サティヤ サイババの御言葉

日付:1967年11月23日
場所:プラシャーンティニラヤム
ババ様の四十二歳御降誕祭の御講話より

無憂樹園

バクティ〔信愛〕とは心の状態であり、その状態の時、人は神とは別の存在を持ちません。バクタ〔神を信愛する者〕の息は神であり、バクタの行為はどれも神によるものであり、神のためのものであり、バクタの思考は神の思考であり、バクタの言葉は神によって語られ、神について語られます。なぜならば、水の中でしか生きられない魚のように、人間は神の中で――平安と幸福の中で――しか生きられないからです。他の生息地では、人間は恐怖や激しい闘争や失敗を持ちます。

ナンディ〔シヴァ神の乗り物である雄牛〕は人間の低次の性質〔の象徴〕ですが、神の車として使用される時には、神社の正面に自分の場所を確保して、神に捧げられた賛美のいくつかを共に得ます。このように、神と結び付いている時にのみ、価値と意義をもたらすことができるのです。その時、心も明るくなって、喜び、平安、穏やかさを感じます。それは、内なるアートマ(神)に固有の特性が反映されているのです。

現代では、人間の側がこの真実を把握してつねなる純粋意識を得るために試みることがなくなっています。獣は、ぬかるみにはまると、そこから出て救われようと奮闘します。ところが、人間は、下に人を引きずりこむ欲望というぬかるみにはまっても、そこからはい出すための努力を何もしていません!

シヴァ神はシャーストラ〔論書〕やプラーナ〔神話集〕において、托鉢を手に持っている姿で描かれています! 実に、シヴァ神は頭蓋骨を托鉢の器に使用すると言われています! シヴァ神は人に何を求めているのでしょう? シヴァ神は贈り主であり、かつ、要求する者です。シヴァ神は、シヴァ神が与えたもの、すなわち、清らかなハートだけを要求します。シヴァ神はハートを清らかな状態で与えました。シヴァ神は与えた時と同じ清らかなハートを返してもらうことを要求しているのです。シヴァ神は人間を愛で満たしました。シヴァ神はその愛を求めているのです。

すべての機能を主に全託することがプラパッティ

ラーマーヤナとマハーバーラタは、愛と、広大な可能性と、その愛を流して思考と言葉と行いを潤すための堤防を教えています。ダルマはその堤防を据えます。ダルマはその目標を設定します。

シーター〔ラーマーヤナに登場する貞女〕は、ラーマ〔シーターの夫でダルマの権化〕がそうしたのと同じくらいしっかりとダルマに固持しました。ドラウパディー〔マハーバーラタに登場する貞女〕もダルマラージャ〔ドラウパディーの夫でダルマの権化〕がそうしたのと同じくらいしっかりとダルマを固持しました。そのような母親たちが、バーラタの英雄たちに乳を飲ませて育てたのです。だから、この国は聖仙たちの養成の場となったのです。

シーターは、主がどれほど遠くにいた時も、主への最高のバクティを持っていました。ドラウパディーは、パーンダヴァ兄弟の守護者であるクリシュナ神がどれほど離れたところにいた時も、クリシュナ神と共に、クリシュナ神によって、すべての瞬間を生きました。

湖の蓮は、太陽から遠く、遠く離れています。しかし、距離は愛の夜明けの障害物ではありません。太陽が地平線から顔を出すと、すぐに蓮の花は開きます。月はとても遠いですが、月が空を照らすと、子供たちは手を叩いて、「月のおじさん」が自分たちに微笑みかけていることを大喜びして嬉しがります。

森の原住民は鳥を撃ちます。それは、彼らの人生の段階〔家長期〕と生計手段を考慮した場合に限り、合法です。しかし、自らの内にある神の愛の泉を見出すことに従事している森の苦行者が、木に止まっている鳥への愛を否定するなら、自分の進歩を衰えさせる大変な間違いを犯すことになります。それと同じように、すべての職業、すべての生活様式、性別、年齢別の人生の期間――幼児期、少年期、思春期、青年期、中年期、老年期――には、義務と責務があり、それらが規範を定め、個々人が自分自身と社会に利益をもたらすことができるよう導いているのです。

シーターが妻のダルマをしっかりと貫いていた時、シーターはすべての存在の中にラーマを見ました。恐ろしい女の化けものに囲まれた時、シーターはそのことに気づきませんでした。シーターは、無(む)憂(う)樹(じゅ)園(えん)(悲しみのない林の園/アショーカヴァナ/ア=~がない、ショーカ=悲しみ)と名づけられた魅力的な庭園に監禁されていましたが、シーターは自分の周囲のどんな花も見ませんでした。シーターの目、シーターの心、シーターの考えは、ラーマだけで満たされていました。これがプラパッティ〔全託〕の状態――すべての機能を主に全託している状態なのです。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:SathyaSaiSpeaksVol.7C42