サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年10月22日
ダシャラー祭連続講話⑦より

列車の個室で暮らすということ

今、奇妙な宗教が現れて人々に影響を与えています。その宗教は現代的傾向(モダニズム)と名付けることができます。それは、ナヴァニータ〔新鮮なバター〕に喩(たと)えられる新しい風潮を追いかけること、つまり、もう古くなってしまったという理由で古いものをやめ、新しいからという理由で新しいものに夢中になることです。それは軽いものを喜び、その一方で、理解するのが難しい考え、身につけるのが難しい態度、重いと感じる義務、面倒だと思う責務を放棄します。どんちゃん騒ぎ、虚栄心、興奮――これらはその特徴です。それには何の拘束も、制限も、制約も、限界もありません。それは、年齢にも、学識にも、善良さにも、権威にも、屈することはありません。それは、儀式、祭礼、断食、誓願、礼拝、その他一切に関する古代の経典の指示を、ことごとく捨てています。それは、節制や自制を実践している人たちや、伝統や昔からの習慣を守ることを強く主張している老人たちを、笑いものにしています。

彼らは、聖地巡礼にケチをつけます。なぜなら、彼らの見解では、神聖な場所も崇敬される場所もないからです。彼らには、求道者たちが神仏の像を礼拝することから得られる喜びや悟りが理解できません。彼らは、そんなものは迷信だとか、でたらめだといって片付けます。

この風潮は、いわゆる知識階級と言われる、教育を身につけた人たちさえも虜(とりこ)にしています。彼らは西洋の服を着て、頭(マインド)は西洋のものに洗脳されています。彼らは、自分の信じるものの良し悪しを測るのに十分な教育を受けていません。彼らは、永続する満足感を与えてくれるものと、けばけばしくて軽くて薄っぺらなものを区別する訓練をしていないのです。彼らの根はむしりとられ、人工の肥料に依存しています。そのため、彼らはこのナヴァニータという病にかかりやすくなっているのです。

宝を持っているのに、なぜ施しを請うのか?

この伝染病と戦うために、プラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバ(ヴェーダを復興するための学者の会)は設立されました。この会の学僧(パンディト)たちは、人間というものは五重の箱に入った宝石であるということ、つまり、食物(アンナマヤ)鞘・生気(プラーナマヤ)鞘・心理(マノーマヤ)鞘・理智(ヴィグニャーナマヤ)鞘・歓喜(アーナンダマヤ)鞘と名付けられた五つの鞘(コーシャ)の奥に保存されている宝であるということを、明らかにするでしょう。

学僧(パンディト)たちはこう問うでしょう。

「一袋の石炭を手に入れるために、なぜあなたはその宝石を売るのか? 値段も付けられないほどの宝を自分で保管しているというのに、なぜあなたは自分を卑下して、施しを請い、媚(こ)びへつらうのか?」と。

人間が、自分を卑下し、獣という、自分が以前そのレベルにいてそこから這い上がってきた存在よりも悪く振る舞うとき、神が化身して現れて、人々の間を歩き、警告し、訓戒し、啓示し、励まし、啓蒙し、光明を投じ、人間を自らの運命へと導きます。

神の化身(アヴァター)は、アルジュナには御者として仕えました。なぜなら、神の化身(アヴァター)は、人間を向上させるあらゆる機会を活用して、人間に、衝動と本能、さらには知性をも制することを教えるからです。クリシュナはアルジュナに、

「私は、君とカウラヴァ一族との戦いを進めるにあたり、大きな役に就くことに決めた」と言いました。

それと同じように、私も大きな任務を決めており、このプラシャーンティ ヴィッドワン マハーサバの学僧(パンディト)たちは、私がそのために選んだ道具なのです。

マハーバーラタの中で、ドラウパディーはヴィラータの宮廷で苦しんでいるときに、こう言ってクリシュナに祈りました。

「どうしたら私を取り囲む邪悪と卑劣を屈服させることができますか? 私はバーラタの大地(ブーミ)の娘です。私は名誉ある伝統を持つ立派な家系に生まれ、比類なき永遠の文化を継承しています」と。

それと同じように、あなた方も、自分自身を見つけ出すために、その継承したことを生活の中で実践しなければいけません。

すべてのハートから嫌悪感が取り除かれるべし

およそ九世紀前、クリシュナミシュラは『プラボーダ チャンドローダヤ』〔悟りの月の出〕という劇を書きました。そこでは、徳が王で、平安(シャーンティ)が女王、そして、王が戦わねばならない敵は執着(モーハ)でした。ヴェーダーンタ デーシカは、それと似たような『サンカルパ スールヨーダヤ』〔神の意志の日の出〕という劇を創作しました。その劇は同じテーマを扱っています。そこでは、識別(ヴィヴェーカ)という王が一歩進むたびに、大執着(マハーモーハ)という王の妨害を受けました。それは識別(ヴィヴェーカ)王が障害(ヴィグナ)を乗り越えるまで続きました。識別(ヴィヴェーカ)王は、ヤマ〔禁戒〕とニヤマ〔勧戒〕(外側と内側の感覚の制御)、アーサナ〔坐法〕、プラーナーヤーマ〔調息〕、プラティヤーハーラ〔五感を制すること〕という五つの地域を旅して回り、正義を遵守することで、どこであれ道が開かれました。

プラボーダ〔悟り〕は心の原理(マナス タットワ)であり、それはつまり、心は霊性修行(サーダナ)と識別によって浄化され、純化されなければならないということです。心を霊性修行(サーダナ)という坩堝(るつぼ)に注ぎ入れて溶かしなさい。そうすれば、あなたは心を神に形作ることができ、心の分子のすべてが神の分子となるでしょう。

今、世界の人々は、列車の個室で別々に暮らしています。その個室は、民族、宗教、肌の色、宗派、カースト、信念などに基づいて分けられています。個室の妥当性と価値を問う人たちが、自分で自分を個室に入れているのです。金属の欠片(かけら)は、まとめて山積みにされても、依然として欠片のままで、一つにはなりません。世界はただ山状に一つになっているだけで、愛の坩堝の中で溶けて神の像を作り出すということにはなっていません。すべての人のハートから嫌悪感が取り除かれなければいけません。講演や本が、人が一つになることを引き起こすことはできません。森が火で炎上しているとき、海は熱くなりますか?

あなたに自敬の念を与える行い

あなたが善良でいるとき、善いことをするときに得る至福(アーナンダ)は、必ずインスピレーションと報償で満ちています。悪へと落ちるあらゆる誘惑に抵抗し、間違った道を行くことを避け、悪い仲間から離れていなさい。それはあなたに自敬の念を与え、あなたは自分の評価を上げるでしょう。あなたは誰の前でも頭を下げる必要はないのです。あなたがそのように暮らすなら、あなたの人生そのものが、私にとっての最高の宣伝(プラチャーラ)となるでしょう。虚と悪意が狂ったようにわめき散らしているときには、それはあなたの識別(ヴィヴェーカ)と堪忍寛容(クシャマ)の試験なのだと思いなさい。今日の新聞は明日には紙くずになってしまうものです。それが迷惑な紙でなかったら、わずかな小銭も儲(もう)けることはできないでしょう。私の名前を利用して生計を立てることができる人がいることを、私は嬉しく思います。あなた方は自分の経験を大切にして、自分たちと同じようなチャンスを得ていないか、あるいは意図的にひどいことをする人たちの法螺話(ほらばなし)は、無視しなければいけません。衣服に穴を開けずにはいられない虫もいるかもしれませんが、それはその虫に傷を付けて害を与えるという習性があるからであり、識別できないのです。その虫には、それはシルクなのかウールなのか綿なのか、安物なのか高価な物なのか、イミテーションなのか本物なのかが、区別できないのです。彼らは、自分の腕前を発揮することで得られる、悪意と戯れが結び付いた純然たる喜びのために、害を与えているだけなのです。そのようなものからは距離を置いて、善い親交(サット サング)を持ち、水を得た魚のように幸せでいなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C34