サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年10月17日
ダシャラー祭連続講話③より

残高ゼロを達成しなさい

ここでのダシャラー祭のプログラムには、さまざまなものがあります。たとえば、ヴェーダの吟唱(ヴェーダパーラーヤナ)、神の御姿への供養礼拝(プージャー)、貧しい人たちへの食事の提供、劇、音楽、ハリカタ〔神話の講談〕、プラーナ(道徳的な古代神話の叙事詩)の朗読、シャーストラ(経典)についての講義、等々を皆さんは目にすることでしょう。表面的には明白でないかもしれませんが、これらはすべて、種々の目的を持って企画されています。皆さんは、これらはどれも習慣や伝統として行っているだけだという印象を持つかもしれません。しかし、そうではありません。それぞれが深い重要性を持っているのです。どれも、何らかの階層に明確な有益さをもたらすように意図されているのです。

ヴェーダは全人類のためのものです。ヴェーダには平和のための祈りがあり、五元素の怒りと人間社会の怒りを鎮めます。ヴェーダは自然の力を呼び覚まし、落ち着いた、恵み深いものにさせます。ですから、ヴェーダの吟唱(パーラーヤナ)は、世界の平和と人類の幸福を助長するのです。

主の御名が唱えられると喜びを感じる人たちのためには、神の荘厳さの一面が喚起される各御名を唱える供養礼拝(プージャー)を行います。霊性修行(サーダナ)の道を切望している人たちのためには、学僧(パンディト)が講話を行います。シャーストラやプラーナの教えが、音楽的な朗誦(ろうしょう)や講話を通じて楽しく心地よい方法で伝えられます。劇は私たちの経典に載っている必要不可欠な教訓を目に見える形で表します。これらはすべて、人間のハートの花びらを開きます。

人間のハートの中にある蓮の花は、太陽である主の荘厳さに恋い焦がれます。けれども、それを達成するのは難しいことです。あらゆる世俗的なものへの愛着を手放すことでしか、それを勝ち取ることはできません。神は最も近く、最愛なる存在ですが、無知が神を隠してあなたの目から見えなくしているのです。

神が人間に抱いている愛は無類のものです。それでも、人間には、神は、遠く離れた、畏敬の念を起こさせる、近寄りがたい特異なもののように見えます。星が光の点のように見えるのは、星が私たちからとても離れているからです。それと同じように、多くの人にとって、神が重要でないものや無力なもののように見えるのは、人々が神からあまりにも遠くに身を置いているからです。もし誰かが「神はいない」と言ったなら、それは単にその人が神に気づくにはあまりにも神から離れすぎているということです。

あなたを引きずり下ろす欲望から自由になりなさい

緑のヘチマは水に沈みますが、乾燥させたヘチマは水に浮きます。あなたも、ドライになって、執着と欲望を取り除き、不安になったり心配したりするのをやめなさい。そうすれば、変化と運命という水の影響を受けずに浮かんでいることができます。水でさえ、蒸気になれば空に上昇することができます。軽くなって、重さをなくして、水を汲(く)み出しなさい。そうすれば、もっともっと高く上昇することができます。ヨーガは、「チッタ ヴリッティ ニローダハ」――人間の内なる意識を揺り動かす衝動を防止する手段である――と定義されています。そうした衝動はバラスト〔高度調節のために気球などに積む重荷〕を増やします。あなたを引きずり下ろそうとする欲望をなくしなさい。真理(サティヤ)とだけ向かい合うことを切望しなさい。真理は、あなたの内側で輝いていて、あなたに見つけられるのを待っています。膝の深さの水に立っていながら喉の渇きに苦しんでいるドービー(川で働く洗濯屋)のように、人間は簡単に手に取ることができるあらゆる問題の解決策がありながら苦しんでいるのです。

神は内に住まう者(アンタラヤーミ)です。ですから、神を外の世界に探すなら、神をつかまえることはできません。他のことは何も考えずに神を愛しなさい。神がいなければ何にも何の価値もないと感じなさい。神がすべてだと感じなさい。そうすれば、あなたは神のものとなり、神はあなたのものとなります。神より近い親族はいません。五十人の人が、お腹をすかせて、期待して台所をのぞいていても、もしあなたがその家の主人の子供なら、あなたに最初に食事が出されるのです。

御名(ナーマ)は、その愛の火花に火を点(つ)けることができます。いくらか時間をかけて二本の木の枝を強くこすり合わせると、火が点くのに十分な熱が生じます。それと同じように、御名を、早く、強くこすり合わせると、心(マインド)にグニャーナ(霊性の英知)の火花が点火します。「グニャーナーグニダグダ カルマーナム」――英知の炎はすべての行為の応報を灰にする――とギーターは述べています。それはもはや人間に何も影響をもたらしません。灰になってしまったロープのように、それはもはや縛ることはできないのです。カルマ(行為)の因果が根強く残っている限り、人間は生まれ変わってカルマの報いを消費しなければならない運命にあります。なぜなら、カルマの帳簿は、生と死の収支計算が残高ゼロで終わることができるよう、きれいにされなければならないからです。欲望は、すべての行いの背後で駆り立てられます。すべての行為の背後で行為をけしかけているのは、欲望です。衝動を駆り立てるものは、欲望です。すべての欲望を果たした人には、行為は生じません。なぜなら、その人は欲望のないアートマの中で休んでいるからです。

カルマの応報の残高をぬぐい去りなさい

カルマの応報の残高が残っていると、何年かの間、肉体の中に投獄されてしまいます。シャーストラは、四つの段階によって残高をぬぐい去らなければならないと、助言しています。それは、火から生じるすべての火花を消すこと、熱の表出と熱の兆候と熱の原因を取り除くこと、債務の残高を完済すること、そして、カルマの応報の一切をすっかり経験してしまうことです。一つの火花がもう一つの火を生じさせるかもしれません。一個のウィルスが素早く増殖して病気が再発するかもしれません。少しの負債が高い利息によってすぐに跳ね上がってしまうかもしれません。けれども、一つのカルマは、それがどれだけ古い行為であっても、果報を求める気持ちを持って為されたならば、その果報を得るために生まれ変わってくることが必然として伴われてしまうのです。

最初の段階は、カルマ ジグニャーサー、すなわち、正しい精神的態度、正しい方向に沿って行為を実行することです。次は、ダルマ ジグニャーサー、すなわち、社会の維持と自分の責務と義務の遂行のための道徳律を守ることです。最後は、ブラフマ ジグニャーサー、すなわち、第一のサーダナとしてのナーマスマラナ〔唱名〕の真価を知ることに終わります。

御名は砂糖です。あなたは砂糖人形をどんな形にでも作ることができますし、猫、うさぎ、鷲あるいは象など、その形にふさわしいどんな名前でも呼ぶことができますが、甘さとカロリー的な価値はどの砂糖人形も同じです。それと同じように、ナーマスマラナというサーダナに従事するときには、「オーム シャクティ」、「オーム ナーラーヤナ」、「オーム シュリーニヴァーサ」、「オーム パラマートマ」、「オーム サイ ラーマ」など、唱える御名は自分で選択することができますが、御名の癒しの価値、浄化の価値は、どれも同じであり、舌の上での甘さもどれも同じです。

神へと向かう旅を始め、軽快に旅をしなさい

ナーマスマラナはあなたを神を想うことに専心させるでしょう。今のあなたは、ムリダンガという太鼓の中に捕らえられた、ネズミのようです。太鼓の右面を叩(たた)けばネズミは左側に走り、左面を叩くとネズミは怖がって右側へ走ります。それと同じように、あなたはパラマートマからプラクリティ(物質世界)へと走り、神への専心に乗り気ではありませんが、それと同時に、世俗的な行いを否定したり失望したりすることから退いているのです。

あなたは神から来ました。あなたは神の栄光の火花です。あなたは至福の海の波の一つです。あなたは、再び神に帰融する時、初めて平安を手に入れるでしょう。道に迷った子供のように、あなたは母と再会した時、初めて喜びを得ることができるのです。海の滴は、蒸発して上昇し、雲と呼ばれる集合体と一つになって地上に降り、谷に沿って流れ、最終的に海へと辿(たど)り着きます。それと同じように、あなたが見失ってしまった海へ辿り着きなさい。その旅を始め、早く、軽快に旅をしなさい。

マクレー夫人は、あまりにも信愛に満ちているがゆえに、私と関係のあるどんな場所でも、言葉では言い表せないほど神聖なものと見なします。そのため、マクレー夫人は、先日、村へ行き、このサイが再び肉体を持って現れた家の敷地から大小の石を拾ってきました。そこにあった石はどれも、マクレー夫人には魅力的で貴重なものに見えました。そのため、彼女はバケツ一杯の石を自分の部屋に持ってきたのです。テヘラン、ローマ経由ニューヨーク行きの飛行機に乗るには、それはあまりにも重い荷物になるということに、マクレー夫人は気がつきませんでした。多くを積み込んではなりません。なぜなら、いつの日か、あなたはそれらを捨てなければならないからです。信愛を心に抱き、気持ちと態度と献身を養いなさい。それで十分です。

人間の運命を形作る上でのカルマの重要性。人間は、生まれて来なくなる段階を目指す進歩の過程で何度も生まれ変わってきているという事実。人間を救うため、そして、人間を通して世界を救うために、神聖な親交において自らの周りに人々を集めようと、人間の中に人間としてやって来た神の巨大な恩寵。――これらが、とても強く、はっきりと明言されているのは、サナータナ ダルマ(永遠の道徳律)においてのみです。

もしこれらの偉大な真実を少しでも疑うなら、あなたは確実に苦しみ、悲嘆に暮れるでしょう。あなた方の誰もが、すべてに慈悲深い神の恩寵により、遅かれ早かれ救われなければなりません。遅くなるよりは、早くそうなるようにさせなさい。いつも目的地をはっきりと見据えて、歩き続けなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C30