サティヤ サイババの御言葉

日付:1965年3月29日 AM9:30
場所:アーンドラ プラデーシュ州アマラープラム市
アマラープラム市でのババの御講話?

めったにないチャンス

私から皆さんへの助言が一つあります。それは、貴い人生の一瞬たりとも汚してはなりません、ということです。あなた自身が喜びを得るために、そして、他の人々に汚れなき喜びをもたらすために、最も有用な方法で時間を使いなさい。あなた方は、この三角州の地域のあらゆる村から、大挙して、ここ、アマラープラムにやって来ました。あなた方の中には、年を取りすぎているために、私のダルシャンを得るためにプッタパルティまで来ることができない人たちが大勢います。体の具合が悪いために、ここで一番前のほうの列に座れない人たちも大勢います。そういう人たちに配慮しなさい。どこに立っていても、人を押したり、どっと前に押し寄せようとしてはいけません。私はこの高いテラスにいるのですから、皆さんはどこにいても私を見ることができます。

今、口のためではなく、目と耳のためだけの仕事がここにあります。そのチャンスを得たら、逃さないのが賢明です。私は、あなた方に至福を授けるためにやって来ました。私は、あなた方全員が至福に満たされるまで、ずっとここに立っている準備ができています。ですから、なぜ、わあわあ騒ぐ必要がありますか?神は、深い静寂の中でのみ、感じ、経験することができます。あらゆる雑音をやませなければいけません。そうすれば、神の声をはっきりと聞くことができます。

口は真の教養の指標です。ある男が盲目の農夫に尋ねました。

「おい! まぬけ野郎! おまえは兵士がこの道を行進するのを聞いたか?」

しばらくして、別の人がその農夫に話しかけました。

「盲人よ! 兵士がこの道を行進する物音を聞いたかどうか、口を開いて私に話しなさい。」

それから、三番目の人が農夫に近づいてきました。

「あなたは兵士がこの道に沿って行進するのを聞きましたか?」

最後に、また別の人が近づいてきて、農夫の肩に手を置きました。

「親愛なる人よ、この道路に沿って人々が行進する音を聞かれたかどうか、どうぞ私に教えてください。」

その盲人は、質問をしてきた人たちが順に、兵士、指揮官、大臣、国王だということを正確に言い当てました。言葉遣いは、話し手の教養をあらわにします。

寡黙な人に敵はいない

口はハートの鎧であり、人の命を救ってくれます。大声で話したり、長話をしたり、でたらめを言ったり、怒りや憎しみに満ちた話をしたりすることは、いずれも人の健康に影響を及ぼします。そうした話は、他の人の心に怒りや憎しみを引き起こし、人を傷つけ、興奮させ、怒らせ、仲たがいさせます。なぜ「沈黙は金」と言われているのでしょう? 寡黙な人に、友人はいないかもしれませんが、敵もいません。寡黙な人には、自らの内に沈潜して内省し、自分の欠点や短所を吟味する時間の余裕と機会があります。寡黙な人は、もはや他人の欠点や短所を見つけようという気にはなりません。足を滑らせれば、骨折します。口を滑らせれば、相手の信仰心や喜びを壊すことになります。そうして壊してしまったものは、二度と元には戻せません。その傷はずっと、うずいているでしょう。ですから、口を使うときには、よくよく気をつけなさい。もっと優しく話し、もっと口数を減らし、もっと甘く話すようにすればするほど、あなたにとっても世界にとっても、よいのです。

皆さんがぎゅうぎゅう詰めになって殺到し、人々を前に後ろに押しのけているとき、それは、泥棒やスリにとっての絶好のチャンスです。皆さんは自分の幸運に我を忘れて立ちつくし、私だけに注意を向けています。その一方で、泥棒やスリたちは、皆さんの財布や金のネックレスに注意を向けています。

私はあなたのハートの揺れ動き、ハートの熱望を知っていますが、あなたは私のハートを知りません。私は、あなたがこうむる痛みに反応します。あなたが感じる喜びに反応します。なぜなら、私は万人のハートの中にいるからです。私はハートという神社に住まう者です。皆さんは私のことをもっとよく知らなければいけません。なぜなら、モールス信号を受信した人がモールス信号を知らないとき、どうやって当局はモールス信号を理解できますか? 皆さんが与えるプレーマ(愛)は、私が皆さんに与えるアーナンダ(至福)と同じモールス信号で表されています。

バクティは、理性が敷く水路に沿って導かれなければいけません。あなた方のバクティは、怒り狂ったように氾濫する川の水のような野蛮な振る舞いをあなた方にさせています。あなた方は、ダルシャンを与えに来るよう私を説得するために、昼も夜も、晴れでも雨でも、「ジェイ! ジェイ!」と連呼して、私が宿泊しているこの場所を取り囲んでいます。これは正しいことではありません。親愛なる者たちよ! これはバクティではありません。これはプレーマ(愛)ではありません。皆さんがそうやって大きな音を声を出して騒がなくても、もちろん、私は喜んでテラスに出てきて、皆さんが求めるダルシャンを、皆さんのハートの中心で与えます。私が最も耳を傾けるのはそこからの声であり、あなた方の喉から出る声ではありません。

悲しみではなく、喜びを広げるために、人としての生を使いなさい

あなた方が引き起こす騒ぎのほとんどは、場所取り争いが原因です。力の強い人が自分の権利を主張して、他の人々の権利すら奪ってしまうこともしばしばです。ここは妨害を試みる場ではなく、助けを試みなければいけない場です。それが完全な平安、プラシャーンティの空気です。ここでは他の場所で集まるときのように振る舞ってはなりません。ここには、妬みや悪意、憎しみや競争のための場はありません。ハートからカーマ(強い欲望)とクローダ(怒り)の熱い炎が燃え上がっていたら、どうやってハートから平安と真理と非暴力と愛の涼しげな光を発することができますか?

今こうして人として生まれることは、めったにないチャンスです! そのチャンスを、悲しみではなく、喜びを広げるために使いなさい。もちろん、人間が腹を立てたり、怒りを募らせたりするのは自然なことです。しかし、怒りに自由に荒れ狂う余地を与えてはなりません。ゴーダーヴァリー河から激しくあふれ出す水は、堤防やダムでせき止めなければいけません。そうすれば、河の両岸が洪水で流されることなく、河の水は海にたどり着きます。それと同じように、あなたも自分の怒りと憎しみに限度を設け、その限度を守るべきです。

皆さんも知っているように、まず土地を耕し、水を撒き、次に種を植え、雑草を抜き、作物が牛や山羊に荒らされないように柵で囲み、それから辛抱強く収穫の時期を待たなければなりません。それと同じく、ハートは、徳を積むことで耕し、神の愛という水を撒かなければなりません。その後で、神の御名という種を蒔きなさい。それから、そこを見張って、雑草を滅ぼさなければいけません。むらや疑いという家畜から苗を守るための最良の方法は、規律という柵を付けることです。そうすれば、神の御名は瞑想という花を咲かせ、英知という豊かな収穫を刈り取ることができます。

今、あなたは肥沃な土地に休耕を許し、その結果、ハートの畑に茨や雑草が生い茂っています。そのような土地は、誰にも何の喜びも生み出しません。ハートを耕し、アートマの至福という穀物を収穫しなさい。至福こそが、あなたの天性です。それをくださいと頼むなら、それはあなたのものになります。けれども、あなたはどうやってそれをくださいと頼んだらいいか、誰に頼んだらいいかを知りません。深い悲しみを退去させれば、あなたの至福は、「私」という状態、つまり、サット(存在)とチット(意識)の土台そのものとして、明らかになります。それはとても単純なことです。あなたが自分の真の起源を見つけるや、深い悲しみは、たちどころに消え去ります。なぜなら、悲しみは無知からのみ生じるものだからです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C21