日付:1966年8月3日
場所:コッタチェルヴ村
プライマリー医療センター新棟開所式におけるババの御講話より
扇風機の羽を回すには、三枚の羽を電気で一枚の羽のように作動さなければなりません。それと同じように、生活を楽しいものにするためには、内閣と役人と国民の三者が奉仕の精神で行動し、国民を幸せにするために和合して楽しく働かなければなりません。三者は、お互いへの妬み、欲張り、嫌悪、敵意に邪魔されたり、乱されたりすべきではありません。三者は皆、愛と共感に動かされなければなりません。サハナ(忍耐力)は、それに必要とされる潤滑油です。
ハートの天空には理智(太陽)と心(月/マインド)が軌道を回っています。先に述べたような情念の数々がその栄光を曇らせても、それらは光源に影響を及ぼすことのできない過ぎゆく雲として退散します。あなたが理性を使って物事を考えれば考えるほど、現実はより明白になります。理性を使って考えることは、決して真理の発見の妨げにはなりません。理性があなたを連れていくことができるかぎり、あなたはそこに行きさえすればよいのです。そうすれば、その向こうに壮大な展望が広がっているのを見ることができるでしょう。
人間は、巨大で測り知れない才能や技能や力を、生まれながらに賦与されています。しかし、人間はそのすべてを、自分が生きている地球の取るに足りない衛星への旅に使い、神という、自分の内なる実在であり、このすべての現象界の内なる実在と面と向かうことのできる、自分の内なる王国の不思議の国に旅することに使っていません。
ある人が、自分は少年で、成長して結婚し、子供と孫を愛情をもって育てる、という夢を見ました。その50年の物語は、二つの「目が覚めている時間」の間に凝縮されました。これは、万人の経験のうちにあります。その夢は、夢の中では「本当」の経験でした。それは50年間「続いた」のです。しかし、「目が覚めている」視点から判断すれば、それは2分しか続いていませんでした。これと同じように、「完全に目覚めている者」であるグニャーニ〔叡智者〕の視点からすれば、目が覚めている状態も、はかない、実体のないものです。それゆえ、グニャーナ〔叡智〕はたいそう光り輝いている、と言われているのです。グニャーナは、このすべては「相対的に」現実であるにすぎない、という真理を明らかにしています。絶対的な実在は、ブラフマンです。
美徳だけが愛と哀れみの情を授けることができる
この真実は、ずいぶん前にこの国で発見され、公表されてきました。今、バーラタ〔インドの呼称/神を愛するものの意〕の人々がこの素晴らしい財産に気づいていないのは、とても残念なことです。人生という木は、美徳によって水を与えられ、信仰心に肥料を施されて、初めてアーナンダ〔至福〕という果実をならせることができます。食事と衣料と住居を支給することが平安と喜びを確実にするのではありません。平安と喜びは、美徳と信仰心を通してのみ、もたらされるのです。美徳だけが、愛と哀れみの情を授けることができます。人々は今、荷車(体)を馬(マインド/心)の前に停めて、荷車の安全と強度だけを設けています。馬(マインド/心)は、野放しにされているか、餓えさせられています。
家族同士でさえ、愛と思いやりがありません。カリユガ〔末世〕は、カラハユガ、すなわち、論争と戦争の時代になっています。敵がこの国を取り囲んでいる時でさえ、州同士が「この土地はうちのものだ」、「あの土地はおたくのものではありえない」などと主張して、どちらも一つの体の器官であることを忘れ、荒々しく嫌悪感をむき出しにしています。国々の運命も同様です。ハート同士の統合は、すべては一つであるという認識と、五感が追い求めるものを放棄することを通して起こります。辛抱強さが、まさに絶対に必要です。
体は小舟であり、あなたが数々の前世の功徳によって手に入れた、流転の海を渡るための道具にほかなりません。海を渡り切った時、あなたは住居の中の住人を認識します。それが体の目的です。ですから、体が強靭で、体に技能が身に付いていて、知性が鋭敏で、心(マインド)が注意を怠らない時でさえ、デーハ(体)の中のデーヒ(住人)を探し求めるための努力をしなければなりません。
この医療センター(一人の村人が建設費用の一部と土地を寄進して完成したもの)は、体を強靭に保ち、不自由を無くすのに役立ちます。小舟は安全に航海可能なものであるべきです。もし皆さんがこの医療センターを有効に使うなら、小舟をそのようにすることができます。だからこそ、すぐに私は今日ここに出席することに同意したのです。
サイババ述
翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 Ch21