日付:1964年7月24日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
グルプールニマーの御講話より
今日はヴィヤーサ プールニマーと呼ばれる聖日であり、この日は体にしか影響を及ぼさないごちそうや断食ではなく、祈りと悔い改めで祝わなければなりません。それらこそがハートを清めることができるのです。ヴィヤーサ仙はこの日と関連がある、あるいは主ラーマ、主クリシュナは他の日と関連がある、という事実は、何か神聖なことをする必要があるときにその日を特に重要な日として特徴づけるきかっけであるにすぎません。
今日は満月で、月が何の障害もなく輝いて、月の光が明るく涼やかで満ちている日です。人の心(マインド)は月に例えられます。なぜなら、心は明るさから暗さへと行ったり来たりする月のように気まぐれだからです。今日は、心も明るく輝かしく涼やかでなければなりません。
ヴィヤーサ仙は生まれながらに霊的な向上を強く求め、子供のころから深遠な学習とサーダナ〔霊性修行〕をしていました。ヴィヤーサ仙はナーラーヤナ神自身と同一視されるほどの神聖な知恵と栄光を手に入れました。ヴィヤーサ仙はローカグル(世界の導師)として際立っています。というのも、ヴィヤーサ仙は、ヴェーダの讃歌を体系化し、偉大なヴェーダーンタの聖典であるブラフマスートラを作成し、さらには、教育を好む人々のためにヴェーダ ヴェーダーンタ(ウパニシャッドの哲学に基づく教え)の叙事詩の実録、すなわち、マハーバーラタやシュリーマド バーガヴァタと呼ばれる実録を作成したからです。
あなたは道を横切る必要がある
彼がヴェーダ ヴィヤーサと呼ばれているのは、ヴェーダを学ぶ者への貢献によるものです。ヴェーダは、その数を数えることも、量を測ることもできないほどあるために、とても理解し難いものだったからです。
アナントー ヴァイヴェーダハ
〔ヴェーダは無限なり〕
ヴィヤーサ仙は、同一神のさまざまなナーマルーパ(御名と御姿)に関する18のプラーナ〔神話集〕も作り上げました。プラーナは、道徳律、歴史的エピソード、哲学的原則、社会的理想についての教科書であり、実例の記述です。ヴィヤーサ仙はプラーナを通して利己的な衝動を克服する必要性を伝えようとしましたが、それは次のシュローカ〔詩節/シローカ〕に述べられています。
アシター ダシャ プラーネーシュ
ヴィヤーサーヤ ヴァーチャナ ドワヤム
パローパカーラ プンニャーヤ
パーパーヤ パラ ピーダナム
この賛歌はこのように述べています。
ヴィヤーサが作った18の全プラーナは
次の2つの文に要約することができる
他者に善をなせ
害を及ぼすことを避けよ
善をなすことは薬であり、害を及ぼすことを避けるのは、治療に伴わなければならない養生法です。これらこそが、喜びと悲しみ、名誉と不名誉、順境と逆境という病、人間を悩ませて平静を奪う数々の両極に悩まされるという病の治療法なのです。
ヴィヤーサ仙はローカグル(世界の導師)であり、神の光です。そのヴィヤーサ仙でさえ、できるのはあなたに道を示すことだけです。あなたは一人でその道を通って行くしかありません。グルはあなたにマントラを与え、あなたはそれを繰り返し唱えます。あなたはそのマントラの意味がわからないかもしれませんが、それでも、マントラはあなたの心の浄化剤として働くでしょう。農夫が収税官に何かをしてもらわなければならないときは、弁護士の所に行きます。弁護士は、それはどのようにして頼まなければならないかを知っていて、それを英語で書いてくれ、紙にタイプして収税官に渡してくれます。農夫はその書類に何が書かれているのか、あるいは、その書類に書かれていることの意味はわかりませんが、その書類は有効に働きます。なぜなら、その書類はその目的のために、農夫のグルである人物の頭脳と経験から生まれたものだからです。主は、人間のどんな役人よりも親切で、はるかに熱心です。主は、サックバーイーを助けるためにしたように、信者を害から救うための役割を担ってくれるでしょう。
エゴのない捧げ物をしなさい
シーターは自分の姉妹で、ラーマは自分の義理の兄弟なのだと感じていた信者がいました。その信者は、クリシュナがアルジュナを愛したようにラーマを愛していました! 彼は、シーターが追放されたラーマの後を追って森に入ったことを知りました。シーターは、いばらの茂る密林の道で履物もなく、蛇のいる森の奥地で寝床もないために、苦しんでいるに違いないと彼は想像しました。そこで信者は、履物と寝台を持ってジャングルの中を歩き回り、「シスター〔姉妹〕! シーター!」と呼びました。信者は喉がかれてきた後も、ずっと「シーター!」と呼んでいました。これはほんの数十年前に起こった出来事です。その信者はラーマーヤナを現代の出来事としてとらえていたのです。
ラーマが目の前に現れ、その信者を慰めました。信者はラーマの前にひれ伏して、この履物と寝台を受け取って使ってくださいと懇願しました。「シーターは硬いいばらの地面を歩くことができません。シーターがこれらを使うまで、自分は幸せな気持ちにはなれません」と、信者は訴えました。「親愛なる私の義兄弟よ」と、信者は愛情を込めてラーマに語りかけました。ラーマは履物と寝台を受け取り、幸せな気持ちでここを発つようにと信者に言いました。エゴ〔我執〕という汚点の付いていない捧げ物は、喜んで主に受け取ってもらえます。もしあなたが得意になっていたり、うぬぼれたりしているならば、主の足元に捧げた最も香り高い花でさえ、耐え難いほどの悪臭として主に拒絶されることでしょう。
人は、ダイヴァ(半神)とダーナヴァ(鬼)とマーナヴァ(人間)が入り混じった存在です。鬼の邪悪さは、同情心と同胞意識であるダヤー(哀れみや慈善の性質)によって克服することができます。半神の慢心は、ダマ(自制)、無執着、放棄によって克服することができます。人間のエゴは、タパス(苦行)によって浄化された公正な賢者が定めたダルマに従うことによって、また、本能や衝動を実り豊かな場へと向けることによって、克服することができます。このようにして邪悪さと慢心とエゴの3つが昇華されたとき、マーナヴァ(人間)はマーダヴァ(神)へと変わります。一人ひとりが、自分の欠点や弱点を見つけ、成功への道を知ることによって、この浄化のプロセスに着手しなければなりません。
ビーシュマの信愛に感動したクリシュナ
ある朝、ダルマラージャは、敬意を払うためにクリシュナのもとへ行きました。クリシュナは、パドマアーサナ(蓮華座)を組んで座って深い瞑想に入っており、頬には涙のしずくが伝っていました。ダルマラージャは、クリシュナは誰のことを瞑想しているのだろうと思いました。ついにクリシュナが目を開けたとき、ダルマラージャは思い切ってその質問をしました。するとクリシュナは、偉大な魂の持ち主のバクティに歓喜していたのだと答えました。クリシュナは、その人物は矢の床にいた時でさえ心をひたすら私に向けていたビーシュマにほかならないと言いました。自分はバクタ〔バクティの持ち主〕であると主張するだけでは十分ではありません。クリシュナがビーシュマの不動心に感嘆したときのように、主がそれを認め、それを賞賛しなければなりません。
ヴィヤーサ仙はマハーバーラタを書きましたが、マハーバーラタは、神であるクリシュナを中心に回る、ビーシュマ、ビーマ、アルジュナ、ヴィドゥラ、ダルマラージャ、ドラウパディー、クンティーといった、きら星のごとき偉大な人物と共にあるジャヤ(勝利)とも呼ばれています。この叙事詩は、人々のハートから無知という暗闇、利己心という狭量さ、分離感という小心を取り除くでしょう。ですから、ローカグル(世界の導師)というヴィヤーサ仙の称号は非常に適切なものなのです。ヴィヤーサ仙は、シャンカ(法螺貝)とチャクラ(円盤)を持っていないヴィシュヌ神、第三の目のないシャンカラ(シヴァ神)、3つの頭を持たないブラフマー神(創造主)であると称えられています。
あなた方は、このプッタパルティにいるグルを最大限に活用しなければなりません。あなたはここで、シャーンティ(平安)とサントーシャ(満足)を勝ち得るための技術、神の恩寵、サーダナの教訓、そして、サットサング(聖人たちとの交友)の成果を得なければなりません。信仰を持たない人たちと共に五感の満足を追い求めることによって、あなたのエネルギーと時間を無駄にしてはなりません。
あなた方は、恩寵ではなく、つまらない一時的な快楽を求めて祈っています。神のやり方を知ろうとせず、それらに従おうと決意していません。ドゥルヴァをご覧なさい。ドゥルヴァは、継母の息子に勝とうという低次の目的で苦行を始めました。しかし、苦行が進むにつれ、自分は王位の栄誉よりもはるかに高次のもの、すなわち、神の恩寵を得ることができるのだということを知りました。アートマ(神我)の価値を認識し、アートマではないものから心を引き離すことを身につけなさい。賢い、識別力のある人になりなさい。
グルにすべてを委ねなさい
私がシルディで以前の身体の中にいた時、私からマントラ ウパデーシャ(神聖なマントラを授かること)を得ることを切望していたラーダーバーイーという女性がいました。その日はヴィヤーサ プールニマーでもありました。彼女は御名(ナーマ)〔神の御名のマントラ〕を切望するあまり、それを手に入れるまでは食事をすることさえも拒否しました。そのような状態で三日が過ぎましたが、ババ〔シルディ ババ〕は応じませんでした。とうとう、以前の身体〔シルディ ババ〕と一緒にいたシャーマが、ラーダーバーイーの様子をババに報告しました。シャーマは、ラーダーバーイーのために懇願しました。シャーマは彼女が空腹で死ぬのではないかと恐れていました。もし彼女が死んだら、ババを有名にした「広い心の持ち主」という評判に傷がついてしまうでしょうと、シャーマは言いました。
衰弱したラーダーバーイーがその場に運ばれて来ました。ババは彼女に、どこかのグルの所へ行って御名〔神の御名のマントラ〕を授かりなさいと言いました。ラーダーバーイーは「私は他には誰も知らないのです」と言いました。ババは彼女に、「グルル ブランマー グルル ヴィシヌッ グルル デーヴォー マヘーシワラハ、グルッ サークシャート パラブランマハ タスマィ シリー グラヴェー ナマハ」(グルはブラフマー神、グルはヴィシュヌ神、グルはマヘーシュワラ神、グルは至高神ご自身、そのようなグルに帰命いたします)というシュローカの意味を問いました。そして彼女に、「であれば、なぜグルの御名を受け入れないのですか? なぜグルに別の御名を要求するのですか? もしグルが神であるのなら、グルの命令に従い、グルが示した道を歩むことは、御名を繰り返し唱えること(ジャパム)と同じくらい効果があるのですよ」と言いました。
あなたは自分の言葉で判断される
ひとたび一人のグルを定めたら、すべてをグルに任せなさい。解脱に到達したいという望みさえも、です。グルはあなた以上にあなたのことをよく知っています。グルはあなたにとって善いことを指示するでしょう。あなたの義務は、グルに従い、グルから離れようとする傾向を抑え込むことだけです。「もし、それほどグルに傾倒していたら、私たちはどのようにして食べ物を得たらいいのですか?」とあなたは尋ねるかもしれません。主はあなたを飢えさせないと確信しなさい。主はあなたに、お金や食べ物だけでなく、アムリタ、すなわち不滅をもたらす甘露さえも、与えるでしょう。
自分の舌の上に置いた御名の甘さに浸りなさい。そうすれば、あなたの言葉も甘く穏やかになるでしょう。あなたの言葉によって、あなたは裁かれるのです。あるマハーラージャが狩りに出た時のことです。王は馬でずいぶんと先を行き、従者たちが追いつけなくなってしまいました。王は密林の道端で盲人を見かけ、声をかけました。「もしもし、親愛なる者よ、誰かこの道を通ったかね?」盲人は「いいえ」と答えました。それから数分後に大臣がやって来て、同じ男に「やあ兄弟よ! 誰かこの道を通ったか?」と尋ね、同じ答えを得ました。司令官は、盲人を見るとこう尋ねました。「そこの愚か者! 誰かこの道を通ったか?」その後、兵士がやって来て、「そこの盲、おまえの汚い口を開いて、誰かこの道を通ったかどうか俺に教えろ」と叫びました。最後に宮廷の司祭がやって来て、「親愛なる兄弟よ、誰かこの道を通ったかどうか教えてください」と言うと、その盲人は、「王、大臣、司令官、兵士が通って同じ質問をしました」と正確に答えることができました。なぜなら、話し方がその人の地位や性格を明かすからです。
もしあなたが、ダヤー(思いやり)とダマ(自制心)とダルマを持っていれば、それがあなたに3つのグナ(心の性質)〔鈍性・激性・浄性〕の領域を超えさせてくれるでしょう。であれば、グルから御名を得てその御名を唱える必要はありません。グルの御名や主の御名よりも、グルや主のアーグニャー(指示)のほうが重要です。御名を唱えるのと同時に、主の指示を守ることによって衝動を浄化することができなければ、御名を繰り返すことが何の役に立つでしょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.4 C20