サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年

浄化されたハート

利益。利益。人間のすべての行動において、毎日の生活の中でこの言葉が繰り返されているように見えます。穀物の山を量る時も、数字の一から数え始める代わりに利益(ラーバ)という言葉で始めています! 賢者は、もっとずっと価値のある別の利益があると考えます。それは、神の御前に到達すること、神というこの上ない至福に融合すること、神の至福という最高の喜びを追求することから私たちを遠ざけてしまう小さな快楽から解放されることです。

神の親族になりなさい。神の親類知己になりなさい。神の家で賃金を稼ぐ人になりたいと願ってはなりません。算定されて取り引きされるものである賃金を要求してはなりません。賃金のためになされた労働は、愛や崇敬のためになされた労働のようには誠実でなく、また楽しくもありません。兄弟や息子が、自分の権利として一日当たりいくらいくらと賃金を要求することはありません。彼らは、家の主人から、申し分なく、よく面倒を見てもらっています。彼らが要求しようがしまいが、すべてがまかなわれるのです。

アナンヤーシ チンタヤントー マーム
イェー ジャナーハ パリウパーサテー
テーシャーム ニッティヤービユクターナーム
ヨーガクシェーマム ヴァハーミャハム

この確約は、ギーターの中で、主なる神によってなされているものです。――私への思いのほか何の思いも持たぬ者、誰であれいつも私への崇敬に浸っている者、私は常にその者と共にあり、今生でも来世でも、必要なものを提供する――という確約を読んで、多くの者はこう問います。「それならば、私たちはこれやあれやの供養礼拝(プージャー)をしているのですから、その見返りに神が何をしてくれるのか見せてもらえますか」と。しかし、彼らはその恩寵を授けられるための条件には注意を払っていません。

神の恩寵は計り知れない

テルグ語の詩にも、救いに来てくれない親類、背から振り落とす馬、礼拝されても恩恵を授けない神は、捨てるべし、と助言しているものがあります。しかし、捨てるという行為は、「スマティ」すなわち「良い識別心」を持っている人々だけに許されているのだと、その詩は述べています。もちろん、そのような人々は、前述のギーターの詩節に述べられているとおりの礼拝の方法を知っているので、自ら求めずとも受けるに値する恩恵が授けられます。神の恩寵は計り知れません。

神は愛であり、神のすべては愛です。神を愛として黙想し、神の御名を愛の化身の御名として唱え、神を愛として崇敬すること。これは神へと至る最も容易な道です。自分には、神聖な場所を訪れて聖者や賢人によって聖化された有名な寺社の前で平伏するためのお金がない、ヴェーダをマスターする時間や才能がない、だから自分は神から遠く離れている、と思って落胆している人たちもいます。これはまったく間違っています。というのは、神はそうした外的な達成の程度で恩寵を量り分けることはないからです。神は量には動かされません。餓えを満たすのに、世界のすべての穀倉地帯の穀物が必要なわけではありません。一つかみで十分です。喉の渇きを癒すのに、すべての川の水を求める必要はありません。コップ一杯の水で十分です。それと同じように、絶えることなき神の恩寵を得るには、小さな一つの全託の行為で十分です。何年にもわたる苦行や学びや霊性修行(サーダナ)が要求されているわけではありません。「あなただけ、他には何もありません」――このことを心に留め、その信念を持って生きなさい。それは、あなたのすべての行いを、計り知れないほど有益な礼拝へと変えるでしょう。

全託の精神で為された行いはヤグニャとなる

アルジュナは、主クリシュナから、年長者と親類と交戦するようにと言い渡されました。アルジュナの英雄的な血統と武人階級(クシャトリヤ)の血が自らを戦いに駆り立て、罪と報復へと恐れが自らに戦いを止めるよう促しました。「私は自分が崇敬し、親愛を抱いている人たちを倒してまでも、勝利を収めてこの王国を統治すべきなのだろうか?」とアルジュナは自問しました。すると、主はアルジュナに敵軍らの真ん中で教示しました。ギーターの第二章で、クリシュナはアルジュナに全託(シャラナーガティ)のことを話しています。アルジュナはそれを聞いて、「主よ、私に自分の意志はありません。私はあなたに全託します」と言いました。そして、戦いはヤグニャ〔供犠〕へと変じ、アダルマ〔ダルマでないこと〕が供犠の火に投じられました。

主なる神への全託の精神で為された行いはヤグニャになります。エゴの精神で為された行いは戦いとなって終わります。皇帝ダクシャはヤグニャを執り行いましたが、慢心により、彼は主と主の力(シャクティ)を軽視しました。そのため、ヤグニャは戦いによって台無しにされました。戦いを汚すエゴがない時には、戦いはヤグニャへと昇華します。これは全託(シャラナーガティ)が達成し得る秘法です。

まず、「私は神の道具である」(ダーソーハム)という自己確信を得ることです。それから、神の恩寵を獲得することによって、「私はシヴァ神である」(シヴォーハム)、あるいは、「私は神である」(ソーハム)という認識が、あなたの揺るぎのない経験となるでしょう。

世界のすべてに至高神が内在している(サルヴァム ヴィシュヌマヤム ジャガト)というこの崇高な事実を把握するための最初の道は、バクティ(信愛)です。なぜなら、信愛が強まると、通常、人は信愛によってすべてのものの中に自分の崇める神の姿を見るからです。

「私の実体と宇宙の実体は同一である」という不二一元論の概念を理解するのは難しいことです。「私は神である」ということは、鋭い知性と明瞭な識別心を通してのみ認識することができるものです。これは外的な議論や努力によって意識の中に確立できるものではありません。瞑想(ディヤーナ)と探求(ヴィチャーラ)の熟練者になる必要があります。

あるとき、裕福な領主の病気を、よそから来た僧侶が、これは目に問題があると診断して、一つの色だけを見るようにと助言しました。領主は、入手可能なすべてのペンキと、その地域のすべてのペンキ屋をかき集め、壁、屋根、塀、道、木の幹、すべてのものを緑色に塗りました。何ヶ月かしてその街に戻ってきた僧侶は、街の奇妙な外観を見て驚きました。僧侶は領主にその理由を尋ねると、主人は僧侶の処方に従ってそうしたのだと言いました! 僧侶は、そんな厄介なことをしてお金を使い果たしてしまった領主をたしなめました。なぜなら、緑色の眼鏡をかければ同じ効果を得ることができたからです! 視覚が浄化されてブラフマ タットワ〔ブラフマンの原理〕を帯びると、すべては一つの基礎であるブラフマンとして見えるようになります。いくら外的な苦行を積んでも、儀式のための正装をしても、その確信を得ることはできません。

真実で役に立つ言葉を話しなさい

基礎であるブラフマンの唯一性は、すべての人を等しくさせます。この平等観は、高いレベルの経験においてのみ現すことができます。その段階に至らなければ、すべての人をお互いに等しく扱うべしなどという話をしても、自分を欺いていることになります。なぜなら、そうした単純なことでさえ、真実を話すという点において信用を危うくすることになってしまうからです。ギーターは、「アヌドウェーガカラム ヴァーキャム サッティヤム プリヤヒタム」〔人を傷つけず、真実で、好ましく、有益な言葉〕を話すようにと、忠告しています。

パーンダヴァ兄弟と短気な聖賢ドゥルヴァーサに関する話があります。クルクシェートラの戦いの終わりに、アシュワッターマが巡礼から戻り、パーンダヴァ兄弟が勝利したことを知った時、自分の手で戦勝者を皆殺しにしようと誓い、彼らを探しにいきました。クリシュナは、死をもたらすその強力な男の怒りからパーンダヴァ兄弟を救いたいと思いました。クリシュナはドゥルヴァーサ仙のもとに行き、兄弟たちをどこかにかくまってほしいと頼みました。ドゥルヴァーサ仙は同意しましたが、条件を一つ出しました。もしアシュワッターマが兄弟たちの居場所を尋ねてきたら、真実を話してもよいとする、しかし怒った口調で話す、それで事足りる、と。そこで、五兄弟はドゥルヴァーサ仙が静かに瞑想に座る洞窟の中に隠れました。

神は行為の裏側にある動機の清らかさを見る

アシュワッターマは、ドゥルヴァーサ仙を見ると、緊張した足取りで心臓をドキドキさせながら、思い切って彼の瞑想を妨げました。(これまでドゥルヴァーサ仙は怒るといつも恐ろしい呪いを吐いて多くの人を亡き者としてきた)。そして、恐れで躊躇(ちゅうちょ)しつつ、パーンダヴァ兄弟がどこかこの近くにいないかと尋ねました。ドゥルヴァーサ仙は、しばらくの間、黙ったままでした。突如、雷光と共に雷鳴が響き、ドゥルヴァーサ仙は叫びました。「どこにいると思うのだ? 彼らはここにいる!」 その口調は瞑想を邪魔された怒りと恨みに満ち、その顔は今にも呪いが喉まで出かかっていることを示していました。アシュワッターマはとてもその場に留まってはいられませんでした。アシュワッターマは、「彼らはここにいる」という言葉を、「おまえはここで何を探しているのだ? もし彼らがここにいたら、おまえはどうしようというのだ?」という意味だと思ったのです。外側を見るだけで真実を判断することはできません。

スダーマ〔クチェーラ〕も、同じような窮地に陥ったことがありました。ドワーラカへ行って幼少時代の親友であるクリシュナに家族を養うための物質的な援助をしてくれるよう懇願してくるようにと妻に言われた時、スダーマはそれが上手くいくか不安に思いました。なぜなら、スダーマは外側、つまり、王の砦、宮殿、護衛、道具一式に注意を向けていたからです。スダーマはそれらと自分の身なりや見てくれ、自分が持参するクリシュナへの供物のお粗末さを比べていたのです。神が見ているのは行為の裏にある動機の清らかさであり、華やかさや見映えではありません。

人間の最たる無知

真のバクティは、内側の意識こそが重要であり、外的な振る舞いは重要ではありません。自分を縛り付けている世俗的なしがらみによって、神への信愛が限定され、形作られてしまっていると訴える人たちがいます。彼らを縛り付けているのは、この世ではありません。彼らをこの世に縛り付けているのは、彼ら自身です!

人々は、猿を捕まえるのに、口の小さな瓶にピーナッツを入れて庭に置きます。近くでこっそりと待っていると、猿がやって来て、瓶の中に両手を入れて、つかめるだけピーナッツを握ります。それから、猿は、自分は手にたくさんのピーナッツを握っているので、瓶から手が抜けないということに気づきます。瓶の口が狭すぎて握りこぶしが通らないからです。こんなどうしようもない状況の中で、いとも簡単に猿を捕まえることができるのです。こうして猿は、罠を仕掛けた人たちに捕獲されます。ピーナッツを手離しさえすれば、猿は瓶という重荷から逃れて自由になれます。ピーナッツへの執着が猿に災難をもたらすことになるのです。

これと同じように、人間も五感の対象物に執着し、それらを手放す気がないために、自分がこの世にやって来た目的を忘れて、この世でがんじがらめになっているのです。これは無知の最たるものです。あなた方は、自分に割り当てられた時間を最大限に活用するよう努めなければいけません。

あなたは生まれる前には何だったのか、生まれた後、死んだ後には何になるのかを知ろうとすることはありません。陶器職人は、器を作るのに土を掘ります。そうすると、そこは穴になりますが、家の前には土が山積みになります。その土はろくろでの過程を経て、器になります。その器が割れてバラバラになると、それはまた土になります。器の寿命は短く、それゆえ、それはジーヴァ、すなわち個人を象徴しています。土は、ブラフマン、実体であり、それはすべての創造物の基盤をなしています。このことを知り、絶対実在の中に落ち着きなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C45