルマ(女性のダルマ)です。皆さんは、見られたり、噂になったりしてはなりません。皆さんは公衆の好奇の目から離れていなければなりません。皆さんは、静かで人目につかない伴侶、人を感化する存在、教師であらねばなりません。

他人から尊ばれたいと望むなら、あなたも他人を尊ぶべきです。もし他人にあなたへの奉仕をしてもらいたいなら、先にあなたが他人に奉仕しなさい。愛は愛を生みます。信用は信用を生みます。自己権力の拡大と利己心は、結果として災難を招きます。実に、他人に奉仕する喜びにまさる喜びはありません。掛け時計のようでありなさい。掛け時計は、誰が時間を見に来ても、時間を知りたがっているすべての人に正しい時間を示します。掛け時計に好き嫌いはありません。

祈りに満ちた生活は強さの湧き出る泉となる

人々は皆さんを弱き者と呼びます。そんなことを信じてはなりません。理知的で、修行に励み、霊的能力があり、他人の長所がわかり、自分の欠点を自覚し、自分を向上させたいと切望している――こうした有益で強力な点を備えている皆さんを、どうして「弱き者」などと呼ぶことができますか?

私は校長からこの大学の庭にチャムパカの木を植えてほしいと頼まれましたが、それよりもっと私に喜びを与えてくれるものがあります。それは皆さんのハートに祈りの苗木を植えることです。祈りに満ちた生活には、激しい怒りの感情は生まれません。祈りに満ちた生活は、強さと協調性の湧き出る泉となるでしょう。ナーマスマラナの行(神の御名を繰り返し唱えること)が廃れてしまったことが、この国が廃れた原因でした。1つの家庭に10の派閥と内輪もめがあり、自分の家を改善することができない人たちが国の改善にとりかかり、他人と協力して調和的な生活を送るべしなどと助言しています。

今、まさに万物の基盤であるアートマの知識が忘れ去られ、それがアシャーンティ〔平安でないこと〕すなわち、あらゆる不安、混乱、現代の道徳の危機の原因となっています。眠っているものを目覚めさせ、メッセージを伝えるために、私は来ました。

私は、あなた方皆が喜びと平安に満ちた生活を送ることができるよう祝福します。私は、この大学がこれから先、さらに何年も何年も存続して役に立ち、この国の女性たちが己を悟り、他の人が己を悟るのを助けるのに役立つことができるよう祝福します。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.3 C24