サティヤ サイババの御言葉

日付:1966年10月25日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話⑩より

すべての人の親類知己

人間の一生という河は、多くの谷を通り抜けて流れ、多くの岩を跳び越え、多くの沼地でその姿を失い、神の恩寵という海で自らを空(から)にしようと努めます。とはいえ、そこで起こることは、飲むことのできない広大な塩水の海原に落ちていくことです。洪水は高い所から低い所へと流れていきます。低い所から高い所へと上がるのは火の炎だけです。だからこそ、私たちは英知の火(グニャーナ アグニ)、悟りの火と言うのです。

人が苦しむのは、針ほどに狭い喉しか持っていないのに、空(そら)ほどに巨大な餓(う)えを抱いているからです。人の喉は地球と同じくらい巨大にならなければなりません。人のハートは平静(シャーンティ)〔平安〕と忍耐力(サハナ)によって大きく花開かなければなりません。そうなれば、完全で弱まることのない永続する至福(アーナンダ)を得たいという願望を成就させることができます。

ひとたび人間に進化すると、人間よりも下等な生き物の形態に逆戻りすることはありません。なぜなら、人間だけが識別力(ヴィヴェーカ)と知恵(ヴィチャクシャナ)を持っているからです。苦しい時、人は、なぜ自分は貧乏くじを引いてしまったのだろう、と悩みます。そして、その原因は神の気まぐれや他人の思いつきにあるのではなく、自分自身にあるはずだ、そして、それが現世でこしらえたものでないならば、前世でこしらえたものに違いない、という結論に達します。人間だけが、自分の心の反応と感情を分析して結論を引き出すことができるのです。

天空には、とてもたくさんの星が一面に散らばっています。けれども、夜には暗闇があるだけです。昼間には、星と比べればほとんど小さな光の点のような太陽が、さんさんと輝く明かりを私たちに与えてくれます。その理由は、星は遠く離れた所にあって、太陽は近い所にあるからです。英知(グニャーナ)という星は、とても遠い所にあります。人はその星を近くに引き寄せることも、その星の近くにいくこともしていません。人は、情報、技術、学識、知性が提供する塵で満足しています。人は、霊性修行(サーダナ)によって研ぎ澄まされる直感がもたらすことのできる、崇高なヴィジョンを得ようとしていません。先ほどV・K・ラーオは次のように述べました。西洋の民族によって行われた大量殺戮と残酷行為は、ユダヤ人や他の民族への恐れ、そして、根強い不満が二度の世界大戦を体験した国々を苦しめているせいである、と。そして、西洋の思想家たちは、平安を維持する術(すべ)、平安を勝ち得る術、乱されることのない平安――プラシャーンティ――の内に住む術を学ぶために、ますます東洋に目を向けている、と述べました。

バクティという姿勢が人を謙虚にする

一頭のライオンが、澄んだ湖に映る自分の姿を目にしました。そのライオンは、湖面に映るライオンの、自分と同じように強く、若く、荒々しい姿に嫉妬しました。そして、そのライオンを倒そうとして跳びかかるや否や、その姿はバラバラになってしまいました。ライオンは、その過程で溺れていまいました。これが嫉妬の報いというものです。自分自身の映しである他人が、嫉妬を引き起こし、惨事へと導くのです。バクティ、すなわち信愛と献身の姿勢は、あなたを謙虚にし、嫉妬心を抹殺します。英知(グニャーナ)、すなわち、自分は一切である神の一部分であるという気づきは、あなたをすべての人の親類にし、嫉妬を生む区別はなくなります。

ハリシュチャンドラは、真実を貫いて不死となりました。カルナは、慈善(ダーナ)を貫いて、困っている人々に奉仕する機会を喜んで、不死に到(いた)りました。障害物を積み上げてはなりません。少しずつ手放して、犠牲の態度へと向かいなさい。あなたのできる範囲で、人を助けようと努めなさい。

無知の暗闇を追い払うために、ハートのランプに信愛という油で明かりを灯し、主の御名という芯にヴェーダの大格言(マハーヴァーキャ)で火を点けなさい。神の栄光と遍在に関する無知を取り除く際に、信愛にあなたを神の御前へと導く手助けをさせなさい。信愛を至福(アーナンダ)というランプの油として使いなさい。

神の足跡を見つけられるよう目を訓練せよ

ラヤニンガルは、『クリシュナ カルナアムルタム』〔ビルヴァマンガラが著した詩集〕からの詩を何篇か読みました。そこには幼いクリシュナが無邪気に遊びまわる姿がとても美しく記述されています。外見上は、その詩節は物質的な事柄を描いているように見えますが、そこには深い内面的な価値があります。あなた方は、物質的な描写を、信愛という内面的な感情に火を灯すための炎として使わなければいけません。

たとえば、幼いクリシュナが凝乳(カード)の入った壺(つぼ)をひっくり返して、壺の中にあったバターの塊を持って逃げた時、母ヤショーダーは、クリシュナの足の裏に付着した凝乳によってできた床の足跡を追い、クリシュナが隠れている場所を見つけた、という出来事についての詩節があります。主が欲しがったバターは、ヨーガ〔神との合一のための行〕の成果であり、識別力(ヴィヴェーカ)によって心(マインド)をかき回すことでできる最終生産物です。クリシュナはそれをごちそうになるのが大好きです。だから、クリシュナはそれを持って、一人で自己実現という独居へと駆け込んだのです。

私たちも、主の足跡によって主を見つけることができます。訓練された目で真剣に探すなら、主の足跡はどこにでも見つけることができます。美、徳、謙虚さ、正義、真実、愛、そして平安がある所では、どこであれ神の足跡を見つけることができます。

神の足跡を見つけるには、目を訓練しなければなりません。その過程で、心(マインド)を支配しなければなりません。心(マインド)は、思考と感情の軸です。心(マインド)は、絶対意識であるブラフマンの思考する側面です。絶対我が想像という行為の中に自らを顕現させているものが、心(マインド)です。しかしながら、心(マインド)は、絶対者のほうへと向く代わりに外側に向き、感覚器官を自分の道具として使いはじめます。心(マインド)は、自らの源であるアートマを忘れてしまいます。どうして、そして、なぜ、それが起こるのかは不可解です。私たちは、それが起こることを知っており、それが回避できることも知っています。

理智は、マーヤーと呼ばれるこの世の幻の秘密を把握できません。なぜなら、理智もマーヤーに縛り付けられているからです。人はマーヤーを理解するために理智を超越しなければなりません。これは事実であり、直面しなければならない事実です。

心(マインド)は世界の背景です。もし心(マインド)の思考と行いが、健全で、正しく、暴力もなく、愛で満たされていて、道義的に釣り合いが取れているならば、平安はすぐ手の届く所にあり、ブラフマン(至高の実在)に到達することができます。だからこそ、心(マインド)を内側に、神に、自らの源に向けるために、霊性修行(サーダナ)を厳格に実行すべきなのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.6 C37