サティヤ サイババの御言葉

日付:1965年3月29日
場所:プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバー アマラープラム
アマラープラムでのヴィッドワン マハーサバーの御講話より

栄養不足とそれを治す方法

私は、多くの人が現状を嘆き、世界とこの国に、不正と嘘、残酷さと憎しみが広がっていることについて話をしているのを耳にします。これは、病気になってから薬を求めて叫んでいるのと同じです。治療より予防のほうがずっと有益です。時に、長い間放置していたせいで合併症が併発し、治療がさらに困難になることもあります。

今、道徳が衰退しているのは、私たちの国で、ヴェーダとシャーストラとウパニシャッドへの信仰が薄らいでいることが原因です。ヴェーダのダルマを信じない人がいると、決まってその人を無神論者だと非難する者たちがいますが、無神論者の人間などいないのです。無神論者と言われる人は、「There is no God. 神はいない」と断言するとき、まず「There is ~がある」と述べ、それから肯定されているものを否定(no~.)します。その人は神を否定するかもしれませんが、愛や崇敬は驚異や畏敬(いけい)の念は否定していません。これらはすべて、有神論者の信仰の表現です。いわいる「無神論者」もゴールを切望しているのです。彼らは、他のすべての人たちと同じく、自分が元いた場所に居を定めることができずにいますが、その場所は覚えています。彼らは、完全な幸せが得られる場所に向かって自分が進んでいることを知っています。彼らはそこを思い焦がれています。彼らはそこを夢見ています。彼らはそこにたどり着くための計画を持っています。彼らは他のすべての人と同じく、飢え、痛み、満たされない気持ちを持っています。

人が痛みの原因を診断してくれる医者のもとに行くのと同じように、求道者はゴールに到達することを求める内なる切望のさまざまな形態に精通しているグルのもとに行きます。多様性が存在する中で、誰もが一体性を見ること、知ることへの衝動を感じています。その知識はブラフマスートラ(神の糸。ヴィヤーサ仙が記した経典の名前でもある)の中に含まれています。ブラフマスートラは、それぞれ異なる数珠玉を一つの数珠に通る一本の糸のようなものです。

神のもとに行く方法はさまざま

今、私の目の前にいる何千人ものたちは皆、ブラフマンという一本の糸でつながっている何千もの花々です。ブラフマンの中には一体性が見えます。あなた方が分離感に浸っているせいで失ってしまった一体性が見えます。その一体性が真理です。それ以外はすべて幻です。あなた方がこの一体性に気づかないでいるのは、一体性を知っている人たちをおろそかにしているからです。彼らの言葉は、まるでそれが邪悪なものであるかのように、はねつけられています! 私たちの国で霊的な食糧が欠乏することはありませんが、それでもなお、豊富な食糧がある中で餓えている人がいるという哀れな光景が存在しています。

この国が患っているさまざまな病気の原因は栄養不足です。その栄養不足とは、体ではなく精神のことであり、霊性修行を欠いている、霊的な養生法を怠っている、ということです。病気が入り込む余地を最大限に広げながら、人々は薬局で薬の名前を繰り返しています! 人々は薬を飲もうという努力をまるで払いません。人々の命をつなぐ水を各村や各家庭に運ぶ水路は、すべて干上がってしまったか、途中で詰まってしまっています。そのために、現代では、栄養不足と、それに伴う衰弱という症状と共に、神経障害と躁病(そうびょう)が大流行しているのです。

宗教(マタム)は知性(マティ)の問題です。知性を一様にすることができないかぎり、宗教を一様にすることはできません。神に近づく方法は、さまざまな知性に応じて、個人の気性の好き嫌いに合ったさまざまなものがあります。仕事熱心な人もいれば、黙想に没頭する人もいれば、外側を重視する人もいれば、外側のことよりも内側の意識を探求する傾向にある人もいます。

古来の経典には、それぞれに適した修行法として、バクティ(信愛)、グニャーナ(英知)、カルマ(行為)、ウパーサナ(礼拝)、ヨーガ(神との合一の行)等々があります。牛乳の中にはバターの成分が内在しています。バターは牛乳のすべての粒子、すべての分子に内在しており、牛乳とバターの成分は同一です。牛乳が発酵してカード(凝乳、ヨーグルト)になり、バターの成分が分離しても、バターの成分は牛乳の一部として存在しています。これは、条件付(じょうけんつき)不(ふ)二一元論(にいちげんろん)(ヴィシシュタアドワイタ)であり、第二のものを自らの一部分として有する一なるものです。カードを攪拌(かくはん)すると、バターはきれいに分離して小さな球となって乳清の上に浮かび、そこから取り出されます。こうして、二つははっきりと見分けられるようになりました。それらは、二つのもの、二元論(ドワイタ)と呼ばれます。しかし、牛乳、カード、バターは、同じ物質の三つの段階の三つの名前に他なりません。

世間の人々はパンディトの立場を固めるべき

一つであるというのがその実体です。そこがどれほど神々しい場所であれ、それはそこ一ヶ所だけでしか見つからないというものではありません。聖地アルナーチャラも、ティルパティも、ケーダーラムも、こここそが、それが見つかる場所だなどと主張することはできません。その場所は、『バガヴァッドギーター』の十八章六十一節に示されています。それは、「万人のハートの中」です。

国民の真の指導者は、この国の神聖な経典に精通しているパンディト(学僧)たちです。なぜなら、パンディトたちは、人間の一番の義務である神我顕現の道を示すことができるからです。パンディトたちは、昔の聖仙や聖賢たちがしていたように、人々に戒律を守るよう助言して、ダルマの道へと導かなければいけません。ところが、今、統治者たちはパンディトたちを寄せ付けず、その上、人々はパンディトたちに嘲笑(ちょうしょう)を浴びせています! もしパンディトが統治者たちの低次の要求に応じるなら、パンディトが大事にし、促進しなければならない理想を堕落させることになるでしょう。そうした状況の誘惑から逃れ、シャーストラに定められているパンディトの行動原則に固く立脚するためには、かなりの高潔さと勇気が必要です。ですから、統治者たちに使われているパンディトにはあまり希望はありません。もしパンディトが経済的援助を求めて統治者に近づくなら、あらゆる機会に自らの基盤そのものを手放してしまう可能性があります。ですから、世間の人々が、自らパンディトたちの立場を固めるという任務、パンディトたちの古来の学識の宝庫から恩恵を引き出すという任務に、取り組まなければいけません。

全能の神は最強の基盤

パンディトたち自身が分裂し、団結する能力を失っています。私がここで単刀直入に話しているのは、ここコーナ シーマは多くの博学なパンディトたちを養育する場だからです。私の使命は、パンディトを団結させて、自分たちの気高い伝統と、今もなおさらに気高い義務を自覚させることであり、また、無執着を習得した者たちによって見られ、記録された、シャーストラとウパニシャッドとヴェーダの偏(かたよ)りのない英知によって恩恵を受ける統治者との関係を発展させることです。そして、そうすることによって世界の平和と調和を築くことです。私は必ず成功します。皆さんはただ、しばらくの間、忍耐しさえすればよいのです。

人生という大きな家は、強力な基盤の上に建てられなければなりません。アルタとカーマの追及、すなわち、富と繁栄、手に入れたいものの追及は、ダルマの規範によって規制されなければいけません。「ダルモー ラクシャーティ ラクシタハ」――ダルマはダルマを守るものを守ります。全能の神への信仰心を常に持ち続けることが、最強の基盤です。「もし神が全能なら、どうしてはっきりと見えないのか?」と尋ねる人もいるかもしれません。神は、切に答えを求める者にのみ姿を顕(あらわ)し、厚かましさや無知から問いかける者には姿を顕しません。

神は、澄み切ったハート、エゴや物質への執着で曇っていないハートの中にだけ、姿を明らかにします。数珠をつないでいる糸は数珠玉が透明な場合にだけはっきりと見えます。珊瑚(さんご)やルッドラークシャの実でできている数珠では糸は見えません。しかし、それらの数珠をつないでいる糸も、数珠玉をバラバラにすれば見ることができます。これは、神話でヒランニャカシプが柱を粉々に打ち砕いたことの意味です。柱を砕いたとき、ヒランニャカシプは、あらゆる物、あらゆる生き物の芯(しん)である神を見ることができました。

ココナッツを割るのはエゴを破壊する象徴

木からココナッツが落ちてきたら、それを割ってみなさい。ココナッツの実は固い繊維質でぎっしりと覆われています。たとえバールでたたいても、それを割ることはできません。その強靭(きょうじん)な鎧(よろい)を外せば、ココナッツは簡単に割れます。寺社でココナッツを供えるときには、繊維質を取り除いてから、二つに割って神様にお供えします。これは、エゴを破壊して、神に全託することの象徴です。ですから、あなたは五感で知覚できるものへの欲望という繊維質を取り除き、それから、欲望と怒りのない状態で神の御前に行き、「ココナッツを二つに割ったことにより、私はエゴがなくなりました」と言わなければなりません。そうすれば、あなたは受け入れられます。それ以前は、受け入れてもらえません。

エゴを克服するのはとても大変な作業です。それに成功するには、たゆみない努力を何年も積み重ねる必要があります。学位を取るために、人は、昼夜、本を読みふけり、何年も大学で勉学に励みます。そうであるなら、永遠の幸福と、生死の輪廻(りんね)の疲弊から逃れることを保証してくれる試験に合格するのは、さらにどれほど難しいことでしょう。心(マインド)と五感を綿(わた)の玉のようにして、そこに英知の火花を打ってそれを燃やすことで、勝利を得る人たちもいます! 心と五感を乾燥させた薪のようにして、もっと時間をかけて燃やす人もいますが、それでも勝利は確実です。大多数の人は、心と五感を切ったばかりの枝のような状態にしているため、激しく燃える英知の炎でも、その中に含まれている多量の水分のせいで火をつけることができません。

あなたの心と五感を、綿繰り機にかけた、きれいで、きめの細かい綿のようなものにしなさい。どうすればそれができるでしょう? それは、ここにいるパンディトたちのような、学僧や霊性修行の経験のある人たちと接することによって可能になります。彼らの教えに耳を傾け、その教えを心の奥深くで熟考し、彼らの助言を実行し、喜んで彼らの指導に身を任せなさい。今、始めなさい。学識はアルファベットを覚えることから始めます。Aを学び、それから、B、C、Dへと進み、最後まで続けます。ニームの実は、最初は苦いかもしれませんが、それを好んで食べる人は大勢います。なぜかというと、根気よく食べ続けていると、舌がそれを甘く感じるようになるからです。ニームの実は病気によく効くという確信を持っている場合は、なおさらです。

成功も失敗も自分が作るもの

たとえば、ナーマーヴァリー(神の御名が含まれている歌)を歌うとき、御名といっしょに、その御名の意味の甘さも舌に載せて歌うようにしなさい。あなたは物質を踏み台にして霊性へと上ることができます。ただし、それが可能だということを理解して、そのことへの信念を持ち、一切のためらいの気持ちを取り払わなければなりません。皆さんは先ほど「ラーダー マーダヴァ ナンダ ラーラ」と歌いましたが、「ラーダー」と歌うとき、ラーダーは一人の女性でクリシュナは男性だと想像してはなりません。ラーダーは何を象徴しているかを知ってさえいれば、今、ここで、あなた方はラーダーになることができます。ラーダーは土台(アーダーラ)であり、永遠にこんこんと湧き出る泉(ダーラ)として、礼拝(アーラダハ)されます。ラーダーは、世界の土台そのものであり、クリシュナ神のもう一つの御名です。それを神の御名の泉(ダーラー)として舌の上に載せ、それよりも劣る話題について話すことは一切避けなさい。

清らかな心という乳海に、万物の一体性への堅固な信仰というマンダラ山を(攪拌棒として)据え、神の恩寵という蛇を手に入れて、それを乳海を攪拌するための縄として(マンダラ山に巻きつけて)使い、瞑想と霊性修行を通して乳海を攪拌しなさい。そうすれば、あなたは、ヴェーダの神髄、霊的知識の神髄、霊的経験の神髄という、アムリタ(神聖甘露)を手に入れることができます。

神はえこひいきしません。あなたは自分で自分を罰し、自分で自分に報いを与えます。

若い学生が英語の試験のことで不安になって、神社に行って、「どうか簡単に答えられる問題を出してください」と神に祈りました。そして、「もし願いをかなえてくれたら、そのお礼としてご馳走をお供えします」と約束しました。するとその通りになりました。学生は試験時間の半分ですべての問題に満足のいく回答をすることができました。学生は、すぐには解答用紙を提出せず、もう一枚紙をもらって、神様にお礼のご馳走をお供えするために買うべき材料を、ジャガリー(椰子(やし)糖(とう))、お米、カルダモン、ギー等々と書き出しました。まだ何分もあったので、それぞれの費用を割り出してみたところ、予算オーバーになってしまったので、学生はリストを書き直し、省いてよいと思われるものを外しました。そんな浮ついたことをしている途中でベルが鳴り、すぐさま試験官が解答用紙を回収しにきました。あわてた学生は、悲惨なことに、お供えものの材料を書き出した紙のほうを提出してしまいました! そのため、その若い学生は試験に落ちてしまいました。すべては学生が自分でしたことです。神はえこひいきしません。神は温度計のように正確で、誤った度数を示したり、誇張して示したり、捏造(ねつぞう)した度数を示したりしません。成功や失敗はあなたが自分で作っているものです。あなたの運命を決めるのは、あなたです。神はそれに加担しません。

人には霊性の真理を求める欲求がある

もうだいぶ遅いので、皆さんは家に戻らなければなりません。皆さんの中には、年を取っている人たちや、女性や子供もたくさんいます。私は、皆さんが私への愛ゆえに、遠くから徒歩や船や牛車(ぎっしゃ)で長い距離をやって来て、食事も睡眠も休憩もせず、水を飲むにも、小さな木陰に行くにも苦労しながら耐えてきた困難を知っています。この人の波を見れば、人々はバーラタの国の伝統の価値と、その価値が続いていることを確信できます。皆さんは蟻塚から出てくる蟻のように、それぞれの村から共にぞろぞろとやって来ました。なぜですか? それは皆さんが神に飢えているからであり、霊的な真理への欲求があるからです。

私は皆さんに、一つ言わなければならないことがあります。というのも、今、大きな物議をかもしだしていることがあり、特に、東ゴーダーヴァリー県で、このアマラープラム周辺で、騒ぎが大きくなっているからです。私は誰かを非難しようとか、誰かを笑いものにしようというつもりはありません。しかし、真実を公にしなければいけません。かなりの数の者たちが、私が「その人たちに」(!)降りて来ている、あるいは、それどころか、取り付いている、と宣言しています。彼らは身体を揺らしたり、動かしたり、震わせたりして、私が彼らを通じて話しているとか、彼らは私の支配下にあると主張して、さまざまなことを口走ります。彼らは、質問に答えたり、出来事を「予言」したり、さまざまないんちきをしたりして、私を知らない人や、私の実態を知らない人々からお金や物品を集めています。こうしたことはすべて、まったくのまやかしです。それは蔓延しつつある病気です。それらを奨励してはなりません。そうした病気に苦しんでいる人を見たら、いつでもその芽を摘み取りなさい。そういう者たちには手先や仲介者たちがいます。まず、彼らの動きを阻止しなさい。そうすれば、彼らの操り人形たちも姿を消してしまいます。彼らは神聖さを装っていますが、その貪欲(どんよく)さが、彼らの卑劣さを物語っています。

人々は「ババが夢で私のところに現れて、あなたにこれやあれをして、あなたからいくらいくらのお金を集めるように告げた」などと言います。そうした詐欺師の言うことを意に介してはなりません。彼らにふさわしい方法で処罰しなさい。それが私が皆さんに与える助言です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C20