サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年2月18日午後
場所:プラシャーンティ ニラヤム
マハーシヴァラートリ連続講話(2)より

サーローキャからサーユッジヤへ
――近接から融合へ

人への奉仕は主なる神への奉仕以上に必要とされています。実際には、人への奉仕は主なる神への奉仕と同じです。これは真のバクティの道です。神を喜ばせる方法として、神の子たちを喜ばせる以上のものがあり得るだろうか、というのがその理由です。「プルシャ スークタム」(プルシャ讃歌)は、プルシャすなわち神には千の頭と千の目と千の足があると述べています。これはつまり、万人は神であるということです。そして、千の頭があると述べられてはいますが、千の心臓があるとは述べられていません。心臓は一つだけです。同じ血液が、すべての頭、目、足、そして末端を巡っています。あなたが体の末端の手入れをするとき、あなたは自分自身の世話をしているのです。あなたが人に奉仕するとき、あなたは神に奉仕しているのです。

お祭りがあると、何千という人がプラシーャンティ・ニラヤムにやって来ます。だいたいどの家でも、客人や親戚は、滞在が短いということがわかっているときにだけ歓迎されます。しかし、ここでは、何度やって来ようとも、どれほど長く滞在しようとも、あなた方が得る喜びが減らされることなどありません。なぜなら、ここでの親類関係は現世的なものではなく、アートマ(真我)にかかわるものだからです。さらに、アートマの至福は減少も変化も知らないものです。

あなた方のゴールが主なる神への奉仕であるとき、その歩みの一歩一歩はどれも喜びの湧き出る泉です。その一分一秒でさえ貴重な機会です。あなた方は、ここで参加するバジャン(神への讃歌)やサンキールタン(ナガラサンキールタン/集団でバジャンを歌いながら通りを練り歩くこと)がバクタ(信愛者、帰依者)に求められるすべてである、と考えているかもしれません。そうではありません。バジャンやサンキールタンは、心(マインド、マナス)を浄化するための清めの行為にすぎません。それらは、あなた方を向上させる手助け、時間を有効に使う手助けをしてくれる行為です。それらは、肉体への無執着、物質的な喜びへの無執着を促進させます。そうした態度を身につけて放棄の喜びを味わうことを奨励されるからこそ、あなた方はここにいるとき幸せを感じるのです。

神との関係の段階

称賛と非難は、偉大で崇高なるものに対する反応の表と裏です。映画のスクリーンは、映画に映る火山の噴火の影響を受けることもなければ、山のような高波をうねらせて荒れ狂う海の影響を受けることもありません。スクリーンは、燃えもしなければ、濡れもしません。都市の地下には二種類の配管が通っています。一つは水道管で、もう一つは下水管です。人間の体には、良い血が流れる血管と、悪い血が流れる血管が流れています。食物を摂取したら、屑を排出して終えなければなりません。

主なる神との関係は、サーローキャ(近接)から、サーミーピャ(さらなる近接)へ、サーミーピャ(さらなる近接)からサールーピャ(主の御姿)へ、それから、サーユッジヤ(御姿との融合)へと発展していくと言われています。

サーローキャ(近接)については、自分は主なる神が王として統治している王国にいる、あるいは、自分は召し使いとして王の住む宮殿にいると考えれば、はっきりと理解することができるでしょう。(この段階において、)あなたは自分が神の養育(パリパーラナ)の下にあり、自分を支えてくれているのは神であるということに気づいています。

サーミーピャ(さらなる近接)の段階では、自分は主なる神に個人的に仕える者であり、神の側近として神の近くにいるという特権、そして、機会が生じた際には神に直接奉仕をするよう神から召集されるという特権を持っている、と感じます。知性において至高神の原理の近づき、感情において神の存在を常に感じている――これがサーミーピャ(さらなる近接)です。

それから、あなたがとても神と近くなり、神の身内になると、サールーピャ(主の御姿)の段階に到り、「王のローブ」をまといます。それは、兄弟であれば同じローブを着ることができるのと同じです。それゆえ、その帰依者は、主と同じ姿をし、自らに潜在している神性が完全に開花していることを物語る荘厳さ、栄光を有します。

最後に、あなたが王の息子で、法的な跡継ぎ、すなわち王子(クマーラ ラージャ)であるときには、最大限、王の御力の近くにいられます。それゆえ、あなたは、「私と父なる神は一つである」と言うことができるのです。これがサーユッジヤ(御姿との融合)であり、(神と)一つになるということです。

忠実な召し使い、側近、身内、跡継ぎ――これが、おおいなる魂(神)〔パラマートマ〕を悟るための、魂の旅の行程です。

断食の目的を知る

あなた方の多くが、特に女性に多いのですが、断食の行をしているのを私は知っています。(断食の行には、口に入れる食べ物を制限する食事制限から、何も口に入れない断食まで、程度の幅がある) しかし、その厳格さには限度があるにもかかわらず、人々はそれを尊重していません! 断食には意味がありますが、人々はそれを理解していません! そして、月曜日はシヴァ神の日だからといって断食をし、火曜日はラクシュミー女神に捧げる日だからといって断食をし、水曜日には他の神々のためにといって断食をし、木曜日には私(サイ・ババ)のために(!)といって断食をし、金曜日には再びラクシュミー女神のために断食をし、土曜日は土星(シャニ)の怒りを静めるために断食をし、日曜日は太陽のために断食をしています!

ラル・バハドゥル・シャーストリは善良で実直な男なので、月曜日の夜は食事をしないようにとあなた方を説きつけました。しかし、そうした誤った指導を受けた求道者たちは、度を過ぎた断食の誓いをすることで健康を害し、幸福を損なっています。

定期的な断食は、体が自己整備をするのを助けるために、そして、そのプロセスにおいておおいに必要な休養を与えるために定められているものです。そして、断食中は、決して空腹に意識を向けてはなりません! あなた方にはそれができていますか? 食べ物のことは一切考えることなく、神を想うことだけに集中していなければなりません。もし食べ物のことが頭に浮かんであなたを煩わせるなら、そして、空腹の苦痛があなたの邪魔をするなら、何か食べて、それからサーダナを始めたほうが遙かによいでしょう。

断食の誓いを指す「ウパヴァーサ」という言葉には、「神の近くに住む」という意味があります。(「ウパ」は「近くに」、「ヴァーサ」は「住む」の意) ですから、断食の誓いというものは、もっと神と親密になって生活できるように、食事を作ることや食べることといった煩わしさから人を解放するためのものなのです。断食の目的は、神を黙想して時を過ごすことであり、単純に食事を一食抜かしたり、一連の食事を絶ったりすることで肉体に罰を与えることではない、ということをよく覚えておきなさい。

自発的に自らに課した、あるいは不本意に課された、誓い、徹夜、断食といったあらゆる類の苦労の一切は、霊的な強さを増すためのものと見なされるべきであり、肉体的なスタミナを弱めるものと見なされるべきではありません。それらは苗木の根の回りを掘り起こして耕し、木を早く成長させてくれます。さらに、あちこちに伸びた枝を切り落として、きちんと剪定し、木を高くしてくれるのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C2