サティヤ サイババの御言葉

日付:1965年7月13日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
グルプールニマーにおける御講話(上)より

歓喜の泉

今日は神聖な祝日です。今日は、私たちが、サグナ礼拝(有形の神を礼拝すること)という宝石と、マーナヴァ(人)はマーダヴァ(神)になることができる、ナラ(人)はナーラーヤナ(神)になることができる、ジーヴァ(個々の魂)はブラフマン(普遍なる魂)になることができる、あるいはむしろ、ジーヴァはブラフマンであるという、希望と確信を人類に与えてくれた聖仙ヴィヤーサを敬う日です。『バガヴァッド ギーター』と『ブラフマ スートラ』は、これらの価値のある教えを提供している偉大な聖典です。

人は、マーヤー(神聖な幻)とマーダヴァ(神)、モーハ(迷妄)とラーマ(神)、デーハ(体)とデーヒ(魂)、シャダ(不活性な物質)とチット(意識)、シャリーラ(体)とシャリーリ(体をまとう者)、ジーヴァ(個々の魂)とブラフマン(至高の魂)といった、同じ実質の二つ要素が混ざった存在です。石臼の上下の石のように、ブラフマンであるほうはどっしりと安定しており、ジーヴァであるほうは回転します。安定しているものは基盤であり、回転するものは「それに依存するもの」です。グルは、真理の知識を人々から覆い隠している根本的な無知を取り除く教師です。このプールニマー、すなわち満月の日は、グルを敬うために定められました。なぜなら、知識の力は、灼熱(しゃくねつ)の苦しみを終わらせて、人の心に涼しい心地よさを与えてくれるからです。ヴィヤーサ仙はナーラーヤナ神そのものであるとして敬われています。神以外の誰が光を与えることができるでしょう?

もしあなたが家族に忠誠を傾けているなら、あなたは家族の召し使いです。神に忠誠を傾けているなら、あなたは神の召し使いです。しかし、神の与える賃金を気にしてはなりません。賃金や報酬の額を主張して、神に交渉してはなりません。賃金を要求して騒ぎ立て、自分は貧しいと声高に言うのは、雇われた労働者のみです。神の親族、神の家族、神の子でありなさい。そのとき、神は当然のこととして、あなたの快適さを保持します。神の近くにいるよう努めなさい。神の親族と同じくらい近くにいなさい。自分は神に何時間奉仕したかを計算し、神は報酬を与えてくれないと嘆いてはなりません。常に神に奉仕していなさい。言い換えるなら、善いことをし、善くありなさい。

スマラナという電線で自分と神をつなぎなさい

カルナは死が常に身近にあることを知っていました。それゆえ、カルナは誰であれ自分に頼みに来る者があれば、それがどれほど大変なことであっても、すぐにその場でそれをかなえてやり、先延ばしにすることはありませんでした。というのも、カルナは「私の心は変わるかもしれない。私の命は終わるかもしれない」と言っていたからです。人々は、出会う人に「クシェーママ?(万事良好ですか?)」と挨拶し、相手も反射的に「良好です、ありがとうございます」と答え、自分の寿命が日ごとに一日ずつ短くなっていることを自覚していません。人にクシェーマ(安定して良好であること)はありません。人はクシーマ(衰退)のみを経験しています。ですから、起き上がって、あなたに残された日々を精一杯生きる決意をしなさい。

グルは、ますます深い暗黒へと人を連れていく悪の道にあなたが入ったことを見つける人です。なぜなら、グルは、正しい道を知っており、道を照らす灯りを持たずに夜の苦悩から逃げ出す努力をしているすべての人への愛に満ちているからです。今日はグルの中でも一番のグルが感謝をもって憶念される日です。そのグルはナーラーヤナと呼ばれます。なぜなら、ナーラーヤナは実在であり、もしあなたが周囲にグルを見つけられず、グルを求めて祈るなら、あなたの内にいるナーラーヤナ自身があなたに道を示し、あなたを導いてくれるからです。内なるグルに導かれるほうがずっと望ましいのです。なぜならば、自分はグルであると主張する人々の多くは、自分自身が物質的な快楽にふけっていたり、貪欲や羨望や悪意でがんじがらめになっていたりしているからです。「グル」には「重い」という意味もあります。多くのグルは、体重が重いということだけは当てはまりますが、霊性の高さということにおいては当てはまりません!

家に灯りを灯すために発電所から電気を引くには、一定の間隔で電柱を立てて、家と発電所とを電線でつながなければなりません。それと同様に、神の恩寵を得るためには、規則正しく霊性修行をし、スマラナ(神の御名の念唱)によってあなたを神とつなげなければなりません。

内なる歓喜の泉を見つけなさい

実利主義者(チャラヴァカ)たちは、自分の手の中にいる一羽の鳥は藪(やぶ)の中にいる二羽の鳥よりも価値があると主張しました。彼らは、後で与えられるという約束を希望にして、現在の楽しみを捨てるべきではないと言いました。しかし、捨離の幸福は、今、ここで味わうことができるものであり、貪(むさぼ)りと執着から得る幸福よりも、はるかに長続きし、意気を揚げてくれます。加えて、五感の支配者でいることは、五感の奴隷でいることよりも、はるかに確かな喜びです。今、あなた方はコーヒーを飲む習慣の奴隷です。コーヒーへの執着を捨てる決心をして、三日続けてその決意を貫きなさい。そうすれば、あなたは舌の主人となり、舌はあなたの奴隷となります。コーヒーは、もはや、あなたを支配することはできません。コーヒーが喜びを与えられるものであるなら、すべての人は皆、等しくコーヒーという飲み物から喜びを得るはずです。しかし、紅茶を好む人もいれば、コーヒーは美味しくないと感じる人も大勢います。砂糖なしのコーヒーを好む人もいれば、ミルクなしのコーヒーを好む人もいます。このように、喜びを与えるのは心であって、コーヒーではありません。五感に喜びを与えているのは物質ではありません。

秘訣は、内なる歓喜の泉を見つけることです。それは、決して涸(か)れることがなく、常にいっぱいに満ちており、常に清涼な泉です。なぜなら、それは神から湧き出ているからです。体とは何ですか? 体はアートマを包んでいる五つの鞘(さや)にほかなりません。その鞘とは、アンナマヤ鞘(コーシャ)(食物でできている食物鞘)、プラーナマヤ鞘(コーシャ)(生気でできている生気鞘)、マノーマヤ鞘(コーシャ)(思考でできている心理鞘)、ヴィグニャーナマヤ鞘(コーシャ)(知性でできている理智鞘)、アーナンダマヤ鞘(コーシャ)(至福でできている歓喜鞘)です。これらの鞘(コーシャ)をいつも黙想していることで、サーダカ(霊性修行者)は、外側から退いて、内側にあるもっと実在的なものの中へと入っていく識別を得ることができます。このようにして、自分とブラフマンが一つであるという知識に達するために、サーダカは、徐々に、一つずつ鞘を捨てていき、最終的にすべての鞘を消滅させることができます。

真理と愛をあなたの導き手としなさい

私がこうしたことを、何度も何度も、毎年毎年繰り返し話すのを、たいていの人が聞いています。けれども、ほとんどの人は霊性修行の第一歩さえ踏み出していません。あなた方は私が講話を続けることを望み、私の話したことをあとで読み返すためにノートに書き留めます。しかし、私の言ったことを実践しないなら、その一切はまったくの無駄です。あなたは朗々と語るかもしれませんが、人は口によって判断されるのではなく、行ないと態度によって判断されるのです。

『バーガヴァタム』の一連の講話にすべて出席し、二、三の決まり文句を覚えた女性がいました。その女性は、怠け心が身に付いて、水も汲(く)まずに遅くまで寝ているようになりました。夫が小言を言うと、その女性は一つの詩節を引用しました。それは、人は自らの内に、イダー、ピンガラー、スシュムナーというナーディ(脊柱(せきちゅう)の左右中央を走っていると考えられている気道)として、ガンジス河、ヤムナー河、サラスワティー河すべてを有しているというものでした! 夫は、妻の厚かましさと、霊的なものに見せかけたインチキに、たいそう驚きました。そこで、夫は一計を案じ、水の入った壺や水差しをすべて家の外に出し、とても塩辛いものを妻に食べさせました。妻が激しい喉の渇きにヒーヒー言って、水を持ってきて欲しいと必死になって叫ぶと、夫は妻が引用したのと同じ詩節を述べてから、「おまえの内にあるガンジス河とヤムナー河とサラスワティー河から水を汲んできなさい!」と言いました! 霊的な事柄に関して、偽善や裏表のある言行は通用しません。ですから、真理と愛をあなたの導き手と同伴者にして、細くてまっすぐな道を歩いていかなければいけません。

青年が海外の国に行くと、年老いた両親は、我が子は異国の文化の誘惑にどう対処するだろうかと心配します。ある父親は、息子に手紙を書き、食べ物と飲み物、神への礼拝と祈りに関する家の習慣を守るよう懇願しました。息子はその手紙を読むと、目に涙を浮かべて手紙を胸に押し当てました。けれども、それで終わりでした。息子は誘惑に負けて、徐々に態度が変わっていきました。手紙が書かれた紙は敬われましたが、手紙の内容は敬われなかったのです。神聖な書物もこれと同様に扱われています。人々は、聖典の上に花を供え、さらには、食べ物を神聖なものにしようとして、聖典にお供えさえしています。太鼓叩(だた)きや笛吹きが先頭になって聖典の神輿(みこし)を担いで通りを練り歩いています。けれども、聖典を読むこと、その内容を理解するよう努めること、書いてあることをわずかでも実行することは、人にとってほとんど不可能な課題となっています!

他人の欠点を探すなかれ

そうした書物が説いていることを一つだけ話しましょう。今日のグル プールニマーの日(神聖な導師に捧げる満月の日)から、私が皆さんにそれを守る決心をしてほしいことがあります。それは、人の欠点を探さないこと、人に暴言を吐くこと(パラドゥーシャナ)と人を傷つけること(パラヒムサー)をやめること、人の悪口を言わないこと、妬みや恨みを持たないこと、気持ちの上でも、話をするときにも、いつも穏やかでいること、人との会話を信愛と謙虚な気持ちで満たすことです。

愛をもって生活し、愛の中で生活し、愛のために生活しなさい。そのとき、愛の権化である至高の神は、あなたが何も頼まなくとも、あなたに必要なものをすべて与えます。至高の神は知っています。至高の神は、食べ物を欲しがる子供の嘆きが聞こえるのを待つことなく食事を与える聖母です。至高の神の愛は、非常に深く広大です。至高の神は、あなたのあらゆる必要を予期して、あなたが得なければならない助けを手に駆けつけます。あなた方は皆、自分の願い(クローリカ)を書いた長いリストを持ってきて、それを私の目の前に置くことができるよう、いつ私にインタビューを与えられるかを知ることを切に望んで待っています。あなたの願いは増えるばかりで、きりがありません。一つの願いがかなうと、それは新たな一連の願いへとつながります。神の意志のみを重視し、自分は神の手の中にある道具でいる、という段階に達するよう努力しなさい。

「聞くこと」には三種類ある

耳は、悪いことを聞くことを好み、善いことを歓迎しません。耳は、あまりにも歪(ゆが)められ、堕落させられています。「聞くこと」にはさまざまなタイプがあります。

その一つは「粘土」のタイプです。粘土は水を加えると柔らかくなりますが、水気がなくなると前のように硬くなります。心(マインド)は宗教的な講話を聞くと柔らかくなりますが、あなたがその場から離れると、その効力は失われます。

それから、「カラス」のタイプです。いくらカラスに声を良くして歌うようにと教えても、カラスはそれを聞く前と同じく「カー、カー」と騒々しく鳴きます。

そして、「蚊」のタイプです。あなたが一時間静かに座っていようとするときに限って、蚊はあなたを邪魔し続けます。いくら「シッ、シッ」と言っても蚊はそれを聞きません。蚊は何度も何度も攻撃してきて、あなたに害を与えて喜びます。このような低級な欲望を満足させてはいけません。聞くことを抑制しなさい。ゴーピー〔牧女〕たちは、クリシュナの栄光、クリシュナの魅力、クリシュナの言葉、クリシュナのいたずら、クリシュナの遊戯、クリシュナの手柄、クリシュナが達成したことだけを、喜んで聞きました。

あなたがクリシュナへの愛で自分を満たすとき、あなたは自分と神は一つであるという意識(サールーピャ)と、神との融合(サーユッジヤ)に達します。これより低次の勝利ではなく、この極地に達しなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C34