サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年10月19日
ダシャラー祭連続講話⑤より

プールナ引くプールナはプールナ

すべての存在は愛(プレーマ)を必要とし、愛(プレーマ)を吸い、愛(プレーマ)を吐いています。なぜなら、愛(プレーマ)は根源的な呼吸であり、誰もが愛(プレーマ)の化身だからです。愛は恐れを知らず、そのため、愛を支えるために偽りは必要としません。恐れこそが、人々に真実の顔を覆い隠させ、それを真実を恐れる人にとって心地良いものにさせてしまうのです。

さらに、愛(プレーマ)は見返りを求めません。愛そのものが愛の報酬です。愛し愛される喜びこそが、唯一得るものです。愛が神に向けられると、それはバクティと呼ばれます。ひとたび、神の栄光、荘厳さ、力、慈悲に気づいた時、神を愛さずにいられる人が誰かいるでしょうか? 愛はエゴをすべて取り除き、自我は忘れられ、座を奪われ、超越されます。ヴィシャヤ ヴァーサナと呼ばれる、利益を求める貪欲がほんのわずかでもあると、愛(プレーマ)は店頭のバーゲン品にまで格下げされてしまいます。何であれ、愛されている唯一者が行うこと、与えるものは、愛する者、礼拝する者を満足させることになります。

子供は愛そのものです。子供の笑顔は最も罪がありません。子供は得るために働くことを身につけていません。子供には、ヴァーサナ、すなわち世の中の品々への執着がありません。子供は、しばらく人形と遊んでいたかと思うと、次の瞬間には人形を投げ捨ててしまいます。愛で一杯の子供のハートは、年齢と共に硬化していきます。なぜなら、貪欲が嫌悪と嫉妬を生み出すからです。

愛(プレーマ)だけが、奉仕と向上のための計画を成功裡に実行できます。愛は共感を創り出します。愛は嫌悪を打ち破ることのできる道を示します。よちよち歩きの幼子が歩くことを学んでいるとき、愛がその道に障害物を置くことはなく、反対に励まして、前に進む一歩一歩を歓迎し、転ぶたびに目こぼしをします。今、大臣が詳しく述べたように、村人たちの向上のための計画は、愛と共感を持って実行されなければなりません。この国の多くの有益な行動は、厳しい批判や不当な非難のせいで不毛となっています。バクティだけが、人々のハートをサティヤ〔真実/真理〕とダルマに変容させることができます。

霊的な献立の品々を知りなさい

人生の浮き沈みを自然のものと受け取りなさい。混合物であり構成要素である世界には、浮き沈みは付き物です。ラーマクリシュナ スワミという名のサンニャースィン(出家行者)が、目の前に駆け込んできた弟子から、息子が死んだと知らされた時のことです。そのスワミはじっと動かずに座ったまま、「水は流れ、火は燃え、風は吹く」とだけ言いました。その意味は、五元素の混合物は、いつの日か崩れ去るという意味です。そのスワミは他の者たちを気遣って一笑に付しました。彼がそれほど勇ましかったのは、すべて知っていたからです。知っている人がグル〔導師〕と呼ばれます。「グル」には、「重い」、「重みがある」という意味があります。グルは嵐にも動揺しません。食事が載っていない葉は風が吹くと舞い上がって飛んでいってしまいますが、食べ物が載せられて重くなると葉は動かなくなります。徳、信心、堅実な修行、信愛、無執着、平等観――これらが霊的な献立の品々です。 本当の英知を手に入れた時、あなたは、幸運が満足げに笑みを浮かべているわけでも、不運が嘆き悲しんでいるわけでもないことがわかるでしょう。英雄はどちらも同じように無関心に扱います。幸運と不運は風や嵐にすぎず、人間のハートの中にある至福の海の深さに影響を及ぼすことはできません。

大臣は、ヘビウリを長くまっすぐに育てるためにヘビウリの先に重りを付けた植木屋の話をしました。ヘビウリがまだかなり若いときに重りを付ければ、重りがヘビウリを引っ張って、ヘビウリが丸まってしまうことを防げます。子供たちも、親、教師、それから、子供が左右される仲間によって、まっすぐに成長するよう訓練されなければなりません。昔は、子供は朝四時に眠りから起こされていました。母親は自分が家の中を動きはじめる夜明けまでの間、素晴らしい賛歌や詩を歌い、それによって子供は自動的に母親から祈りを学んでいました。今の子供は、プラーナ〔叙事詩や神話〕のヒーローやヒロイン、ラーマやクリシュナや他の神の化身たちを、映画を通してしか知らされていません。子供たちは、それらの役を演じた役者の名前で英雄たちを認識しています。子供たちは、叙事詩や神話の崇高さと甘美さを見落としています。それは、近代化され、手を入れられた、間違った叙事詩や神話に依存しているからです。

神の栄光は言葉では表現できない

親たちは、偉人の面前へ行きなさい、まがい物でない師の講話を聞きなさい、サーダナと学びの香りがする空気の漂う聖地を訪れなさいと、子供たちに勧めることをしていません。アルジュナがダナンジャヤ〔富を勝ち取った者〕と呼ばれていたのは、さまざまな出所から首尾よく多くの富を得たからではなく、ヴィヴェーカ(英知)、ヴァイラーギャ(無執着)、ヴィチャクシャナ(識別)に富んでいたからです。これらこそ、人が手に入れて積み上げなければならない富です。

息子が教育を修了して家に戻った時、息子が就学期間を有効に使ったかどうかを知りたいと、さまざまな質問をした父親がいました。息子の答えは父親を大いに喜ばせました。最後に、父親は息子に、神の栄光について述べるようにと言いました。息子はずっと黙ったまま答えませんでした。何時間優しく説得されても、厳罰を脅されても、息子は断固として口を開こうとはしませんでした。父親は、多くの科目に秀でてはいても無神論者に転じてしまった息子を持った、自らの運命を嘆きました。父親が自らに不意に襲い掛かった惨事に泣き崩れそうになったちょうどその時、息子はその場に最もふさわしい方法で質問に答えました。それは不言でした。神の栄光を言葉で言い表すことなどどうしてできるでしょう? その息子は注目に値する息子だったのです。同様に、その父親も、その質問と、息子の沈黙に対する反応によって、注目に値する父親であることがわかりました。

神はすべての存在の父であると感じなさい

大臣はあなた方がここで保っている規律を評価しましたが、私は満足していません。ここで保たれている沈黙は、あなた方がどこに行っても継続されなければなりません。それは、外部の世界に起因する感覚を制御する実習として捉えられなければなりません。口は悪いことを話すべきではありません。目は悪いものを見るべきではありません。耳は悪いことを求めるべきではありません。すべてのものの中に存在する神は、すべてのものを神聖にします。人を低く考えることは、神を低く考えるのと同じです。あなた方が人を「兄弟姉妹(ソーダラ ソーダリマヌラーラ)」と呼ぶ慣行に従う時、神は父であり自分たちは皆兄弟姉妹である、という気持ちをお互いに育てなければなりません。この兄弟は、血のつながった兄弟よりも本当であり、結びつきが強いのです。なぜなら、あなた方が求めて争う父親からの相続財産は、ここでは分け前が減じられることなく分けることができるからです。プールナ(完全なるもの)からプールナを引いても、プールナが残るのです。

(イーシャーヴァースヤ ウパニシャッドは、「プールナッスヤ プールナマーダーヤ プールナメーヴァーヴァシシャテー」――完全なるもの(ブラフマン)から完全なるもの(全世界)が生まれる。これ(全世界)があれから生じても、あれ(ブラフマン)は完全なままである――と述べている)。

大臣は、インドのあらゆる州から、そして海外からさえやって来る、何万という信心深い人へのサービスについて、大臣として懸念していると述べました。そのため大臣は、そうした多数の巡礼者の到着と滞在の結果生じる特別な諸問題を解決できるよう、このプラシャーンティ ニラヤムを町に制定するという提案を受け入れようとしています。私はどこか一つの場所や村や人々を遠ざけることを望んではない、と言っておかなければなりません。私は七つの海を越えて国々を育て指導することに関心を持っているので、近くや近隣の場所と提携すること、その場所を育てることに関心があるのです。これは私のもので、あれは私のものではない、といった排除の姿勢は、決して私の中に生じることはできません。

大臣はまた、プラシャーンティ ニラヤムへの道路を改善する決定をしたと声明しました。私は便を良くすることにはあまり熱心ではありません。なぜなら、あなた方が訪問の手段を改善して、容易に早く来られるようにすると、本当に熱心な追及者たちは、ただ単に好奇心や新しいタイプの週末を過ごしてみたいという人々に圧倒されてしまうでしょう。シュリーニヴァーサ神のダルシャンを得るためには七つの山を上らなければならなかった時、巡礼者たちは神への信心を募らせました。巡礼者たちは、「ゴーヴィンダ、ゴーヴィンダ」と御名を呼び、そうすることで、神の恩寵により力とスタミナを授けてもらえるようにしたのです。今では車やバスが数分で山を登り、山々に神の御名がこだますることはありません。その程度の身体的な忍耐の修行では、巡礼者がハートを主に捧げるために神社の前に立つまでに心(マインド)が浄化されることはありません。

しかし、私は道をふさぐようなことはしません。この場所の雰囲気を補って完全にするような設備だけを提供しなさい。これが私の提案です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C32