日付:1965年3月24日
場所:カーキナーダ市
カーキナーダ市のサイ ババ寺院落成式とヴィッドワン マハーサバーの御講話より
世俗の混乱と不安の海の中で苦しみもがいているこの街に、私によってサイ ババ寺院が開かれるという、今あなたが手に入れたこの素晴らしいチャンスを最大限に活かすよう、私は皆さんに訓示します。このチャンスを最大限有益に使わなければいけません。それこそが高い知能を持つ人間のしるしです。
寺社と村や社会の関係は、心臓と体の関係と同じです。寺社を建立し、その中に神仏の像を祀り、そこでの礼拝と結び付いた様々なお祭りを祝うことは、どれも善い行い(サット カルマ)です。それらは奉仕の訓練の機会を提供し、犠牲と無執着の機会を与えてくれます。それらは苦行の一つの形態です。ですから、私はこの寺院が人々の苦行を通じて出来上がったことを嬉しく思います。
最近、寺社や礼拝堂を建てることが流行へと成り下がっています。まず第一に、人々は神を自分のハートの中に安置しなければいけません。そうして初めて、人は神の寺社を建てることに取り掛かるのにふさわしい人間になるのです。さらに、新しい礼拝堂や寺社の建設は、古い礼拝堂や寺社をおろそかにするという非常に悪い事態へとつながっています。古い寺社は厳格にシャーストラの戒律に従って建立されており、何世代にもわたって大勢の信者たちがそこを敬神と祈りで満たしてきました。そこにこうした衰退への道を開くというのは神聖冒涜です。加えて、そうした寺社の新築が新種のビジネスになっています。新しい寺社を建てるために、人々は資金集めを始め、その過程で私腹を肥やし、騙されやすい大衆がその犠牲になっています。
食べものや寝る場所を求める悲痛な叫び声がある時に、寺社がすでにたくさんある場所で新しい寺社を建てるためにお金が使われています。これは奨励すべきことではありません。同一の神があらゆる場所で礼拝されているのですから、新しい名前や姿をとった神のために、いちいち寺院を建てる必要はありません。すべての御姿の中に、またすべての御名の中に同一の神を見るよう、人々に教えなさい。これこそが人々に必要な教育です。
建物ではなく徳を増やしなさい
真実の探求、道徳の育成は、インドの理想であり続けてきました。そして、これらは至高神を悟るために不可欠なものと見なされていました。だからこそ、今日この狭い区域、狭い道路が、さらには、長い脇道と交差点さえもが、大勢の人であふれかえっているのです。私はこの会の実行委員に明日の会場を変更するよう提案します。そうすれば、人々は不自由なく腰を降ろして講話を聴くことができるでしょう。皆さんの信愛と忍耐強さを見れば、『バーガヴァタ』に記されているブリンダーヴァンのゴーパ〔男の牛飼い〕やゴーピー〔乳絞りの女性〕たちの信愛の描写を疑っている人も、『バーガヴァタ』は正しいということを納得することができるでしょう。あなた方皆が持っている、霊的なインスピレーションと知識を求める渇きを癒すために、私はパトルドゥが皆さんにお話しした「プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー」〔ヴェーダ復興のためのヴェーダ学者の会〕を設立したのです。この会は国中でその義務を遂行するでしょう。
過去の時代時代に、多くの聖賢、王、苦行者たちが、家を出て森で独居し、限りない至福を得ました。彼らはその至福の源泉、すなわち、人間の中に納められた神を、他の人たちに教えました。「欲望と憎しみという悪徳を取り除き、怒りと貪欲という燃え盛る炎を消しなさい。そうすれば、人が生まれつき持っている平安と幸せ、人の本来の姿と本性が、何ものにも妨げられることなく表れる」と彼らは言いました。平安こそが、人の本来の姿であり、本性です。
寺院を建てることよりも、個々人を建て直すほうが、はるかに重要です。建物ではなく徳を増やしなさい。あなたが人に説いていることを自ら実践しなさい。それこそが真の聖地巡礼です。あなたの心から妬みと悪意を洗い落としなさい。それこそが真の聖河での沐浴です。ハートが不純であれば、舌の上に神の御名を置いたところで何の役に立つでしょう? 人間の、ある過ちのせいで、いたるところに不正と不満が広まっています。その過ちとは、一つのことを言いながらそれとは逆のことをすること、口と手が反対の方向に向いていることです。人は、自分を正し、食生活と娯楽と余暇の過ごし方を正し、また、自分の思考の癖も正さなければいけません。
世界は「私」と「あなた」の仲人
初めに存在しているのは二つだけです。それは、「私」と「あなた」、タットとトワム、アハムとブラフマンです。しかし、その間に、第三の存在であるプラクリティ(世界)が生じているのです。もっと厳密に言えば、第三の存在であるプラクリティが、その間の存在として私たちを惑わせているのです。皆さんは、婚姻のための釣書を持ってあちこち歩き回る人、仲人を知っているでしょう。仲人は、年頃の娘の親のところに行き、いい花婿候補がいると言ってその相手を褒めちぎり、ぜひともうちの娘をその相手に嫁がせたいと親に思わせます。次に、仲人はその相手の村に行き、その娘を嫁にもらうことに同意する前に多額の持参金を要求するようにと促します。最終的に婚姻が成立すると、仲人はいなくなります。プラクリティは仲人と似ています。「私」と「あなた」が結び付くと、プラクリティは消えてしまいます。プラクリティの役割は、「私」に「あなた」というものを明かすこと、それだけです。
実を言えば、川と海のように、波と海のように、「私」の本質は「あなた」と同じです。だからこそ、私はいつもあなた方に、「不死の化身たちよ!」つまり、不滅を本性とする皆さん、「愛の化身たちよ!」つまり、愛を本性とする皆さん、「平安の化身たちよ!」つまり、平安を本性とする皆さんと、呼びかけているのです。誰も聴衆に、「悪の化身たちよ!」だとか、「下劣の化身たちよ!」などと呼びかける人はいません! なぜなら、こうした呼び名は本当ではなく、人の本質を表現していないからです。人の本質は、愛、平安、善、不死です。邪悪や下劣や不道徳というのは判断の誤りであり、巡礼の間に無知と迷妄と混乱等々のために道に迷っているだけのことです。
人間には様々なブレーキが働いている
カルマ(行為)とダルマ(美徳)の道に沿って、一直線に神に向かって進みなさい。これがあなた方の運命です。行為は行われなければならず、それを回避することはできません。各人が、各自の立場、好み、癖、積んだ功徳に応じて与えられた任務を持っています。それを行いなさい。心底、神を畏れ、罪を恐れながら。苦しみと悲しみを歓迎しなさい。そうすれば、あなたは、成功と失敗の両方を、揺らぐことのない求道者へとあなたを形作ってくれるハンマーとして、受け入れることができるでしょう。外側の繁栄よりも、内側の中身のほうが重要です。
ダルマは道徳律であり、聖賢たちの体験であり、心(マインド)と感覚をチェックする制御のための戒律です。人間に働いているこうしたブレーキは多々あります。ヴィヤクティ ダルマ(人間に害を及ぼすものを制御する)、サハジャ ダルマ(人の本質に害を及ぼすものを制御する)、アーシュラマ ダルマ(学生期、家長期、林住期といった人生の段階に害を及ぼすものを制御する)、ヴァルナ ダルマ(共同体の手足としての義務に付属することに害を及ぼすものを制御する)、等々です。これらのブレーキは、どれも互いを補い合うものであり、混乱を招くことはなく、各人がそれぞれの道において進歩することを助けます。クリシュナはアルジュナに、クシャトリヤ〔武人王侯階級〕としてのヴァルナ ダルマと、人としてのサハジャ ダルマを思い出させました。この他に、ヴィセーシャ ダルマ(特別な場合や特別な状況に面したときのダルマ)というものもあります。ですから、皆さんは用心してゴールに向かって歩いていかなければなりません。
この寺院は煉瓦とモルタルにすぎません。この像は石にすぎません。しかし、皆さんは、その中に神の原理を見ようと心に決めました。もし皆さんが、石という形を通り越して、その中に神の原理を見ることができるのであれば、すべての生き物、すべての人のハートの中に住む神を見ることは、はるかに容易ではありませんか? まず、それを見るよう努めなさい。そうすれば、この像や、この寺院に対するあなたの信心は、しっかりと定まることができるでしょう。人を尊びなさい。それが、神を尊ぶための第一歩です。なぜなら、人間のことは知覚できますが、神は知覚できないからです。
自分はシヴァだと気づきなさい
ウパニシャッドは述べています。雷は、「ダ、ダ、ダ・・・ダヤー!」と言って、鬼たちにダヤー(慈悲)を説いている、神々にダマ(自制)を説いている、人間たちにダルマ(本分)を説いている、と。今、人間は、一部分は鬼、一部分は神、一部分は人間というように、三つの存在すべてになっているので、ダヤー(万物への優しさ)、ダマ(自分の心と感官の主人となること)、ダルマ(常に正義の道に注意を払うこと)の三つすべてを実践しなければなりません。これが、雷鳴が空から与えている助言です。
すべての人の旅の行く先は墓場であり、一日一日があなたを死の瞬間に近づけています。ですから、あなた方は、永久にあなたのためになることのために果たさなければならない義務を、先延ばしにしてはなりません。あなたがシャヴァ(屍)になる前に、自分はシヴァ(神)だということに気づきなさい。それは、将来再び訪れる死の繰り返しから、あなたを救ってくれるでしょう。
その現実を心に刻むためにあなたが行うべき最初のことは、神の御名を唱え、心で神の栄光に浸ることです。そうすれば、舌が神より劣る話題に迷い込んだり、心が神より劣る場にあなたを引き込んだりすることはなくなるでしょう。ですから、今、皆さんに、いくつか神の御名を歌ってもらうことにしましょう。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C13