サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年10月23日
スンダラムのリニューアル式典におけるババの御講話より

理想の詩

今日、ヴィジャヤ ダシャミー〔勝利の十日目〕は、ここであれ他のどこであれ、至高の平安の館(プラシャーンティ ニラヤム)に住む者(ヴァースィ)たちにとって三重に神聖な日です。それは三つの河の聖水が混ざり合う場であるトリヴェーニーと同じように神聖です。今日はダシャラー祭の「サマープティ」すなわち「終結」であり、七日にわたって供養礼拝(プージャー)と朗唱(パーラーヤナ)を行った七日供犠(ヤグニャ サプターハ)の終結でもあり、さらには前回の化身(プールヴァ アヴァターラ)の終結の日、つまりシルディの肉体(シャリーラ)の入棺(サマーディ)の日でもあります。「サマープティ」には「ブラフマンの至福(ブラフマーナンダ)に至ること」という意味もあります。ですから、今日は言い尽くせないほどの至福に浸るチャンスがあるのです。

神我顕現に到達するために打ち込む霊性修行(サーダナ)の二つの段階、行為(カルマ)と礼拝(ウパーサナ)は、口で述べること、目で見ることができます。しかし、熟成の段階である英知(グニャーナ)は、目には見えません。ヤムナー川に象徴される行為(カルマ)と、ガンジス川に象徴されるバクティ(神への愛、信愛)は、目には見えないサラワスティー川、つまり英知(グニャーナ)が流れる地点で、出会います。しかし今、人々は、行為(カルマ)を求める熱意、バクティを求める歓喜、英知(グニャーナ)を求める切望を失ってしまいました。真実の学識(ヴィッディヤー)とは、人にアートマを明かすもののことです。これらの事実が無視される時、神の化身(アヴァターラ)が人間の義務であるダルマを再び教えるために現れます。今、再興されなければならないダルマ(道徳律)は何でしょう? それはサナータナ ダルマ(永遠の法)であり、それ以外にありません。

至高者だけを追い求めるべし

今でも、地上に聖仙がいないことはありません。現代でも、偉大なるカヴィ〔詩聖〕、マハープルシャ、マハーパンディト〔学僧〕たちが、私たちと共に存在しています。しかし、華やかさや虚飾を狂信的に追い求め、他者に戦いを挑んで打ち負かそうとする興奮した争いの中で、彼らのメッセージを吸収し、彼らが定めた霊性修行(サーダナ)の甘さを味わう時間がありません。同じ呼び名が使われていても、現代の詩人は昔のカヴィ(詩聖)とは比べようがありません。昔のカヴィ(詩聖)は意識を大変清らかに浄化していたので、詩の中にはっきりと神が映し出されていました。現代の詩人はあらゆる欠点や欠陥を抱えており、それらが程度の低い欲望に迎合しています。現代の詩人は、バクティよりも不機嫌さを表しています。感覚器官や激情を制しておらず、憎悪と貪欲の奴隷となっています。現代の詩人は、自分たちが広めているメッセージを神聖でないものにしています。なぜなら、彼らは低次の理想と安っぽい勝利を綴(つづ)っているからです。そのような人たちに“詩人”と名乗る権利はありません。

五感が人の上に立つことを認めるべきではありません。五感は人の管理下にある器官でなければいけません。五感は単なる使用人であり、雑役夫であり、助手にすぎません。ナイフは果物や野菜を切るのに使うのが最も適しているのであり、あなたの喉を切るのに使うべきではありません。五感は、鈍性(タマス)(無力)や激性(ラジャス)(激情)がなくなるよう訓練されなければなりません。五感は、鈍感であったり、のろのろとしているべきではありません。また、不活発であったり、危険なほど脇にそれるべきでもありません。属性(グナ)〔激性・鈍性・浄性〕を克服しなければいけません。

ある学生がグルのもとに行き、平安への道を尋ねました。グルは、「それには、すべての人、すべての物事、すべての出来事に対する、忍耐(サハナ)を育てなければならない」と答えました。興味、反感、欲望を誘発するものが一切あってはなりません。至高者だけを追い求めなければなりません。神だけを欲しなければなりません。

神と取引してはいけない

安定していて、変わることなく、減ることもない愛(プレーマ)は、すべての世界の主への愛(ヴィシュウェーシュワラ プレーマ)のみです。変化する愛(チャラ プレーマ)は、変化する世界への愛です。バクタ〔神を愛する者〕が、何の目的も、何の報いを求める欲も持たずに、ただ純粋な信愛の気持ちで神仏の像の上に米を二粒置いた時、その米粒は金の粒に変わりました。もし何か目的を持っていたら、米粒は石に変わっていたでしょう。

今、人々は、「苦痛や悲嘆や喪失から救ってください、健康や力や富を授けてください」、と神に祈ります。けれども、もしあなたが神への執着を強め、神をあなたのものとするならば、神はあなたが必要とするすべてのものを、何とかしてあなたに与えるでしょう。「私にこれをください。そうすれば、交換にこれを差し上げます」と言って、神との関係を取引におとしめてはなりません。賃金を要求するなら、あなたは雇われ人夫になります。神のものになりなさい。神は、怠け者にも、正気でない者にも、横着な者にも与えています。であれば、あなたに与えられないことがありますか? 父親は、田畑や工場で働く息子がどんなに怠け者でも横着でも、あるいは勤勉でも、息子に食べ物を与えます。あなたが神に自分の財産のごく一部を捧げる時、あなたはその行為を、財産は自分のもので、自分の手は上にあり、受け取る者の手はその下にある、という慢心から行っているのです。

今日読まれた詩の一篇(ぺん)の中で、「なぜ神は、外を見る目を授けていながら、目が外の世界をさまようと非難するのか?」という問いが上がっていました。それは違います。目はさまよいません。目は、心(マインド)の使者として、さまよっているのです。もし心が目に脇にそれるようにと命じれば、目はそれに従わなければなりません。その詩人は、「神は人に正気でない心を授けた」とも非難しました。いいえ、心が正気でないことはありません。心は、束縛を強めるためにも、緩めるためにも使えます。輪廻と解脱は、どちらも心によって、もたらすことができます。あなたが選択権を持っているのです。心はその両方の道具です。道具を非難するのではなく、使い方を非難しなさい。

詩人は宣伝に携わってはなりません。詩人は、詩を長くしたり語数を増やすために、行を付け加えたり、不必要な語句を挿入したりすべきではありません。感情や激情をわざと強めようとすべきではありません。感情は、その人の中身や人格から自然と高まってくる、自然なものでなければなりません。そうでなければ、詩はいびつになり、崇高なものから馬鹿げたものへと滑り落ちてしまうでしょう。

あるブラフミンが、適切な場所で、ウダーッタ〔ヴェーダの三音中の高音〕とアヌダーッタ〔三音中の低音〕に注意を払いつつ、慎重に正確にヴェーダを唱えていました。それを聞いた金貸しが、そのブラフミンに歌を歌ってほしいと頼みました。ブラフミンが自分は歌は知らないと断ると、金貸しは、もし要求に応じないなら、悲惨な結果になると脅しました。ブラフミンは恐(こわ)くなり、酷(ひど)い目にあうことから逃れるために、とっさにこう歌いました。

「私は歌えない。私は歌わない。しかし、この悪漢が私に試しに歌わせたがっている。」

恐れや貪欲、疑いや否定が、詩人に表現を強要させるべきではありません。自分の不完全さを社会のせいにして非難するのは、自分の頭痛を枕のせいにするのと同じです。

惑わされている人にさえ愛を持ちなさい

惑わされている人にさえ愛を持ちなさい 穀物が唐箕(とうみ)にかけられると、無価値な殻は遠くに振り落とされ、ずっしりとした実は近くに山積みになります。低俗な新聞に見られる悪意のあるペンの卑劣な策略は、穀物から無価値な殻を取り除くのに役立ちます。誰も真実を揺るがすことはできません。誰も不実を打ち立てることはできません。私は真実に立脚しており、真実に正当な場所を確保するためにやって来ました。妬みと貪欲は人に策略を講じさせ、人の名誉と人格をわずかな銅貨と交換させてしまいます。愛によって、愛のみによって集まった、この大勢の人を見た時、ハートに愛がなく、嫌悪しかない人たちの中には、黙っていられない人もいるのです。そのような人たちは、嫌悪という毒を吐き出さなければなりません。

当然、どの時代にも、ラーマ、クリシュナ、シャンカラのような、人類を救うためにやって来たどんな者にも、そのような中傷者たちがいました。そうした中傷者に憎悪を抱いてはなりません。なぜならば、遅かれ早かれ、彼らも悔い改め、善くなることになっているのですから。

水に牛乳を加えたものが、牛乳の値段を付けて売られています。私に関する嘘(うそ)を売って、彼らはいくらかのお金を稼いでいます! ヒルは、もうこれ以上吸えないというところまで吸い尽くすと、剥がれ落ちます。

「彼らが清らかな魂の持ち主へと変わりますように、そして、彼らの盲目が治りますように、彼らが全くの不実ではなく真実へと結びつくことができますように」と祈りなさい。憎悪(ドウェーシャ)は堕落(ドゥーシャナ)へと導きます。愛は相互理解と共感へと導きます。惑わされている人たちにさえ、愛を持ちなさい。彼らも、じきに巡礼の道に加わることでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C35