サティヤ サイババの御言葉

日付:1965年8月19日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
クリシュナ神御降誕祭の御講話より

神はどれほど離れたところにいるのか?

アシュタミーとナヴァミーのティティ(インドの太陰太陽暦の黒分〔満月の翌日から朔までの半月〕と白分〔朔の翌日から満月までの半月〕のそれぞれ8日目と9日目の日)は縁起がよくないと広く一般に信じられているのは、実に嘆かわしいことです。どちらも神の化身(アヴァター)がやって来たこと、すなわち、姿を持たず、名前もなく、時を超越し、場も超越している絶対者が、姿を持ち、名前を得て、生身の存在として、一人の人間となって降臨したことを記念する日です。クリシュナ神は黒分の8日目に生まれ、ラーマ神は白分の9日目に生まれました。この神聖さを無視して、これらの日に新しいことを始めるなら予測のつかない危険をはらむだろうと思うのは、実に、まったくのこじつけです。

人が本来持っている神性が覆い隠された時、神聖な求道者たちの体験によって定められた道徳律と霊的規律がなおざりにされる時、獣から人へと向上してきた人類が獣へと滑り落ちて人類の兄弟たちを脅かす者となった時、神は人間の姿をとります。クリシュナはヨーゲーシュワラ(ヨーガ行者たちの主)であり、自らの労働の果報への執着を持ちません。神は、自らの悪気のない悪戯、戯れ、歌、甘さによって人間たちを魅了するために、そして、自らの教えと恩寵によって人間たちを指導するために、クリシュナとなって顕れました。クリシュナは今日のジャンマアシュタミー〔ジャンマは誕生、アシュタミーは8日目の意、クリシュナが生まれた日を指す〕の日に牢屋で生まれました。その牢屋にはクリシュナの両親が悪の一味によって投獄されていました。クリシュナはその悪の一味を皆殺しにするために来なければなりませんでした。ラーマ神は人間をダルマに導くためにやって来ました。それゆえ、ラーマは正義と公正と正直さの化身であらねばなりませんでした。ラーマは、息子、兄弟、友、統治者、夫の生き方を導くダルマを教えました。

この2人の神の化身が地上に降り立った時の空の星も、意義深いものです。アヴァターたちが来るときには、時間と場所、家系と家族を選び、仲間と、共に働く者たちを決めて連れてきます。ヴィシュヌ神がラーマとなって化身したとき、シェーシャ(ヴィシュヌ神がその上に横たわる千の頭のある蛇)、シャンカ(法螺貝)、チャクラ(円盤)をはじめとする、ヴィシュヌ神と切っても切れない補助役たちも同じように化身してきました。デーヴァ(天界の者)たちも、神の仲間になることの甘さ、神の奉仕の甘さを味わうために、地上に降りてきました。クリシュナはローヒニーという星の下に生まれましたが、ローヒニーは、ヨーガの成功と、そこから流れ出る力に関係しています。ラーマはプナルヴァスという星の下に生まれましたが、プナルヴァスは権威への神秘的な影響力を持っており、それは自らに服従する者すべてを受け入れるという、シャラナーガタ タラーナ(自らを避け処とする者を守護する者)というラーマの栄光の側面です。

悪いことが起こるのを日や星のせいだと考えてはならない

これらの吉日に人がしなければならないことは、2人のアヴァターを軸として展開する高尚な考えに浸って霊性修行の第一歩を踏み出すこと、あるいは、さらなる一歩を踏み出すことです。これらの吉日を、参拝するためにあなたが選んだ御姿、あなたの最も奥深い部分にある切望に訴えかける御姿をとった至高神の、歓心を得るよう努める出発点として用いなさい。悪いことが起こるのを日や星のせいだと考えてはなりません。あなたが一日を神のために過ごすなら、どの日も善い日です。どの星も善い星であり、あなたの足を神へと導く光を射しています。これが私からあなた方への今日のアドバイスです。

人々は幸せを得たいと熱望し、衰えることのない幸せが得られる見込みのあるものがあると、すぐにそれに飛びつきますが、しばらくすると努力を続けることに疲れてしまいます。人々は近道を探し求め、他人に寄りかかって自分の重荷を背負ってもらおうとし、楽して多くの果報を得たいと願います。しかし、霊的な闘いにおいて成功を収めるには、厳格な規律と固い信心が絶対に必要です。ただ講話を聞くだけ、あるいは、講話をするだけでは、何の役にも立ちません。厳格な規律を身に付けるには、外界の楽しく魅力的な物事へと心を引っ張っていく五感を制御しなければなりません。固い信心を身に付けるには、あなたを誘い込むために、あなたが生まれ変わってくるたびに偽りの色を使って魅惑的な絵を描く、厄介な心を制御しなければなりません。

神は信者の叫びに注意を払う

もしあなたの理智が研ぎ澄まされ、偏見と好みがなくなれば、一瞬にして実在が姿を顕します。というのは、それはきわめて単純なものだからです。ただし、そのためには、あらゆる無関係なものの寄せ集めから離れて、問題の根本的な核心を見る能力を持っていなければなりません。あるとき、宮殿の謁見の間で王と王に仕える大勢の人々を前にして、とても博学な学僧(パンディト)が、大変知ったかぶった態度で『バーガヴァタ』の「ガジェーンドラ モークシャ」(象王の解脱)の話を語っていました。学僧は、怪物のような鰐の大きな口に捕らえられた象が救いを求めて必死にヴィシュヌ神を呼んだ時、ヴィシュヌ神が、自らのしるしも武器も持たず、どこに何の使命のために行くかを妃に告げる間もなく、どれほど急いで一目散にヴァイクンタ天〔ヴィシュヌ神の住む天界〕から直行したかを語りました。その時、ふいに王が話をさえぎって問いました。

「パンディトよ、ヴァイクンタまでは、どれ程あるのか?」

その博学な学僧はヴァイクンタまでの距離を知りませんでした。学僧は困惑しました。宮殿の他の学僧たちも皆、その答えを知りませんでした。ところが、王座の後ろから王を煽いでいた召し使いが、「無礼を許していただけるなら答えを申します」と言いました。学僧はその召し使いの厚かましい申し出に憤慨しましたが、王はそれを許しました。

「王様! ヴァイクンタは象王の叫びが耳に届く距離にあります」と召し使いは言いました。

そうです。信者のハートの苦痛が叫びや、うめきや、ため息となって表された時、神はちょうどそれが耳に届く距離にいて、助けに駆けつけます。神の耳はいつも自分の子供たちの叫びを聞くために注意を傾けています。神の住まいであるヴァイクンタは、悲嘆に暮れるあらゆるハートから出る、あらゆる叫びが聞こえる距離内にあります。その文盲の召し使いは、一瞬にして神の遍在と慈悲を知ったのです。

マハーバーラタの戦いは一人ひとりの中で進行している

神には執着も憎悪もありません。神は使命のために来て、その務めを果たすことだけに没頭します。正しき者を支え、邪(よこしま)な者を諭すことが、神の性質です。神の務めは、人が本当の自分を知ることができるよう人の視力を回復させること、人の歩みを道徳と自制の道へと向けることです。

ギーターの教えの最高の模範は神自身です。神はギーターの中で自らの本性を明かしています。ギーターは、人が自然界の全体像とアヴァターたちの特性をとらえることのできる聖典です。神は信者の友人として、仲間として、御者として、師として、導き手として、守護者として行動します。マハーバーラタの戦いは古代の神話の章ではありません。マハーバーラタの戦いは、人間一人ひとりの胸の中で「善」対「悪」の軍勢によって進行しています。ヨーギーシュワラ〔ヨーガ行者の主〕であるクリシュナ神に御者として着いてもらうことの価値を知る者は、間違いなく勝ちます。そうでない者は、悪の軍勢を撃退することに失敗し、負けて倒れます。神をあなたの主人として受け入れて、一切の活動を神に全託し、あなたの言葉と行いと思考を花として神に献じなさい。そうすれば、神はあなたに、

モークシャイッシャーミ
私はそなたを解脱させよう

〔バガヴァッドギーター18章66節〕

と言って請け負います。神はあなたに、

マー シュチャーハ
悲しみ嘆くことはない

〔バガヴァッドギーター18章66節〕

と言って請け負います。

クリシュナと共にいることを愛した信者たち

アルジュナは最高の真実を語られる資格を持った志願者でした。アルジュナには、識別力、放棄、知りたいという大志がありました。アルジュナは、いついかなる時も、まばゆい光を、すなわちクリシュナを、意識していました。アルジュナはクリシュナの英知と力と恩寵に絶対的な信頼を置いていました。アルジュナは、「慎み深い愛しき友」(プリヤ ナームラ サカ)でした。ビーシュマ、ウッダヴァ、ビーマ、ドラウパティーは皆、この部類に入る信者です。ウッダヴァは、ヤーダヴァ一族が滅亡するという情報を前もってクリシュナから与えられるほど、親密な友でした。ビーシュマは、クリシュナが神の化身であることを知っており、幾度となく重大な局面の時にカウラヴァ兄弟の宮廷でそのことを主張しました。また、死に際にクリシュナの御姿を得て幸せを感じました。

それから、クリシュナが共に遊び、冗談を言い、楽しく付き合った、「愛しき友」(プリヤ サカ)がいます。

他には、クリシュナのダルシャン(姿を見ること)、スパルシャン(触れること)、サンバーシャン(会話をすること)を楽しみ、可能な限り長くクリシュナのいる所にいようとした者たちもいました。牧童たちがそうです。牧童たちは友だちでした。

それから、「スフルド」〔善良なハートを持つ者〕、すなわち、年長の僚友たち、幸福を願う者たち、仲間たちの一団がいます。彼らはクリシュナへの親心から来る愛情を抱き、クリシュナのことや、クリシュナの周囲の状況のことを心配し、クリシュナを撫でたり抱擁したりすること、クリシュナに奉仕すること、あるいは、クリシュナを喜ばせることができると、幸せでした。

一方で、牧女(ゴーピー)たちは、牧女たちだけで信者の1つの部類になります。牧女たちは信愛の最高峰に到達しました。牧女たちはクリシュナ以外、何も意識にありませんでした。牧女たちは五感も肉体意識も放棄していました。牧女たちは体の中に住まうクリシュナの原理だけに執着しました。牧女たちは、「これ」を体験することではなく、「もう一方のもの」〔あれ〕を知ることを欲しました。聖仙シュカ〔聖仙ヴィヤーサの息子〕が牧女たちの素晴らしい物語と牧女たちのクリシュナへの愛についてパリークシット王〔アルジュナの孫〕に語っていた時、パリークシット王がその愛の性質について尋ねると、聖仙シュカは、「牧女たちは肉体意識を持っておらず、いつも神意識だけに浸っていたので、牧女たちの愛には、粗大なもの、物質的なもの、肉体的なものは少しもなかった」と答えました。自分と肉体を同一視すること、五感の奴隷でいることこそが、この世に蔓延する残酷さ、不正、暴力の一切を生み出しているのです。

あるとき、宮殿の最上階のテラスで宮廷の道化師が何かを捜しているのを王が見つけ、「何を捜しているのか?」と尋ねました。道化師は、「駱駝(らくだ)が逃げ出したので、もしや階段を上ってテラスに行ったのかもしれないと思い、それを確かめに来たのです」と答えました。王が道化師の現実離れした推量を笑うと、道化師はこう言いました。

「もしあなたが、駱駝のこぶのように膨れた慢心と、ひねくれた信心を持っていながら、自分は天国に到達できると信じて天国に到ることができるなら、駱駝にも5つの階段を上ってテラスにたどり着くことができるでしょう」

牧女たちは霊的な全託の秘訣を知っていました。牧女たちの礼拝は、取引をしようという意図によって汚されてはいませんでした。取引をし、利益を渇望する人々にとって、礼拝することすなわち見返りを得ることであり、彼らは1回いくらで満足を与える応唱をして参拝を売っています。彼らは雇われの使用人のようなものであり、やかましく給金や残業代やボーナス等々を求めます。彼らは自分がした奉仕(サービス)からどれだけ搾り取れるかを計算します。それとは逆の、家族の一員、親族、友人でありなさい。自分は神のものだと思いなさい。そうすれば、仕事はあなたを疲れさせず、もっとよくできるようにさせ、もっと満足感を与えてくれるでしょう。給金はどうでしょう? 神はあなたを至福の中にいさせるでしょう。これ以上何を求めることがあるでしょう? あとのことはすべて神に任せなさい。神はベストを知っています。神はすべてです。神を得ているという喜びは、十分な報酬です。これが人の幸せの秘訣です。この方向に沿って生涯を過ごしなさい。そうすれば、あなたが悲しい思いをすることはないでしょう。

ナ メー バクターハ プラナシヤティ
私の信者は決して悲しみを味わうことがない

〔バガヴァッドギーター9章31節〕

とクリシュナは言いました。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C36