サティヤ サイババの御言葉

日付:1967年7月21日
グル プールニマー祭の御講話より

奥深くへと伸びる根

神は愛の化身です。神はすべてのものの中にいます。ですから、あらゆる生命の果実には、その神の愛の甘さが詰まっているのです。ちょうど甘い果実の苦い皮が、中に詰まっている貴重な果汁を知られないよう、すっぽりと果汁を覆っているように、妬み、利己主義、憎悪、悪意、貪欲、情欲、自己顕示欲といった苦い皮は、その甘さがすべてのものに明らかになることを許しません。国籍、肌の色、信条、社会的地位にかかわらず、誰にもその愛を食す権利があります。神と神の愛がすべての原子を活性化しているとき、誰かに「立ち入るな」などとあえて言う者が誰かいるでしょうか? 「イーシャーヴァースヤムイダム サルヴァム」――このすべては、神である――愛であるのです。

この偉大な真実を明らかにするためにヴィヤーサ仙が灯した明かりが、薄暗くなっています。誰もそのランプにオイルを注いでいないのです。皆の興味が、偽りの理想とはかない喜びを追求することに行っています。

ヴィヤーサ仙は、『マハーバーラタ』でダルマを教え、『バーガヴァタ』〔ヴィシュヌ神とその化身の神話集〕でバクティ〔神への愛/信愛〕を教え、十八のプラーナ〔神話集〕で平安と愛を教えました。ヴィヤーサ仙は『ブラフマスートラ』で「知識と知る者と知られるもの」という知識を教えました。ヴィヤーサ仙は、他人に害を及ぼすことは罪の種であり、他人に奉仕することは功徳の種であるということを強調しました。これは愛の教訓であり、純粋でシンプルです。自分を深く探求して自分の内にある真実を発見した人は、平安の化身です。

困難や悲惨は神の贈り物であることに気づきなさい

愛は、ウパニシャッドを満たしている甘露の本質(アムリタ ラサ)です。人が五感や心(マインド)や知性の無能さに気づき、しっかりと実体をつかんで、自分の真実という内にある核を知るとき、人は自分がサティヤ〔真理/真実〕、ダルマ、平安、愛であるアートマ〔真我〕であることを発見します。あるいは、神という、この世界のすべての上部構造の基盤であり、この世界のすべてを設計し、考案した者がいることに気づき、自分のエゴを神に委ねます。その人は「あなたの御意志が勝ります」と宣言し、神の手のひらにすっかり身を任せます。その瞬間は、この上ない至福の瞬間です。これまで苦痛の原因となっていた困難、悲惨、障害、悲しみ、痛みは、突如として新たな壮大な役を担います。今や、それらは神の手仕事であり、神の贈り物であり、神の恩寵です。それらはもはや嫌がられません。それらは成功や楽しみや幸福と同様に歓迎されます。どちらも神の意志です。

不慣れな場所に行くと、あなたは友人を探し、自分のお金を全部その友人に手渡して、安全に保管してもらいます。しかし、後でその友人を疑いはじめるや、あなたは平穏を失います。その友人を信じなさい。そうすればあなたは自由になり、心配はなくなります。それと同じように、欲にかられた行いをすべて神に渡しなさい。神を信じて、いつも気をもまずにいなさい。

サルヴァ ダルマーン パリッティヤジヤ
〔一切のダルマを引き渡しなさい〕
(ダルマにかなった欲にかられた行いを放棄すること)

マーム エーカム シャラナム ヴラジャ
〔ただ私のみに庇護を求めよ〕
(すべてを神に差し出して神を完全に信用すること)

バガヴァッド ギーター十八章六十六節

マッチ棒を水に浸したら、どうやって擦って発火させることができますか? 心(マインド)が世俗的な欲望(ヴィシャヤ)に浸っていたら、心を霊的努力に燃えたたせることができますか? あなたが授かっている愛は、神へと向けなければなりません。そうして初めて、あなたの愛は、あなたのすべての行いを拡大し、成長させ、深め、豊かにし、あなたの周りのすべての人に恩恵をもたらすことができるのです。もしあなたの愛がこの世に限定されているなら、それはすぐに妬みと貪欲と悪意という砂に吸い取られてしまうでしょう。

その拡大する愛を、すなわち神を有していないなら、人は動物以下の悪魔です。牛は動物ですが、自分の死んだ子牛が剥製にされて自分の乳房のそばに置かれると、乳を出します。牛の母性愛はそれほどのものなのです!

現代人の生活はハブのない車輪のようなもの

ハートの中の愛の光がなくなっています。そのため、コウモリや夜行性の鳥たちがハートに寄生して、ハートを汚しています。そのコウモリたちは、憎しみや悪意や貪欲といった悪い性質です。

ヴィヤーサ仙が集成した叙事詩『マハーバーラタ』は、富、権威、権力、体力、そして、地上の人間が欲しいと思うあらゆるものは消えてなくなるということを、明確に、非常に強調して説いています。ドゥルヨーダナとカルナには何か持っていないものがありましたか? それでも、二人は倒れ、自分のすべてを賭けた戦場で犬やジャッカルに喰われてしまいました。

愛を深めて解脱のために用いるために、人間の前には四つの理想が掲げられています。それは人間がそのために一貫して努力すべき理想です。ダルマ〔本分を果たすこと〕、アルタ〔富を得ること〕、カーマ〔願望をかなえること〕、モークシャ〔解脱すること〕という各理想は、それぞれ昇華されて次に来る理想を従わせます。つまり、ダルマによってアルタ〔富〕すなわち物質的な幸福は勝ち得られ、唯一の望ましいカーマ〔願望〕すなわちゴールを欲することによってモークシャ(解脱)はつかみ取られるのです。今、これらの理想はうんざりするほど繰り返し語られていますが、実現しようという努力はされていません。そのせいで、人間の生活はあらゆる場所で茶番へと、悲劇へと低下しているのです。それは、ハブのない車輪、バターの成分のない牛乳、無駄、ゴミのようなものです。

愛にも三つの種類があり、それは個々人の優勢なグナ〔属性〕によります。

鈍性の愛は、「自分」と「自分のもの」に限定され、その小さな円を超えて流れていくことはありません。

激性の愛は、権力のある人、あるいは富を持っている人、あるいはその愛に見事な結果をもたらしてくれる人へと流れます。

一方、浄性の愛は常に、善い人、清らかな人、私心のない人へと、そして、畏敬の念や驚嘆の念を抱かせるものへと、神へと向かって流れます。

ナーラーヤナ神が現れた時、プンダリーカは両親の世話していました。プンダリーカは両親を神が内在する者として崇めている最中でした。そのため、プンダリーカはナーラーヤナ神に少し待ってほしいと頼み、ナーラーヤナ神のほうにレンガを放って、自分が礼拝できるようになるまでナーラーヤナ神がそのレンガを足置きの代わりにしてその上に立っていることができるようにしました。あなたが両親を崇めていないなら、天に住む父なる神を礼拝するのに十分な敬意を、どうやってあなたのハートから引き出すことができますか?

洗われた心だけが神を認識できる

愛はあらゆる美徳の根に水を与える泉です。皆さんは、地面は湿っていて、まだ一面に浅く水が張っているのに稲が枯れている田んぼを見たことがあるはずです。また、硬い乾いた地面に立っているのに、豊かな緑の葉が茂る大木を見たことがあるはずです。あなたはこの対比の理由を見いだすために、しばし立ち止まったことがありますか? 稲の根は、深くは伸びません。木の根は、絶えることのない地下水のある深い所まで伸びていきます。

それと同じように、あなたの行い、あなたが発する言葉、あなたの欲望と感情を形づくる思考――これらすべてが、内なる愛の泉まで深く伸びた根っこから養分を得るとき、あなたは幸せになり、活き活きとした気持ちになって、疲れきった多くの人に避難所と木陰を与えることができるでしょう。

ジャパ(唱名)やタパ(苦行)、プージャー(供養礼拝の儀式)やヴラター(願掛けの行)――これらはどれも、五感を訓練し抑制します。これらは心(マインド)を洗い清め、それによって、神が心に映ることができるようになります。あなたの目で見ることができ、あなたの手で水に入れることのできる砂糖が、すっかり水に溶けて、目でも手でも再び認識することができなくなってしまうのと同じように、五感と知能には内在の神を認知することができないのです。舌だけが、水に溶けた砂糖を認識することができるのと同じように、洗い清めた心(チッタシュッディ)によってのみ、神を認識することができるのです。

ゴーピカーは最高の形のバクティを持っていた

牧女(ゴーピカー)たちは洗い清めた心を持っていましたが、世俗の欲の詰まった低級な心たちが、牧女たちの澄みきった愛の泉を無知な批判で汚染しました。ナーラダ仙も、文盲の牧女たちが最高の形のバクティを持っているわけがないと思いました。しかし、ナーラダ仙は、牧女たちに教えを垂れることを申し出た時、牧女たちは神の意識に非常に没頭しているあまり、クリシュナのこと以外何も考えていないこと、クリシュナの栄光以外語らないこと、クリシュナのセヴァと結びつく行い以外しないことがわかりました。牧女たちは、自分の中から自分を司っている主に、自分のすべてを委ねていました。

「神はどこにいるのか?」、「神の仕事は何か?」と尋ねるのが学識者たちの流行になっていますが、彼らはその答えを待ちません。学識者たちは、地球の周囲を行く非常に複雑なロケットを打ち上げたり、他の人工物を宇宙に打ち上げたりする人がいるということは、よく信じることができますが、数百万光年もの間ずっと星や惑星が回転を続けているこの多種多様な銀河の背後には、何らかの知的な存在がいるに違いない、ということを信じることはできないのです。 その至高のパラマートマを信じて、日々の生活に従事しなさい。そうすれば、この世にいながら、自分をこの世から切り離すことができます。水中で育ちながら水面に浮き、自分の身が濡れることを許さない蓮のように、あるいは、ギー〔精製バター〕や他の油分の多い食べ物を食べても油でべたつくことのない舌のようでありなさい。チッタ(心素)を五感の求める対象との接触によって汚さないようにすること、これがサーダナ〔霊性修行〕のやり方です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.7 C28