サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年3月17日
場所:ボンベイ(ムンバイ)のヴァッラバーイ パテール スタジアム
ヴァッラバーイ パテール スタジアムでの御講話より

ハートを鏡にしなさい

インドは、その自然が、目には美しさを、耳には快い調べを、そして、かぐわしく、穏やかな、すがすがしい清涼さを与えてくれる魅力的な土地です。インドは、ヴィヴェーカ(識別)とヴァイラーギャ(世俗的なものへの無執着)を実践する、人に元気を与えてくれる場所です。インドは、哲学と実践的な霊性という豊かな遺産、そして、純粋な名高い詩人たちによって不朽の名声を与えられた星の数ほどの卓越した聖者や先覚者たちを輩出しています。ところが、その古来の言語、その巨大で貴重な経験の宝庫は、ほんのわずかな者にしか知られておらず、無視と奨励不足により、それらさえも、瞬く間に消え去ろうとしています。

サムスクリタ〔サンスクリット語〕は、かつて、北はヒマラヤの隠者の庵から、南はカンニャークマーリーの苦行者まで、インド全域の学識のある男女たちをつなぐ言語でした。ところが、今では、母国の不信心な子供たちから、「死語」という不名誉な名称を与えられ、忘れ去られつつあります。

母なるインドは、胎内にいる時でさえ自分はブラフマン以外の何者でもないことを認識していたヴァーマデーヴを生み、子供のころから神の聖なる御名を唱え、耐えられないほどの拷問を受けている最中も「オーム ナモー ナラーヤナーヤ〔オーム、ナーラーヤナ神に帰命いたします〕という聖なるマントラを唱え続けたプラフラーダを生み、幼少期から感覚の世界には無執着だった、非の打ち所のない隠者のシュカデーヴを生み、最上の行者であり、ヴェーダとウパニシャッド、そして、サナーサナ ダルマの2つの基本的な聖典であるギーターとブラフマ スートラの解説者であり、バクティを復興させ、あらゆる偉大なヒンドゥー寺院を賞賛して歌ったシャンカラーチャーリヤを生み、跳ね回るライオンの子と戯れたバラタ王子を生み、両手で弓を射ることのできた偉大な弓の使い手であり、バガヴァッド ギーターの崇高な教えを神から授かった献身的な主の信者であったアルジュナを生み、サマルタ ラームダースの献身的な従者で、サナータナ ダルマ〔古来よりの永遠の法〕の君臨する王国を築き上げたシヴァージー王を生み、類まれなる無私の捨離の模範であるシビ王とカルナを生み、心を浄化して解放するためにダルマの最上の重要性を主張し、ダルマへの不忠実という恥ずべき行為に苦しむよりも燃え盛る炎の中に喜んで入っていった、シーター、サーヴィトリー、ドラウパディー、シャバリー、ミーラー、アーンダールといった多くの女性たちを生み、あらゆる災難を主の御足へと向かう前進において主なる神が与えてくれた慈愛として迎え入れた、チャンドラマティーとダマヤンティー王妃を生みました。

神に値する理想の人となりなさい

人間は、手や足、目や耳、頭や胴体の付いたただの生き物ではありません。人間は、それらの器官や部分を全部集めた以上のものです。それらは土から生じる粗雑な具象にすぎません。後に、人間は、知性、高次の衝動、純粋な意図と理想によって、すりつぶされ、こすられ、磨かれ、完全なものにされ、滑らかにされ、柔らかくされなければなりません。すると、人間は神に値する理想の人となるのです。それが人間の本当の運命です。もし人間が、自分のすべての行為と言葉と思考を主に捧げようと決心しさえすれば、衝動は清らかなものにされ、意図はより高いレベルへと高められるでしょう。そのためには、この宇宙を思いつき、保護し、消滅させる、一なる至高の全知者への信心が必要不可欠です。

次のステップは、苦しいときに自分の無力さや困窮を思うことです。そうすれば、その全知者にすべてを全託することが容易に達成されるでしょう。猿王スグリーヴァは、主の恩寵を求めてラーマのもとへやって来ましたが、ラーマの力と完全無欠に対する疑念にさいなまれました。しかし、ラーマはスグリーヴァへの大いなる愛を抱いていたので、テストに応じました。それは、7本の木を貫いて弓を射て、主の御足で悪漢の重たい屍を振り捨てて欲しいというものでした。一方、ヴィビーシャナは、ラーマが人間の姿をとった神であるとわかったので、守護を求めてまっすぐにラーマのもとへと走っていって、無条件にラーマの御足に全託しました。そのため、ラーマの周りの者たちは懸念を表しましたが、ラーマはほんのわずかな異議も唱えることなく、ヴィビーシャナは受け入れられました。

ハートを清めてピカピカの鏡にしなさい

ですから、信心と全託を養いなさい。そうすれば、あなたのすみずみまで恩寵が流れて、あなたのすべての行為に入り込んでいくでしょう。なぜなら、あなたの行為はもはやあなたの行為ではなく神の行為であり、あなたはもう行為の結果を懸念する必要はないからです。これからは、すべての行為と言葉と思考は、清らかで、愛に満たされた、平安に貢献するものとなるでしょう。まばゆく輝く主の無数の姿があなたのハートに映るよう、ハートをきれいにしなさい。

クリシュナに近づいて、目の前に自分のすべての傑作、すべての称号、メダルやトロフィーを並べた、ある有名な画家がいました。その画家はクリシュナの肖像画を描くことを申し出て、それは快く承諾されました。しかし、その絵を見た人たちは、絵の中でポーズをとって座っているクリシュナはどこか違っていると思いました。その画家は、ありがたくもさらに何度か肖像画を描く機会を与えられましたが、その度に絵はどこかがおかしかったのです。なぜなら、誰もが認める御姿は、ポーズをとっているクリシュナの姿ではなかったからです。芸術家のプライドは完全にへし折られ、その画家は恥ずかしさのあまり頭を垂れ、すっかり恥をかかされたその都を後にしました。都の郊外でその画家を見かけたナーラダ仙は、画家の窮状のわけを聞くと、こう言いました。「主は多くの御姿を持っている。実に、すべての姿は神の姿だ。だから、神に一つの姿を定めることはできないし、神を描こうとしても上手くいかない。私がそなたにどうしたらいいか助言しよう」そして、その画家を自分の脇に来させました。

翌日、画家は、額に入れた大きな「絵」を白い布で包み、それを王宮に持って行きました。クリシュナは画家に布を取るようにと言いました。画家が布を取りはらうと、そこにあったのは鏡でした。「主よ、あなたには無数の御姿がおありです。この絵の中では、すべての御姿が、明瞭に、瞬時に描かれます」と画家は言いました。あなたのハートを清めてきれいな鏡にしなさい。そうすれば、そこに主の栄光が映るでしょう。

感覚をなくすとマインドは消え去る

マインド(心)にへばりついている欲望は、人間の内側の意識を汚す染みです。五感を制御しなさい。しつこく満足を求める要求に屈してはいけません。積み薪の上に遺体が置かれ、火がつけられると、遺体も薪もいっしょに灰になります。それと同様に、五感を無視すると、マインドは消えてなくなります。マインドが消えてなくなると、迷妄は死に、解脱が遂げられます。

神への信心は、霊的な勝利のための最高の援軍です。あなたが主の光輝を黙想することを大いに楽しむとき、どんな物質的なものもあなたを引き付けることはできないでしょう。他のことはすべて下級に見えるでしょう。信心深い人や謙虚な仲間だけを好むようになるでしょう。ここ、マハーラーシュトラ州は、ずっと長い間、主の恩寵を歌い、自分のハートに主がいることを実感していた聖者たちの家であり続けました。その聖者たちが歌で伝えてきたバクティの洪水が、マハーラーシュトラと他の地域の何百万というからからに乾いたハートを豊かにしてくれました。聖者たちは、ジャパ(唱名)やタパス(苦行)やヨーガ サーダナ(ヨーガの修行)によって、多くの求道者たちがより速く、より親しく主に近づくことができるようにしてくれました。その親しさは、どんな失望も彼らの信心を揺るがすことはできないほどです。

カビール、ラームダース、トゥッカーラム、その他、大勢の人たちが、人類のために信愛という王道を築き上げました。霊的な卓越性が要求されるとき、マハーラーシュトラは、近くの競争相手であるサウラーシュトラと共に、自信を持ってインドの全州に霊的卓越性を創り出していくでしょう。信心深い先祖たちがあなた方の発展のために手渡してくれた遺産に従った行動をすることが、今のあなた方の義務です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C9