サティヤ サイババの御言葉

日付:1965年7月14日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
グルプールニマーにおける御講話(下)より

初めの一歩

人には、記憶力が授けられているのと同時に、忘れる力も授けられています。どちらも便利な能力です。おそらく、忘れる力のほうが重要でしょう。なぜなら、忘れることができなければ、人は、何百万回という過去世で、何百万人にもおよぶ自分の親たち、親類縁者たちを失ったことを嘆かなければならなくなるでしょう。また、今生で自分が受けた多くの侮辱や傷を来世でも覚えていて、腹を立てることになるでしょう。幸運なことに、人はそのすべてを忘れてしまいます。人は、自分にとって意味深かったり、重要だったりする、特に印象に残ったこと、具体的に言うと、自分の結婚式の日付や、自分にお金を払わなければならない人のこと等々だけを、大切なこととして覚えています。人の悲劇は、自分の地上での生涯についての最も意味深く重要なこと、すなわち、幸福と解放の鍵、自分の本当の名前と実体を、忘れていることです!

人は、自分は何者か、そして、自分は何を目的にやって来たのかを、忘れるわけにはいきません。

「カストヴァム(あなたは何者か)、コーハム(私は何者か)、クタ アーヤータハ(私はどこから来たのか)?」

とシャンカラが言ったように、人はこれらの問いの答えを知らなければなりません。「あなたは何者か?」、「私は何者か?」、「私はどこに行くのか?」、「私はどこから来たのか?」、「この動きと変化の一切の本質と目的は何なのか?」、「不変なる基盤、目的や狙い、指示や指示者は存在するのか?」――これらの問いを心(マインド)の脇に追い払うことはできません。これらの問いは、人が独りで、自然の中で何か壮大なもの、畏敬の念を起こさせるものと共にいるとき、あるいは、何か酷いこと、ショッキングな出来事を経験したときに生じて、人を悩ませます。それらの貴重な瞬間を無視し、促された探求を突き詰めることなく単調な日常生活に戻るのは、賢明ではありません。

弟子は切望を持つべし

けれども、人は忘れます。人は無視します。人は実在しないものを実在と間違えます。人は見た目に騙されます。人はベールに隠されているものを見ません。人は自分と他人を誤った方向に導きます。人は、どちらも白い色をしているからといって石灰をバターだと思って手に取りますが、その性質と作用の違いはどれほどのものでしょう? 赤ん坊は、自分の親指をしゃぶって大きな満足と喜びを得ます。指をしゃぶっても味はしないし、甘くもないということを私たちは知っています。けれども、赤ん坊におしゃぶりをやめさせると泣き出します。親指が甘いというのは赤ん坊の思い込みです。それと同じように、人がこの世から得る幸せは、この世が持っている性質ではありません。それは主観です。それは、得ることのできるもの、源、行き着く先である、この世に映るアートマ(神我)の幸せの投影にすぎません。赤ん坊は、自分の親指を、喜びを与えてくれる何か外にあるものだと思っています。しかし、それは自分自身なのです。

グルは警告し、目覚めさせます。グルは真理を明かし、それに向かって前進するようあなたを励まします。あなたが切望を持たず、ハートに問わず、知性を求めないなら、グルは多くのことはできません。空腹は満たすことができます。空腹でない人は、食べ物をもらっても、迷惑だと言って捨ててしまうでしょう。

グルは庭師であり、植木の世話をします。けれども、苗木が庭師に手入れをしてもらうには、まず芽を出さなければなりません。庭師は苗木に何か新しいものを与えるわけではありません。庭師はただ、苗木が自分の運命に従って成長するのを助けるだけです。庭師は、苗木の成長を早めること、よく成長させることはするかもしれませんが、苗木本来の性質に反することはしません。

グルは、その人の家に埋まっている宝を指し示すことで、貧困を取り除きます。グルは宝を取り戻す方法、宝を最も上手く用いるために必要な注意点といったことを助言します。

お金には人をとりこにする力がある

昔、極端にケチな男がいました。その男は、どんなことがあっても、決してお金を使いませんでした。しかし、父親が死んだとき、シャーストラ(聖典)に定められた戒律により、また、世間の目もあったので、頭を剃(そ)らなければならなくなりました。床屋は、その男にとってはあり得ない金額を要求しました。その守銭奴はしつこく値切り、代金は一パイサまで下がりました。その守銭奴は、それでもお金を払おうとしませんでした。男はまだ値切り続けて、「一パイサで二つの頭を剃ってくれ」と言いました! 床屋はそれを承知しました。というのも、死んだ父親には息子が一人しかいなかったので、もう一人分の頭を剃ることはないだろうと思ったからです。ところが、その守銭奴は、床屋が自分の頭を剃り終わると、自分の妻を呼んで「お金を払う前に、おまえも頭を丸めてもらえ」と言い放ちました! 愚か者にとって、お金はそれほどまでにとりこにする力があるのです。

人は、少しずつ地道に無執着を実践しなければいけません。そうしなければ、貪欲と、ケチな心が、人の立派な性質を押さえつけてしまうでしょう。人の立派な性質は神性です。なぜなら、神はまさしく人の実質であり、人というのはただの名前と姿にすぎないからです。それに気づくためには、変わることのないものと変わってしまうもの、永遠のものと一時的なものを区別する識別力を持ち、その識別力を伸ばさなければいけません。

サーダナ チャトゥシタヤ(霊性修行で得られる四つの徳、あるいは、四つの霊性修行)というものがあります。

ニッティヤーニッティヤ ヴィヴェーカ(識別力)――宇宙は絶えず変化と変形を免れないものであり、ブラフマンだけが変わらないものであることを知ること。

イハ アムットラ パラ ボーガ ヴァイラーギャ(無執着)――この世の喜びに対する無執着、および、この世の喜びは消えゆくものであり、深い悲しみをはらんだものであるという確信に達したあとに天国で得られる喜びに対する無執着。

サマ ダマーディ シャド サムパッティ(六つの基本的な徳)――六つの望ましい資質を身につけること。すなわち、心の平安(サマ)、外側と内側の感覚器官と感覚器官の促しを制すること(ダマ)。悲しみや痛みの只中にいるときも、喜びや勝利の只中にいるときも、動じずにいること(ティティクシャー)。人を縛り付ける報いをもたらすあらゆる行為から身を引くこと(ウパラティ)。師および師が説く経典の内容への固い信心(シュラッダー)。想念の波に流されることなく、根源であるブラフマンを心穏やかに黙想すること(サマーダーナム)。

牛の体の中に牛乳があっても、牛乳を手に入れるためには、あなたが自分で牛の四つの乳首を搾らなければなりません。それと同じように、もし霊的な知識を得たいなら、これら 四つのサーダナ、すなわち、四つの乳首を搾らなければなりません。

神の恩寵を勝ち得るために自分の習慣を改めなさい

夢が現実ではないように、この世は「実在ではないもの」です。あなたはこの寺院(マンディール)のベランダで寝てしまい、自分がカーシーにいてガンジス河で沐浴している夢を見ているとします。あなたは心地よい涼しさを感じて、聖なる満足感を得ます。そのときのその感覚は現実です。しかし、あなたはいつ実際にカーシーに行きましたか? どうやってそこに行きましたか? グニャーニ(悟りを得た人)は、自らのより純粋な意識から、あなたが起きている状態について、それと同じ質問をします!

ここで、私はあなた方に一つ言わなければなりません。どの夢が現実なのでしょう? 神と関係のある夢は現実です。あなたは夢で私を見て、私があなたにパーダ ナマスカール(御足への礼拝)を許し、あなたを祝福し、恩寵を授ける――これは本当です。それは私の意志とあなたの霊性修行(サーダナ)によるものです。もし神、あるいは、あなたのグルが夢に出てきたら、それは神の意志(サンカルパ)によるものに間違いなく、夢を生じさせる他の理由によるものではありません。あなたが望んだ結果としてこの種の夢を見ることは、絶対に不可能です。

何よりもまず、自分の習慣を改めること、欲を減らすこと、より気高い性質を磨くことによって、神の恩寵を勝ち得ようと努力しなさい。一歩踏み出せば、次の一歩は容易になります。それが霊性の旅の優れた点です。一歩踏み出すごとに、あなたの力と自信は増し、より大きな恩寵を得ます。

昔、一人の悪人が偶然に宗教的な講話を聞き、大きな影響を受けました。その男は偉大な聖賢のもとに行き、弟子にしてもらおうと我が身を差し出しました。聖賢は、男に毎日どのように過ごしているかを尋ねました。男はこう答えました。

「昼間は賭け事をし、夜は盗みを働くために家に忍び込みます。昼も夜も嘘にふけっています。」

すると、聖賢は言いました。

「もしおまえがその三つのうちの一つをやめたら、私はおまえを弟子として受け入れよう。恩恵に値するようになるためには、何らかの犠牲を払わねばならない。」

男は少しの間考えました。

「賭け事はやめられない。わくわくするからな。盗みもやめられない。盗みは俺が知っている唯一の生きる術だ。となると、嘘をつくのをやめればいい。」

そうして、男は、今後一切嘘はつかないと約束し、受け入れられました。聖賢は、男が罠(わな)にかかったことを喜びました。男はもう逃れられなくなりました。

泥棒が真実を語り大臣に任命される

その夜、男は宮殿に忍び込もうと決めました。男は門番を巧みにかわしてテラスによじ登り、欄干を伝ってこっそりと壁を這(は)っていきました。誰かが男に気がついて、「そこにいるのは誰だ?」と言いました。「俺は泥棒だ」と、男は本当のことを言いました。男は質問をしてきた相手に「おまえは誰だ?」と聞き返しました。それは王その人でした。王は気持ちのいいそよ風に吹かれるためにテラスに出てきたのです。しかし、王は、「私も泥棒だ」と答えました。そこで、二人は手を組むことにして、分け前も五分五分にすると決めました。泥棒は宮殿の宝庫に忍び込もうと提案しました。新しく相棒となったその相手は、自分は宝庫の鍵の在りかを知っていると言って、暗闇の中に消え、鍵を持って来ました。二人は宝庫に入り、宝を二分し始めましたが、大粒のダイヤモンドが三つあることに気づきました。それは、大きくて美しいダイヤモンドでした。その一つを王が取り、もう一つを泥棒が取りました。残りの一つはそのままそこに残すことで二人は同意しました。というのも、「すべてを失った不幸な王に、せめてこの宝石一つだけでも慰めとして残してやろう」と泥棒が言ったからです。それから、二人は別れました。そのとき、「おまえはどこに住んでいるのだ?」と尋ねられ、泥棒はそれ以前に嘘をつくのをやめていたので本当の住所を言わなければならず、実際にそうしました。

翌朝、宝庫に泥棒が入ったというニュースが広まり、王は一番偉い大臣に、「宝庫に行って調べてくるように」と命じました。宝庫は、箱が開けられ、金庫が破られ、さんざんな状態でした。大臣は、大きくて立派なダイヤモンドが一つ、悪漢の目から逃れてそこにあるのを見つけました。大臣はそのダイヤモンドをポケットに入れ、しばらくそこに留まったあとで王のもとへ戻り、宝庫の様子と盗まれた品々について報告しました。王は、「警察が身元を知っている泥棒たちを全員ここに連れて来るように」と言いました。自分の住所を残していったあの泥棒も含めてです。泥棒たちが連れてこられ、王は自分が特別に指名したその泥棒に尋問しました。その泥棒は、「昨夜、自分と、もう一人自分より前に宮殿に忍び込んでいた別の泥棒の二人で、宝庫の宝を半分ずつ分けた」と言いました。王はダイヤモンドのことを尋ねました。泥棒は、「三つのうちの一つはそのまま置いておき、自分たちは一つずつもらった」と言いました。泥棒は本当のことを話すと誓わされていました。王は大臣がそのダイヤをくすねたに違いないとわかっていたので、皆の目の前で大臣を調べるよう命じました。言うまでもなく、大臣のポケットからダイヤモンドが一つ出てきました。そして、大臣は信用できない人物であるということが明るみに出たのです。そのことがあってから、王は大臣を解雇し、その代わりに、その泥棒を大臣に任命しました。

グルは弟子を導くべし

今や大臣となった泥棒は、盗みもやめてしまいました。というのも、宮殿には充分にあり余るほど物があるので、もう生活の手段を心配することもなくなったからです。賭け事をする時間もなくなりました。彼は正直で有能な大臣として有名になりました。その有能な大臣の話を聞きつけて、彼のグルが都にやって来ました。大臣はグルを見るや御足にひれ伏して、自分を改心させてくれたグルのやり方に感謝しました。

これが、初めの一歩がいかに大事かということです。初めの一歩は、その先の歩みをそれほどの努力を払わずに進ませることを可能にします。グルは、同じ場所に立っていることや後戻りすることは恥ずかしいということを説明し、旅の楽しさと目的地の壮麗さを指摘することによって、初めの一歩を踏み出すようあなたを説得しなければなりません。

今、グルという地位を享受している者すべてにそれを行う能力があるわけではありません。グルが弟子を導いているというよりも、弟子がグルを支配して導いています。グルの地位に祭り上げられた羊飼いの少年がいました。その少年は二つの音を出すのが常でした。いつも、「トゥールルルル、トゥールルルル」、「タク、タク、タク」という二つの音を出していました。弟子たちはその音の意味を見出して、グルの名声を保ちました。弟子たちは、物質を追い求めることに費やされる人生はただの「トゥールルルル」であり、神へのセヴァ(奉仕)をしないで無駄に時を過ごすことは「タク、タク、タク」と非難される、とグルは明言しているのだと言いました! もしグルが弟子の奇抜な考えや空想に屈したり譲歩したり、忠誠を失うことを恐れたり、忠誠を得ることを切望したりするならば、グルは弟子の奴隷であり、主人ではありません! 弟子はグルの指示に従うことを身につけなければいけません。それがグルの智慧(ちえ)の恩恵を受ける一番の方法です。

私は、このグル プールニマーに、ギーター サーダナを行うようあなた方に指示します。あなた方に解脱を与えるには、それで充分です。多くの人が私に、「スワミ! 私が唱えることのできる神の御名を一つお与えください」と頼みます。どんな御名でも、自分が好きな御名、自分の心に響く御名を選びなさい。神の御名はそれも等しく甘いものです。歪(ゆが)んだ知性だけが、一つの御名と別の御名に差異を見出すのです。ここに、解脱したがっている一人のアメリカ人女性がいます。国籍はまったく問題ではありません。誰もが神の国の国民です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C35