日付:1964年10月8日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
シュリ サティヤ サイ病院の日の御講話より
二人の大臣、P・K・サヴァントとラクシュミーナラシンハは、一人はアーンドラ プラデーシュ州から、もう一人はマハーラーシュトラ州からやって来ました。二人は皆さんに、健康管理について、そして、霊的規律が心と体の健康を維持するのに有効であるということについて、詳しく熱心に話しました。
サヴァント大臣は、村から病気を根絶するために、そして、医者を村に定住させるためにマハーラーシュトラ州で行った仕事について語りました。サヴァント大臣は、この国(インド)の食習慣と気候の特色には古来のアーユルヴェーダの医学体系のほうが合っているということ、そして、アーユルヴェーダで使う薬は村の近隣で手に入るため、アーユルヴェーダは安価で容易に手が届くものであると述べました。彼はさらに、自分はこれまで病気にかかったことはない、なぜなら、自分は食事と睡眠と余暇に関する規律を厳格に守っているので病気を寄せ付けないでいられるのだ、とも述べました。彼は、ババに対する自分の信仰心が病気に勝つための力を増大させている、と述べました。
ラクシュミーナラシンハ大臣は医者でもありますが、人里離れたインドの僧院の静かな環境を称賛し、古代の賢者たちが送っていた簡素な生活が復活してほしいと話しました。彼は、すべてのインド人の心の奥深くにはサナータナ ダルマ〔古来よりの永遠の法〕への信仰の層が存在し、その信仰心をあらゆる類いの再建のために汲み上げる必要があると述べました。
これはこの病院の創立記念行事ですから、私は体の病気について、そのための医療と治療について、何か話さなければなりません。人が健康を求めるのは、健康それ自体のためではなく、自分の病気を治すためです。なぜなら、病気は悲しみを意味するからです。人が健康を確保しようとするのは、健康は喜びを意味するからです。
人は至福を追い求めます。どんな時も、すべての行いを通じて、人は喜びのみを求めます。湖の岸辺に放られた魚は、再び水に入ろうとして、もがき、奮闘します。至福へと戻るための人間の奮闘も、それと同じ性質のものです。人は至福の中にいましたが、悲惨な状況に放り込まれてしまいました。人の本来の生息地は至福です。至福の領域にいた時、人は穏やかで、平和を、平安と愛を、味わっていました。今、その至福を、各人が自分で取り戻さなければなりません。他の人があなたのためにそれを手に入れることはできません。大臣は、州の計画がいかにすべての人に食べ物と衣類と住まいを提供しているかを説きました。しかし、この3つを十分に持っている人でさえ、惨めさから解放されているわけではありません。彼らは至福に戻っていません。至福は自分の内側にある宝であり、無執着と規律によって勝ち得るものです。私たちは、至福の計画を、平安と満足の計画を、持たなければなりません。
一番のことを一番に考えなさい
エアコンの効いた部屋で柔らかいクッションのソファーに座っていても、その人のハートは言葉では言い表せないほどの不安と恐怖で焼かれているかもしれません。体は荷馬車、心(マインド)は馬のようなものです。今の計画では、馬の前に荷馬車を置いています。体と体が必要とする物に一番の場所を与えています。一番のことを一番に考えなさい。そうして初めて、真のインド文化が古代の活力をすべて回復することができます。
この国の聖仙たちは、どの人のハートの中にもある至福の鉱山を知り、その鉱山を掘って金を取り出す方法を見いだしました。彼らは、もしブーマータ(母なる大地)、ゴーマータ(母なる牛)ニジャマータ(自分の産みの母)、ヴェーダマータ(母なるヴェーダ)を崇敬し、育み、可能な限り最善の方法で用いるなら、幸福は確実であり、解脱は保証されると言いました。インドがインドのままあり続け、ヨーロッパにも中国にもなっていないのは、インド人がこうした道をたどってきたからです。
本当に重要なのは内面の一致
大臣が話した食糧の欠乏さえも、農民たちの印であった信仰心の衰えによるものです。自分の職業を熱心に追求することから生まれる強さが弱まった時、自己犠牲をする勇気がなくなった時、すべての活動は損なわれます。主、すなわちアートマタットワ〔真我の本質〕への信心を持ちなさい。それはあなたに活力を与えます。
ある行者がアクバル皇帝のもとに行き謁見をたまわると、皇帝は祈りの最中なのでしばらく会うことはできないから控え室で待つようにと言われました。しかし、行者は待つことを拒否しました。行者は言いました。「物乞いが物乞いから何かをもらえますか?」と。神の門の前では誰もが物乞いです。ヒーロー(英雄)は、物乞いをしたり、すくんだり、お世辞を言ったり、こびへつらいをしたりはしません。ヒーローは、主が一番よく知っているということを知っています。それが主の意志であるならば、主は食物や衣服を与えます。もし与えられないなら、それはそれで、主の意のままに任せます。これが、全託(シャラナーガティ)、あるいは絶対的全託(プラパッティ)の道です。
物乞いや交渉はすべきではありません。全託し、神の意志に服従しなさい。人々の中には、神に交渉して、もし病気を治してくれたら、あるいは、災難を回避してくれたら、この高価な品を差し上げます、私の頭を丸めて髪の毛を差し上げますなどと約束する人がいます。ヴェーンカテーシュワラ神も、他の姿をとった神も、あなたの頭髪など要りません。神が望んでいることは、あなたが誰とであれ交わした約束を守ることです。自分の言葉に忠実であるためには、そして、虚偽や虚言の罪を負わないためには、たとえ何年かかっても、約束を果たすことを神に捧げなければなりません。頭を丸めることは、自分は重要なのは肉体的な美しさであるという妄想をきれいさっぱり捨て去った、という印です。頭を丸めて自分を故意に醜くするのは、そうすることで、本当に重要なのは内面の一致であり内面の魅力であるということを示すことができるからです。サンニャースィン(行者)も、同様の妄想から脱するために、同じように頭を丸め、正しい態度を身につけなければなりません。
死のお呼びがきた時には、最も優秀な医者でさえ、その人を救うことはできません。お呼びが来たら、たとえケーダールナートやバドリーナート、ラーメーシュワラムへの聖地巡礼の最中であれ、婚礼の儀式の祭火の前に座っている新郎であれ、その招きに応じなければなりません。死は少しの遅れも許しません。死は言い訳を認めません。涙が死の心を動かすことはなく、脅しが死を遠ざけることはできません。
目が覚めた状態と夢を見ている状態
ジャナカ王が宮廷で心地よい音楽を聴いていた時のことです。王が王座で眠りに落ちたので、廷臣と音楽師たちはジャナカ王を残してそっと忍び足でホールを出ました。王は夢を見ていました。王国が侵略され、荒らされ、略奪されました。王は捕らえられ、投獄されました。しかし、王は脱獄し、敵の領土で一人でさまよい、空腹と渇きに苦しめられました。密林は暗く、王は声を上げてうめきました。そのうめき声を聞いた王妃が王を起こしました! そこには王座に座って召し使いに囲まれている自分がいました。それから、疑念がジャナカ王を悩ませはじめました。「どちらが現実なのだ、これか、あれか?」夢を見ている時、夢の中での体験は目が覚めたときの宮殿での体験と同じくらいリアルでした。起きている時にはこれが現実で、夢を見ていた時にはそれが現実でした。どちらもそれぞれの状態での相対的な価値しかありません。どれも絶対的な現実、本当のリアルではありません。起きている時の体験は夢を見ている時の体験と同じく非現実です。あなたが熟睡している時、世界はまったく存在しません。超意識である第4の状態に到達すると、「私」(自分)だけが残ります。その普遍なる「私」は、眠っている状態においても、限定された者、個であると誤解されています。
あなたの健康に対する責任を神に負わせよ
数分、静かに考えるなら、あなたはそのことを納得するでしょう。けれども、あなたは、つまらないことにあまりにも忙しすぎて、重要な必要に注意を向けることができません。千ある神の御名のうち、あなたの胸に響くどれか一つの御名の種を、あなたのハートのよく耕した土に植え、それをその地の静寂の中で芽吹かせなさい。そして、その苗に人類同胞への愛と奉仕という水をやり、そこにジャパ〔神の御名や短いマントラを繰り返し唱えること〕とディヤーナ〔瞑想や坐禅〕という柵を付け、外に向かう感情の起伏や激情という害虫や家畜から苗を守りなさい。そうすれば、あなたは至福という収穫を手に入れるでしょう。
サヴァント大臣は、サイ ババへの信心が、ここ数年の自分の心と体の健康を保っているのだと語りました。彼は長年、シルディ サマスタン〔シルディ サイ ババ寺院の財団〕の会長を務めていました。あの体〔シルディ サイ〕への彼の信愛と執着は、彼と私だけが知っています。ですから、ババが私の健康と力をずっと維持してくれているのですと彼が言う時、それは真実であり、彼の信心は心からの深いものであるということを、私はわかっています。もしあなたが心からの信愛を持っているならば、あなたはあなたの健康に対する責任を神に負わせ、神はその責任を負うでしょう。あなたの心はあまりにも幸せいっぱいになり、それによって、あなたの体はサーダナのための道具にふさわしいものとなるでしょう。
* 御講話に付けられたタイトルにある「バジャ」は、「礼拝せよ/崇めよ」の意
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.4 C29