サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年10月15日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
サティヤ サイ総合病院十周年記念祭
ダシャラー祭連続講話②より

最高の医者

肉体(デーハ)は、神々でさえ所有することを切望する乗り物です。皆さんは、神々が人間の姿をとってやって来ることを求めていることを知っていますね。そうすれば、知性、識別力、無執着といったものを活用することができるからです。また、皆さんは、ひとたびそれを知ったなら、他のことすべても知るようになる、という究極の実在を覚(さと)るために使うことができるのは、人間の体だけである、ということも知っていますね。

病院がかかわる肉体は、個人(ジーヴィ)すなわち肉体に宿る者(デーヒ)である主人の戦車(ラタ)です。肉体は、人がそこから執着やエゴの敵と戦うことができる城です。肉体は、それによって人が変化と運命の海を渡ることができる小船です。

霊 性 修 行(アディヤートミク サーダナ)を通して実在を覚ることは、火と勝負したり、虎と闘ったり、野蛮人の集団と戦ったりするような、災難に満ちた、困難な冒険です。人は、あらゆる非常事態に立ち向かうことができるよう、警戒し、油断せず、完璧に訓練されていなければなりません。不可能と思われる要求を前にすると、多くの人々はおじけづいてしまいます。ウパニシャッドは、求道者の道をカミソリの刃に喩(たと)えています。

人間は、すべての動物の君主です。人間として生まれることは、すべての生き物のうちで最も光栄な機会です。象は人間よりも長生きし、ライオンは人間よりも獰猛(どうもう)で、鷲(わし)は人間よりも遠くを見ることができ、鶏は人間よりも規則正しく早起きし、牛は人間よりも犠牲の精神にあふれていますが、人間は、しかるべき教養によって引き出すことのできる大きな可能性を、他の動物たちよりも持っています。人間は、神への渇望を強めさえすれば、延々と不満に陥ったまま土地や建物、銀行口座の残高、家具、地位、権力、権威、その他あらゆる取るに足らない満足を切望することもなく、ずっと満足して生きることができます。

人はこの世を去らざるをえないものであり、「あなたが逝ってしまったら、私たちはどうなるの?」と、今わの際に、やかましく悲しむ妻子に取り囲まれますが、死にゆく哀れな男は、もっと緊急で、もっと個人的な問題である、「私はどうなるのか?」という問いに直面します。しかし、もう、その答えを見つける時間も、何かよいことが起こるよう準備を整える時間もありません。

人は泣きながら生まれてくるが、笑みを浮かべて死ぬべきである

実際、男は、うめき声を上げ、泣き言を並べる代わりに、やろうとすれば、実在を知り、笑みを浮かべながら逝くこともできたはずです。人間は、無力な悲しい泣き声を上げて生まれてきますが、死ぬときは幸せな喜びの微笑を浮かべて死んでいくべきです。生まれてから死ぬまでの月日は、その目的のためにあるのです。しかし、今、その月日が無駄になっています。ストレスと嵐から人間を救ってくれる錨(いかり)である神が、軽視され、無視されています。人間は、一つの欲望からまた別の欲望、一つの悲嘆から別の悲嘆へと飛び回り、絶望感で盲目になって、追い求めることに疲労困憊(こんぱい)するまで、それを続けています。ほとんどの病気は、こうした絶望感と疲労感から来ています。

肉体(デーハ)は、人間が真に肉体に宿っている者(デーヒ)に到達することができるよう、育成されなければなりません。肉体が養われるべきものであるのは、肉体は善行をするための道具であるからだと、ビーシュマは矢の床から教えました。

ある池に三匹の魚が棲(す)んでいました。一匹の魚が、他の二匹に、「水が干上がって減ってきたので、手遅れにならないうちに、ここを去ったほうがいい」と助言しました。しかし、他の二匹のうちの一匹の魚は、「非常事態が起きても自分は生き延びられる」と言いました。一匹目の魚は早いうちに他の場所に移り、二匹目の魚は何とか網を突き破りましたが、三匹目の魚は漁師に捕まってしまいました。死神(ヤマ)は漁師です。人間の短い一生という池の水が干上がっていくプロセスに早く気づかなければ、人間は捕らえられてしまいます。干上がることのない恩寵の海へと移り住みなさい。あるいは、死という網を突き破ることができる技巧を学びなさい。神に向かうことは浄 性(サットワ グナ)(善性)であり、激 性(ラジョー グナ)(積極的行動の資質)は網を破ることができます。鈍 性(タモー グナ)(怠惰な性質)は捕らえられてしまいます。浄 性(サットワ グナ)の段階へと成長して、自分自身を救いなさい。怠惰を捨て、狂信を非難し、自分は主に自らを捧げている召し使いであると宣言しなさい。そうすれば、恩寵があなたの上に降り注がれるでしょう。

愛と喜びをもって主の御名を唱えなさい

ナーマスマラナ〔唱名〕は、それによって、そうした献身の姿勢が育てられ、確証されるプロセスです。災難に遭ったときには、ナーマスマラナという霊性修行(サーダナ)への信心を失くして怠けるのではなく、よりしっかりとこの霊性修行(サーダナ)に専心しなければなりません。薬が最も必要なときに、薬を手放してはなりません。哀れなのは、あなた方は初めて失望に直面すると、勇気と信頼を失って、ラーマ、クリシュナ、あるいは、サイ ババ〔という御名〕を手放してしまうことです。

ナーマスマラナにはもう一つのポイントがあります。何かが起こってうんざりしているとき、あるいは、期待とは程遠いことや、嬉(うれ)しくないような驚くべきことが起こる気配に不快になったり落ち込んだりしたとき、出し抜けに、「ラーマ」だとか、「サイ ラーマ」だとか、「マハーデーヴァ」などと言う人がいます。彼らはそれを、ため息をつきながら、あるいは呻(うめ)きと共に口にします。これは間違っています。主の御名は、いつも、喜び、感謝、歓喜、そして、その御名の無類さと壮麗さの自覚と共に、口に出されなければなりません。愛と共に御名を口にしなさい。真摯な切望と共に御名を口にしなさい。

ある偉大な聖者が、ヤグニャを執り行なっていた最中に蛇に噛(か)まれてしまいました。弟子たちは、その出来事を悲しみ、その悪賢い爬虫類(はちゅうるい)を呪いました。しかし、聖者は弟子たちを諌(いさ)めて言いました。

「呪ってはならない。蛇は神の使いなのだ。すべての生き物は親類知己である。その蛇は、神が私をこの肉体から解放するために遣わしたのだ。その蛇を敬い、歓迎しなさい。主の遣いを打ってはならない。」

死は悲しむべき出来事ではありません。死は旅の終わりであり、車の所有者は時間が来たら車から降りて目的地に到着します。死は完結であり、幸福な結末です。あるいは、もし万人が死をそうしたものとして扱い、そのために備えるほど賢明であれば、死は当然そのとおりのものとなるでしょう。

強い意志は最強の薬

仏陀の父は、息子にこの世と感覚の悦(よろこ)びを好きにならせようと、周囲に塀を築き、愉快と快楽の庭をこしらえました。しかし、仏陀は、人間の悲しみの隠された意味を見出し、悲しみを癒す方法を講じるために、無執着の環境へと逃れました。今の人々は、この世と、この世の偽りの喜びにしがみつきながら、神を覚ろうとしています。これは、息子の嫁をたいそう嫌っている姑が、こんな嫁は未亡人になってしまえばいいと思う一方で、息子のことはとても愛していたので、息子には長生きしてほしいと思っているようなものです。息子が生きていたら、どうやってその嫁が未亡人になることなどできるでしょう? この二つの願いは矛盾しています。偽りのものへの執心を介して神を手に入れることはできません。

正しい価値観を持たなければなりません。妻がすりこぎで夫を叩(たた)きました。すりこぎは壊れ、妻はそのことを嘆き悲しみました。夫も頭に怪我をしましたが、妻はそのことは少しも心配しませんでした。これは賢明さを表すものでしょうか? これは価値を認識していると言えるでしょうか? 肉体は貸家としてあなたに与えられた家です。その所有者は神です。神に感謝し、神に信仰心と信愛(バクティ)という家賃を支払いながら、神がそう意志している間はそこで生活しなさい。

強い意志は最強の薬です。自分は不死なるものの子であると知ったとき、あるいは、自分は主の恩寵を得た人間だと知ったとき、意志は強くなります。医術や入院は、この医者〔神〕は他の医者よりも有能であり、この薬〔御名〕は他の薬より強力であるということに対して、疑いを持ったり、躊躇(ちゅうちょ)したり、異議を唱えたりする人たちのためのものです。この最高の医者に頼る人たちにとっては、その御名だけで十分な薬となるのです。

パーンダヴァ兄弟には信仰心と信愛がありました。だからこそ、恩寵を得て、敵の悪賢い戦略を打ち破ることに成功したのです。主が与える補強材は、あなたを支えるのに最も頼りになるものです。あなたがそれらを手に入れたとき、不名誉や敗北や絶望は、太陽を前にした霧のように消え去ります。病気でさえ、あなたに近づいてこなくなります。今日という、この病院の創立記念日が祝われている日に、私はあなた方に、霊的な切望を強め、神の恩寵を祈願することによって、病気を逃れ、薬と病院を逃れるようアドバイスします。

至福は鬱病の最高の治療薬である

今日の行事の主宰者であるニューヨークのマクレー女史は、祝辞の中で自分が米国で運営している精神病院での、音楽の治癒力の価値に関する体験を話しました。香港の障害者の病院でも、彼女は同様の治療処置を試みています。鬱病(うつびょう)の最高の治療薬は至福(アーナンダ)(霊的歓喜)です。実のところ、人間が憂鬱になるのは、内なる至福の泉が無視されているときなのです。音楽は心(マインド)に良い影響を与えるということ、音楽には心の平穏と均衡を取り戻す力、動揺や不安の波を静める力があるということを、インドは認めています。音楽は道具であり、それによって激情は昇華され、感情は穏やかになり、衝動はより高い目的へと向けられます。私たちは自分たちの文化の中で音楽に割り当てられている大きな役割を忘れています。

人々は、映画の軽快な曲や歌を称賛し、古典音楽の奥深さを見落としています。人々は、インド文化と、その保護や振興について、声高に長々と話をしますが、それを実践するということになると、無残に失敗してしまいます。この肉体が九歳になったとき、私は、現代人の根本的な特徴である、言行不一致に関する戯曲を書きました。ヴェーダが無視されると、結果として、ヴェーダナ(苦痛)がもたらされます。ウパニシャッドとギーターの教えは、人間のあらゆる行動に均衡という正しい感覚を与えるものであり、心身の健康を保持するのに計り知れないほど貴重なものです。それらは、無尽蔵の至福の世界へと続く平安の道へと、人を向かわせてくれます。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.5 C29