サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年10月24日
ダシャラー祭連続講話⑨より

一なるプルシャ

全能なる神の御前に到達し、神を見て、永遠に神と共にありたいと願うことは、人間性の一部です。なぜならば、人のハートの奥底に、自分が元いた場所にたどり着きたい、失ってしまった喜びと逃してしまった栄光を手に入れたい、という切望が存在するからです。人は神であり、だからこそ、深さが深さを求め、一部が全体を求め、壺(つぼ)の中の空気が壺の周囲の空気にあこがれているのです。神の御前にたどり着こうという努力は、すぐに、迅速に行われなければなりません。なぜならば、死が人間をつかみ去ろうと待ち構えているからです。空でさえずる鳥には、地面の上の死肉は見えますが、鳥を捕まえようと仕掛けてある網は見えません。それと同じように、人は知性を使って遠い将来を見極めることはできても、自分を待ち構えている死という最終場面がやって来ると、何も見えなくなってしまいます。

至福の源である神の御前に到達するためには、ジャヤデーヴァ、ガウラーンガ〔チャイタニヤ〕、ミーラー、ラーマクリシュナ、その他の偉大な聖者や求道者の足跡をたどらねばなりません。彼らの教えを実践し、彼らの手本に従いなさい。献身的な行為、至高神への全託の道、それから、愛(プレーマ)の化身への比類なき愛の道――これは最も甘美な道であり、一歩を勝ち得るたびに喜びが与えられます。偉大な求道者たちは皆、主の御名(ハリ ナーマ)を舌の上に置き、主の御名はすべての甘いものを束にしたものよりも甘いと、口を揃(そろ)えて言っています。手に持った灯りがあなたの道中の一歩一歩を照らしてくれるのと同じように、御名は、あなたの人生のあらゆる瞬間を照らします。なぜならば、あなたがどんなに遠くへ行こうとも、御名はあなたと一緒に来てくれるからです。ラーダーは、主に何を求めるのかと尋ねられた時、自分は主を所有していれば満足であり、主以外は何も求めないと答えました。

小芝居で全知の神を騙すことはできない

心(マインド)は周囲にあるものから喜びを得ることができると思っています。周囲にあるものの情報は、感覚器官が心に与えている情報です。心は、すべてはブラフマンである、あるいは、すべては神の劇である、という至高の英知(グニャーナ)によって支配することができます。世界は神のリーラー〔神聖遊戯〕にほかならず、あなたは神の手の中の操り人形にすぎない、ということを認識するためには、ゴーピー〔牧女〕たちからバクティ〔神への愛〕を学ばなければなりません。ゴーピーたちは、あまりにも全託の姿勢に満ちていたため、肉体意識を一切なくしていました。ゴーピーたちには一つの姿しか目に入らず、心には一つの思いしかなく、ハートには一つの歌しかありませんでした。それはクリシュナの姿であり、クリシュナへの思いであり、クリシュナへの歌でした。ゴーピーたちのバクティは、うわべだけのポーズでもなければ、現実逃避の計略でもなく、一時の逸脱でもありませんでした。バクティは、まさにゴーピーたちの命を支える呼吸であり、ゴーピーたちの存在理由そのものでした。

ある男が、真夜中に家に泥棒が入ってきた物音に気づきました。そこで男は妻に、これから自分がおまえを責めるから、大声で泣くようにと言い、「質屋に入れた自分の宝石を全部取り返してほしい、それが無理なら、少なくとも今日三ルピーで質に入れたマンガラスートラ(結婚の証のペンダント)を取り返してほしいだと!」と、怒鳴りました。男は単刀直入に貧困を訴えました。「家には一銭もない。どうしろというんだ?」。その話を聞いた泥棒は、せっかく苦労して押し入ったのに当てが外れたと、ぶつぶつ言いながら、すぐにその家から退散しました。

小芝居は、世俗的な事柄には上手くいくかもしれませんが、全知の神を騙(だま)すことはできません。小芝居は求道者に跳ね返ってくるだけでしょう。エゴという泥棒たちが、あなたがアンタフカラナ(内なる意識)の中に大切に保管している英知(グニャーナ)という宝石をこっそりと盗もうとしたら、泥棒を打ち負かすために、神に助けを求めなさい。そうすれば、助けが与えられるでしょう。

識別力と無執着を自分の警備員にしなさい

心は魔術師であり、不法にあなたを支配する侵害者です。ある町で結婚式が祝われていた時、ある年老いた女性が会場となっていた家に入ってきました。新婦側の人たちは、花婿の親戚の女性だと思って敬意をもって老女に接しました。新郎側の人たちは、老女は新婦側の人だと思って敬意を表しました。老女は、まんまと何週間も新婦新郎両方の側の厚いもてなしを楽しみました。誰かが好奇心から老女の身元を調べ始めました。老女はどちらの側とも関係はありませんでした。身元調べが始まるやいなや、老女は姿を消しました。

同様に、心も、調べが始まるとすぐに姿を消してしまうでしょう。なぜならば、心は縦糸と横糸でできている布と同じだからです。糸の一本一本は、欲望、願望、執着です。それらを引き抜きなさい。そうすれば、布は消えてなくなります。迷妄が綿であり、欲望が綿糸であり、心が布です。無執着(ヴァイラーギャ)によって縦糸と横糸を引き抜くことができます。霊性修行者(サーダカ)は識別力(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)を自分の警備員にしなければなりません。そうすれば、この世を無傷で進むことができるでしょう。

あるとき、出家行者(サンニャースィン)が大地主の家に入っていくと、家の主人が泥浴(でいよく)をしていて驚きました。理由を尋ねると、主人は、「贅(ぜい)沢なことをする余裕がないことを見せたかったのだ」と言いました。それから、「いや、あなたには本当のことを言おう。あなたは出家行者なので、打ち明けてもいいだろう。私はまさかの時に備えて蓄えているのだ」と言いました。出家行者は主人を「愚か者」と呼び、その蓄えを今のうちに善行に使うよう訓戒しました。

「蜜蜂のようであってはなりません。蜜蜂は貴重な蜂蜜を蓄えるために巣箱の中で何日も苦労して働き、結局、煙しか得られません。蜜蜂は燻(いぶ)し出され、蜂蜜は蜂の巣から取り出されてしまいます。蓄えを譲り渡すのを臨終の時まで引き伸ばしてはなりません。」

出家行者はそう言いました。

すべての生き物と神との関係

世界には二等席を与えなさい。一等席は輪廻の鎖を解く場として確保しておくべきです。宇宙の母(ジャガドジャナニー)は、あなたが人形を放り出して泣き出した時にだけ、急いであなたのところにやって来て、あなたを優しく抱きしめます。ハートの奥底から切望しなさい。全身全霊で切望しなさい。心に執着のシェーシャムすなわち「残り」がないようにしなさい。そうすれば、シェーシャサーイーすなわち「霊験あらたかな大蛇によりかかる神」〔ヴィシュヌ神〕の恩寵を得ることができるでしょう。

俗な心を持つ人たちの皮肉を気にしてはいけません。彼らは、あなたを識別力(ヴィヴェーカ)と無執着(ヴァイラーギャ)の王道から脇道に引きずり込もうとしているのかもしれません。神の化身(アヴァターラ)たちでさえ、偉業に毒を注いで喜ぶ小男たちの標的となるのです。そうであれば、自分の愛情を膨らませよう、視界を広げようとしている人たちが、どうしてそれを逃れることができるでしょう?

パーンダヴァ兄弟は、決してクリシュナへの誹謗(ひぼう)中傷に耳を貸そうとしませんでした。彼らはクリシュナの栄光を理解しており、クリシュナにすっかり全託していました。クリシュナも彼らの愛に報いていました。クリシュナは、ダルマラージャは自分の頭であり、アルジュナは自分の肩、ビーマは胴体、ナクラとサハデーヴァは両足であると明言しました。クリシュナ自身は心臓でした。これがパーンダヴァ兄弟と主の関係であり、それはすべての生き物と神との関係です。パーンダヴァ兄弟だけがそのことを認識し、そのことを信じ、そのことによって利を得ていました。他の者はそうではありませんでした。主はハートの中に住んでいる者(フルダヤヴァースィ)です。

クリシュナが使命を終えてこの世を去ったという報せを受けた時、ダルマラージャは、大いなる出立(マハープラスターナ)、すなわち、一人黙々と振り返ることなく倒れ死ぬまで北に向かって歩いていくこと、を決意しました。ダルマラージャはそれをビーマに提案し、それから、ビーマはどうすることに決めたのかと尋ねました。するとビーマはこう答えました。

「兄よ! 今の我らは、あのサイコロ賭博(とばく)で采(さい)が投げられた時からの我らとは違うというのか? あの時、兄は我らの承諾なしに我らを賭(か)け、我らを失った。今も同じだ。兄が己にとっての最善の道を決めたのならば、それは我らにとっても最善の道だ。我らは共に一つの体を支え合う五つの生気(パンチャプラーナ)と同じなのだから。」

主のみがプルシャ

ゴーピーとゴーパーラ(牛飼いの少女少年)たちにとって、クリシュナはハートでした。それが、私たちが『バーガヴァタ』の中に見るゴーピーとゴーパーラです。ゴーピーたちは、クリシュナを、自分の主人(パティ)、支配者、主なる神として崇敬していました。なぜなら、実を言えば、主だけが唯一のプルシャ〔真に強い人間、本当の男性〕だからです。主以外はすべて、アバラ〔強くないもの〕、すなわち、女性、弱いもの、弱い性です。人々の中で最も英雄的な人でさえ、苦しみにうめき、独り静かにむせび泣きます。彼らにも、他の人と同じように、助けがなければどうしようもならない瞬間があるのです。決断できず、疑念に付きまとわれている時、彼らも祈りと嘆願に頼るのです。彼らも弱いのです。どんな状況の下でも強く、揺るぐことなく、すべてのものに力を授けることができるのは、主だけです。ですから、あなたがゴーピーの愛について読む時には、すべての生き物は「女性」であり、主だけがプルシャ〔本当の男性〕であるということを覚えておきなさい。

神に自らを顕(あらわ)すよう促すことができるのは、愛によってのみです。そうすれば、英知が手に入ります。

さて、私はもう話を終えなくてはなりません。バンガロールからやって来た帰依者たちが花のジューラー(ブランコ)をこしらえて、私にそこに座って揺られてくださいとせがんでいるからです。私はそれを有り難いとは思いません。あなた方のハートのジューラーで揺られることができたら、私はどんなに幸せでしょう! オームカーラ〔オームという聖音〕のジューラーに乗って、七つの世界すべての生き物のハートからわき起こる「タットワマスィ」(汝はそれなり)の調べに合わせて揺られる――それができたら、どんなに素晴らしいでしょう! あなた方は、自分のハートに据え付けたジューラーに、迷妄の支配者(マーダヴァ)〔クリシュナ神〕ではなく心(マナス)を座らせています! それが、人類が平安と喜びを失っている理由です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C36