サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年1月14日
サンクラーンティ祭の御講話より

神へと向かう前進

ウッタラーヤナ プンニャカーラ〔北へと進行する吉祥の時〕、すなわち、マカラ サンクラーンティ〔インドの冬至〕は、ヴェーダが人々に祈るよう指示している次のことを主に祈る、聖なる機会です。

アサトー マー サッドガマヤ
(非真から真へと導き給え)

タマソー マー ジョーティルガマヤ
(暗闇から光明へと導き給え)

ムルッティヨールマー アムルタム ガマヤ
(死から不滅へと導き給え)

この日を、あなたのイシュタ デーヴァタ(選んだ神)、アーラーディヤ デーヴァタ(最も好きな主の御姿)に、心からこの祈りを捧げることに用いなさい。

私たちの国では、月(チャンドラすなわち月は心を司る神)や太陽(スーリヤすなわち太陽は知性を司る神)に関連する祝祭は、心(マインド)の制御と知性を研ぎ澄ますことの重要性を人々の心に植え付けるために祝われています。太陽が北へと向かう時、つまり、神へと向かう時には、知性も神に向かって前進しなければなりません。それがウッタラーヤナ〔北への進行/北行〕の意味です。

機械や、機械で作られたものに信仰が置かれ、制御された心の力や、研ぎ澄まされ浄化された知性の潜在力への信仰は弱まってしまいました。ヤントラ(機械)がマントラ(真言)を覆い隠しています。しかし、これは一時的な局面です。マントラだけが平安(シャーンティ)を保証することができます。

王様が正気を失い、自分は物乞いだ、自分は病気だ、自分は老いぼれたと思い込んで泣き出しました。さて、王様に自分は王だということをわからせるには、どうしたらよいでしょう? 王様の理性を元の状態に戻すこと、それしかありません。それと同じように、不滅で、至福に満ち、無敵である人間が、自分は限界のある小さな存在だと思い込んでいます。人間は自分を責め、自分を罪人と呼び、罪の下に生まれ、罪にふけり、救われたいとひざまずいて祈っています。もちろん、もし人間が自分は神だということがわかれば、罪や悪徳や弱さに身を投じることは決してないでしょう。

すべての行為を神聖な礼拝へと変える

人生という木は、マーヤー〔迷妄〕の枝と葉と花をつける迷妄の木です。あなたのすべての行為を神への捧げものとして行うとき、人生は迷妄の木だということに気づくことができます。神を、すべての細胞にみなぎる活力として見なさい。あらゆる場所を温め、築き上げる、太陽として見なさい。万物の中に神を見なさい。万物を通じて神を礼拝しなさい。なぜなら、神は万物であるからです。

行為をしなさい。ただし、行為を信愛で満たしなさい。信愛こそが行為を神聖なものにするのです。ただの紙切れであればほとんどゴミですが、そこに何かを証明する事柄が記載されていたら、あなたはその紙に価値を置いて大切にします。その紙は出世のためのパスポートとなります。重要なのはバァーヴァ(背後にある思い)であって、バーフヤ(外面の壮観)ではありません。聖地ティルパティやバドラーチャラムでは偶像の形をした石しか見かけません。ただの石にはほとんど価値はありません。しかし、石に思いが染みこんで、信愛が石を変容させると、石は人の心にとって最高の宝となります。人は、自分のあらゆる行為を聖なる礼拝へと変えるこの秘密を知らずにいます。そのために、人は失望と悲しみに悩まされているのです。

道(マールガ)の優劣についての多くの無駄な議論があります。特に、カルマの道、バクティの道、グニャーナの道の支持者たちの間において、それは顕著です。しかし、この3つの道、つまり、行為と礼拝と英知の道は、補い合うものであって相反するものではありません。行為は足、礼拝は手、英知は頭のようなものです。3つが協力して、人生を完成させなければなりません。

礼拝(ウパーサナ)、すなわち、バクティの道は、主の意志に全託する道(シャラナーガティの道)、つまり、個人の意志を普遍なるものの意志に融合させることに付けられた名前です。ラクシュマナは、救いをもたらすこの全託の精神の模範例です。森で追放生活を送っていたある時、ラーマはラクシュマナに、自分で場所を選んで、そこに草木で小屋をこしらえるようにと言いました。ラクシュマナはショックを受け、悲しみに打ちひしがれました。ラクシュマナはラーマに懇願しました。

「どうして私に場所を選べとおっしゃるのですか? 私にはまだ個別性が残っているのですか? 私に選ぶことができるのですか? 私が選択するのですか? 私には私自身の意志はないことをあなたはご存知ないのですか? あなたが決め、私は従い、あなたが命令し、私は命令を実行するのです」

これが、本物のシャラナーガティ(全託)、本物のバクティ(信愛)です。これは、常に無執着を実践することによって身につけることができます。

神の恩寵を得るために、すべての行為を神にふさわしいものにする

主は、たいそう恩寵に満ちあふれているので、全託するすべての者を喜んで導き、守護します。ラーヴァナとの戦いが終わったとき、主がその慈悲深い目で一目見るだけで、地面に倒れていた大勢の猿を回復させ、戦いで得た傷を癒すには十分でした。そこには猿の姿に変じてラーマの陣営に忍び込んでいたラークシャサ(羅刹/鬼)たちが何匹かいました。即刻、罰を受けさせるためにラーマの前に連れて来られたとき、ラーマは微笑んで彼らを赦しました。というのも、ラークシャサたちはラーマが愛しく思っている猿の姿をとっていたからです。ラーマは彼らを無傷で敵陣に送り返しました。ラーマの慈悲の大きさはそれほどのものでした。

こうした恩寵を得るためには、ダルマが染み込んでいる人にならなければなりません。ダルマが染みこんでいる人は、その人のすべての行為が神にふさわしいものとなります。鋭利な知性(ブッディ)という鑿(のみ)で、心(マナス/マインド)を完全なダルマの権化(ダルマムールティ)の姿へと形作りなさい。そうすれば、荒削りな人間の像である今のあなたは、神性の光輝で輝きだすでしょう。これが、今日、あなたが専心すべきことです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会、ウッタラーヤナ〔インドの冬至〕
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C1