サティヤ サイババの御言葉

日付:1967年1月1日
場所:マドラス市グインディ地区のシュリ サティヤ サイ マンダリー
お正月のババの御講話より

牛乳と水

西洋のカレンダーでは1月1日から新しい年が始まり、この日はインドにおいても西洋諸国の祝祭に合わせて新年の日として祝われています。しかし、少し考えてみれば、一秒一秒が新しいものであることが分かるでしょう。一秒一秒が新しい誕生を示しています。それは新たな勝利を得るための機会です。というのは、インド文化が目的としているのは各人がアートマ〔真我〕を認識することであり、富や学問や名声を手に入れることではないからです。人間の最大の義務は、真実〔真理/サティヤ〕を探究することです。真実は献身と信愛によってのみ勝ち得ることができます。そして、それらは神の恩籠しだいであり、神の恩籠は愛に満ちあふれたハートだけに注がれるのです。

「神はどこにいるのか?」という質問を、最近の人々はよく口にします。プラフラーダは、神の御名をたゆみなく唱えることによって、神は至る所にいることを知りました。「神はここだけにいる」とか、「神はあそこにはいない」と断言するのは正しいことではありません。真実の悟りは、真剣なサーダナ(霊性修行)を経て、初めて開かれるのです。あなたはあらゆる種類の魅力的な品物がデパートに並んでいるのを見るかもしれませんが、くださいと頼むだけではそれらを自分のものにすることはできません。あなたが代金を支払った品物しか、自分のものにすることはできません。あなたにとって、悟りは魅力的な品物で、手に入れて帰りたいと思うかもしれませんが、あなたはその代価を支払わなければなりません。これは自分のものだと主張して懇願するだけでは、あなたのものにはなりません。

激情に左右されることから自由になる努力をしなさい

あなたが明らかに国の君主である場合に限り、あなたは王になるに値します。もしあなたが敵に追われて王座から逃げ出そうとしているならば、あなたには王という位がふさわしいなどとどうして言えるでしょうか? 同様に、あなたは、情欲、食欲、憎悪、慢心という内なる敵を打ち破り、明らかに自分自身の主人となることができたとき、初めて王座に就いて、私は主人であると宣言することができるのです。

インドでは、「我らはスワラージヤ〔自己支配〕(自由)を勝ち得た」と言いますが、スワーラージヤ〔自己発光〕(光を放つ存在であるブラフマンと自分を同一視すること)こそが、私たち一人ひとりが勝ち得ようと熱望する地位であるべきなのです。スワラージヤ〔自己支配〕は、政治的な独立であり、外国人支配者のくびきという屈辱から自由になることです。スワーラージヤ〔自己発光〕は、激情や感情に左右されることから解放されることです。外的な束縛が解かれたとき、人はスワラージヤ〔自己支配〕を得ます。内的な束縛が解かれたとき、人はスワーラージヤ〔自己発光〕を得ます。スワーラージヤ〔自己発光〕のみが、平安と歓喜を確実にすることができるのです。

神はあなたの手の届かない所、遠く離れた場所にいるのではありません。神はあなたの内に、あなた自身の内なる祭壇にいます。そこに神を見いだせないために、そして、見いだして平安と歓喜を引き出すことができないために、人間は苦しんでいるのです。流れる川の水に膝までつかって洗濯物を洗っていたあるドービー(インドの洗濯人)は、のどが渇いて死にました。なぜなら、彼は命を与えてくれる水が自分の手の届く所にあることに気がつかなかったからです。彼はただ身をかがめて水を飲めばよかったのです。これは人間を語った話です。人間は自分の外に神を求めて必死に走り回り、目的を達することができないまま失望と混乱のうちに死んでいきます――また生まれてくるためだけに。

もちろん、あなたはこの世にいなければなりませんが、この世のものである必要はないのです。あなたの注意は、神に、内なる神に、固定しておかなければなりません。カンナダ語が話されている地方に、カラガと呼ばれるお祭りがあります。その神聖な儀式の中心となる人物は、頭の上にいくつも壺を載せて積み重ね、そのまま音楽に足取りを合わせて行進します。さらには、他の人たちと声を揃えて歌を歌い、太鼓に合わせて拍子もとらなければなりません。しかし、そうしている間ずっと、その人の注意は自分の頭に載っている不安定な壺の塔のバランスを取ることに向けられています。それと同じく、人間は人生という騒がしくて浮かれた行進を続けている間、神を悟るという目標を持ち続けなければなりません。

英知は清らかな心でのみ得ることができる

人々の中には豊かな国々が到達した高い生活水準をうらやむ人もいますが、インドの貧困は、西洋の豪華で見栄っ張りな生活よりもずっと善良な生活に適しています。広大な海は莫大な水をたたえていますが、人間ののどの渇きを癒すことができますか? それと同じように、どんなに多くを持っていても、無執着を身につけなければ、それは単なる不毛の浪費でしかありません。五感の喜びと物質的な追求に対する無執着は、神と神聖なものへの愛が育つ助けとなります。

人々は、自分に興味があるのは探究と理性だけだ、自分はグニャーナ(霊的英知)の道だけを歩むのだと、誇らしげに言います。彼らはグニャーニ(霊的英知を得て解脱した人)になることを熱望しています! しかし、グニャーナ(霊的英知)は清らかな心を持っていなければ勝ち得ることはできません。「神とは何者か?」という探究に取り組む前に、自分は何者かを見いだす必要があります。ひとたび自分は何者であるかを見いだしたなら、神は何者であるかを知る必要はありません。なぜなら、両者は同じだからです。

神は自分の中にいるということが分かった時、あなたは自分をはるかに高く評価するようになるでしょう。というのも、自分が拾った「ガラス玉」は実は「ダイヤモンド」だったということが分かったら、安全のためにそれを鉄製の金庫に保管するに違いないからです。石も、彫刻家によって魅力的な神像の姿に彫られれば、非常に大切にされ、立派な寺院に安置されて、何世代にも渡って人々から儀式を伴う礼拝をされることでしょう。

いくつもの過去生の間に、この世は実在であり、自分は肉体と同じである、という誤った認識があまりにも深くあなたの中に植え付けられてしまったために、それを取り除くには非常に強い薬を絶え間なく服用し続けるしかありません。その薬、「ラーム、ラーム、ラーム」〔ラーマの御名〕を、限りなく服用し、吸収しなければなりません。その治癒力のあるエッセンスは、体のすべての部分、すべての感覚器官、すべての神経、そして、血液の一滴一滴に行き渡ります。すると、あなたのすべての細胞がラーマへと変えられるでしょう。あなたは、るつぼの中で溶け、ラーマの鋳型に注がれて、ラーマとならなければなりません。それこそがグニャーナ〔英知〕の完成です。ラーマ ナーマ〔ラーマの御名〕であれ、他のどんな御名であれ、唱えて心の中に吸収されれば、それは、あなたをむなしいものへと引きずり込む五感の気まぐれを制御する助けとなるでしょう。

内なる敵を打ち破り、あなたのエゴに打ち勝ちなさい

五感のコントロールという分野では、五世紀前のインドと今のインドではとても大きな差があります。現代では、五感は自由に遊ぶことを許されています。人は貪欲と情欲とエゴの奴隷になっています。その原因はすべて、親と年長者にあります。親たちは、自分の子供がお寺に行ったり宗教的な講話を聞きにいったりすると、叱りつけ、頭がおかしくなる兆候だと注意します。宗教は老後に追求するもので、若者が真剣に取り組むべきものではないというのです! 逆に、親たちがそれを奨励しさえすれば、子供たちは人生の戦いのために、より良い装備をすることができます。親は子供にこう助言すべきです。

「私たちを導き、守ってくださる神がいることを確信しなさい。感謝の気持ちを持って神を憶念しなさい。私を清らかにしてくださいと神に祈りなさい。すべての人を愛し、すべての人に奉仕しなさい。善い仲間に入りなさい。寺院や聖人を訪ねなさい」と。

あなた方は新聞で、戦闘や征服、勝利や成功の記事などを読みますが、それらはすべて物質的な征服や成功などです。五感の誘惑と戦い、内なる敵を征服し、エゴに勝利しなさい。それこそが、祝うに値するあなたの勝利であり、それ以外は勝利ではありません。それこそが、私がスワーラージヤ〔自己発光〕と呼んでいるものです。

年が新しくなるのも、日が神聖なものになるのも、あなたがサーダナ〔霊性修行〕によって年や日を神聖なものにしたときに限られるものであり、それがなければそうはなりません。サーダナは、愛という肥料がよく施された畑でしか育ちません。愛、すなわちプレーマは、バクティ(神への信愛)に必須の条件です。物品や名声や妻や子などに抱いているあなたの愛は、より強烈な神の愛に包摂されることで、神聖なものにならなければなりません。スプーン2杯の水を2リットルの牛乳に混ぜれば、水も牛乳として喜ばれます! 今、あなた方のサーダナは、2リットルの水にスプーン2杯の牛乳を混ぜているようなものだといえるでしょう! あなたのハートを神への愛で満たし、ハートを感動で震わせなさい。そうすれば、あなたは、誰も憎むことができなくなるでしょう。不健全な競争意識に浸ることもできなくなるでしょう。誰にも欠点を見つけることはなくなるでしょう。人生が穏やかで甘美でなめらかなものとなるでしょう。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.7 Ch1