サティヤ サイババの御言葉

日付:1968年9月22日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話①より

つる草と木

サヴァント大臣とムクンダ プラブ氏が皆さんにボランティアの役割を説明しましたが、あなた方は、それらを反芻(はんすう)しながら、次の四つの問いへの答えを見つけなければなりません。

  1. 自分はなぜボランティアとして選ばれたのか?
  2. 自分は何をしなければならないのか?
  3. 当面の目的は何か?
  4. 最終的な目的は何か?

これらについて、よく考えなければなりません。

ここ〔プラシャーンティ ニラヤム〕では、ボランティアという単語の代わりに「スワヤム セーヴァカ」(自分自身への召し使い)という単語が使われています。それは、あなたは自分自身を召し使いに選んだ、という意味です。誰のための召し使いでしょうか? 「スワヤム」、つまり、「自分自身」のための召し使いです。人に奉仕することが自分のためになるのです。あなたは他人に奉仕するのではありません。あなた自身に奉仕するのです。他人を傷つけることは、あなた自身を傷つけることです。なぜなら、他人というものは存在しないからです。他人とあなたは同じ海の二つの波です。あなたの内にいるのと同じ神が、他人の中にもいるのです。

あなた方は、この人は誰か、あの人は誰かと、貪欲に知りたがります。そして、その人の住所や地位や状態をメモして好奇心を満たします。しかし、あなた方は、そんなことを知るためにやって来たのではありません。そんなことをいちいち知る必要はありません。あなた方は二つの問いに対する答えを知っていればよいのです。それは、

  1. ババとは誰か?
  2. 私とは誰か?

という問いです。そして、その答えは、
「私はババの姿の映像である」
「ババは私という映像の実像である」
というものです。あなたがそれを知っているか、いないか、あるいは、映像の姿がゆがんでいるか、いないかにかかわらず、それが私たちの関係であり、結び付きです。

あなた方は、朝夕、ディヤーナ〔座禅/瞑想〕をしたり、ジャパ〔神の御名やマントラを繰り返し唱えること〕をしたり、シラヴァナム〔神の栄光を聴くこと〕、キールタナム〔神の栄光を歌うこと〕、スマラナム〔神を憶念すること〕、パーダセーヴァナム〔蓮華の御足に奉仕すること〕、ヴァンダナム〔神を崇敬すること〕、アルチャナム〔神仏の像を礼拝すること〕、ダースヤム〔神の召し使いとして奉仕すること〕、サーキヤム〔神の親しい友人であること〕、アートマ ニヴェーダナム〔神我に全託すること〕に従事したりしますが、それらはすべて、あなたが自分は映像にすぎないということに気づいて、きれいな映像、主のきれいな映像になるためにほかなりません。とてもきれいな、鮮明な映像になれば、あなたは神に帰融します。

信者がすべきは全託の誓い

セヴァ〔無私の奉仕〕とは、無数の顔を有する姿となって全宇宙に内在している主(ヴィシュワ ヴィラータ スワルーパ)を崇(あが)めることです。ヴェーダは神を、「千の頭と千の目と千の足のある者」と表現しています。お祭りのためにここに来た人々の何千という手や目や足は、どれも神の手足であり主の目です。主を礼拝しなさい。それがあなた方のセヴァの目的です。神はあなた自身の自己以外の何者でもありません。一人の人間を、単なる一人の人間と考えてはなりません。人は、自らの内に、自らの実在として神を有しています。このことを認識していなさい。

私はこれまで、あなた方に何年間もセヴァに関するアドバイスと指示を与えてきましたが、あなた方がどれだけそれを実践しているかに関しては、私は満足していません。私を喜ばせ、私を満足させ、私の指示に従うことを、あなた方の目標とすべきです。

私はいくつかの仕事を使命として担ってやって来ました。私にも果たさなければならない誓いがあるのです! それらはバガヴァッドギーターにも述べられています。私はダルマの主権を確立しなければなりません。私はひたすら私のことだけを考えている人々の幸福という重責(ヨーガ クシェーマ)を背負わなければなりません。ですから、私を喜ばす最善の方法は、すべての人の中に私を見て、あなたが私に奉仕したいと思うのとまったく同じように、すべての人に奉仕することです。これが最善の礼拝の形式であり、それは私に届きます。

主は二つの誓い、あるいは、二百の誓いを立てているかもしれません。それは神の意志です。しかし、信者(バクタ)が自分を救うには、一つの誓いを立てるだけでよいのです。それは全託(シャラナーガティ)の誓いです。もしあなたが万物の神性を完全に信じていれば、全託の姿勢は自然とあなたの中に根付くでしょう。人を人(ナラ)として扱ってはいけません。人を主(ナーラーヤナ)自身として扱いなさい。あなた方は他人の苦痛を和らげているのではありません。あなた方は人の姿をとった主に、人の肉体の中にいる神に、礼拝を捧げているのです。

命令には即刻、喜んで従うべし

明日、ここであなた方を見た人々が、次のように尋ねるかもしれません。

「この人たちはババの指示をきちんと守っておらず、奉仕が礼拝にまで昇華されていないのに、なぜそのような人たちに毎年毎年バッジ〔サイ オーガニゼーションのセヴァダルがセヴァの時に着用するバッジ〕が渡されるのですか?」、と。

あなた方が、あるメロディーを歌おうとして何度も繰り返し練習すれば、いつの日かその歌を上手に歌えるようになるかもしれません。時の経過と共にあなた方に分別が備わり、完璧の域に近づいていくことを期待して、私はあなた方に、実践を積むことによって学ぶことを促しているのです。私はあなた方を見捨てません。これは私の恩寵の印です。

命令(アージュナー)は極めて重要です。私があなた方に何かをするようにと言った時には、即刻、喜んでその命令に従わなければなりません。ディヤーナ〔座禅/瞑想〕やジャパ〔神の御名やマントラを繰り返し唱えること〕を省いてもかまいません。それは気にしなくてかまいません。素直に命令に従うことによってもたらされる果報は、それらの修行よりも価値があります。次のような例を考えてごらんなさい。あなたが瞑想をしているとします。近くで誰かが苦痛にうめきだしました。その声が聞こえると、あなたの心に反射的に怒りが生じました。あなたの集中が妨げられたからです。怒りや嫌悪感を募らせてはなりません。立ち上がってその人を助けなさい。その人を医師の手当てを受けられる場所に連れて行きなさい。そうすれば、あなたはその行為によって、あなたがしそびれた瞑想やジャパによって得られるはずだった恩恵のすべてを得ることができ、さらには、それ以上の恩恵も確保することができるのです。

恩寵を得ることを求めている場合だけ、私のもとに来なさい

シャンカラーチャーリヤの愛弟子だったパドマパーダは、自分にとっての学問は導師への奉仕(グルセヴァ)だけで十分であると告白しました。プラフラーダは、魂の向上と悲しみからの解放に必要なものはナーラーヤナ神の御名のみであると明言しました。

心の落ち着きと感覚の制御を伴わない大学の学位は、自由で幸福になるためには投げ捨てなければならない障害物であり、余分な荷物です。低次の欲望を満たすことを求めているのなら、どうしてここに来るのですか? 恩寵を求めている場合にだけ、ここに来なさい。医者が処方する薬を飲んで医者が定める養生法を守る決心ができた時にだけ、病院へ行きなさい。ですから、誰が何と言おうとも、また、それがどれほど難しく見えたとしても、私が与える指示に従いなさい。あなた方は、他人を喜ばすためにプラシャーンティ ニラヤムに来たのではありません。私を喜ばせるために来たのです。

私は、外側だけ信愛を取りつくろった、形だけの服従は喜びません。私は、本物の信仰心、内面的な服従、心からの信愛を要求します。私は、あなたが他人に守るようにと要求する規則や規定をあなた自身が守ることを要求します。もしあなたが優しく話さないなら、どうして他の人々があなたに優しくすることを期待できますか? 反作用は作用によって決まります。バッジを着けていながら、もしあなたが煙草を吸いはじめたら、あなたは自分とバッジ両方の名誉を汚すことになります。それは自己をあざむく行為であり、それはあなたの評価を下げます。あなた方が人に強要する規則への信念を持ちなさい。それを実行に移す気概を持ちなさい。

シラッダーヴァーン ラバテー グニャーナム
信念のある者は英知を通じて解脱を得られる

バクティ(信愛)という名の柔らかなつる草は、シラッダーという木(不動の信念)にしっかりとからみつきます。

振る舞いは模範的なものでなければならない

後から来た人の持ち物を置く場所がなくなるほど自分の寝床やトランクを広げないようにしなさい。快適さを求めてここに来る人は誰一人いません。あなたが確保したスペースがどれほどのものであれ、他の人と分かち合いなさい。誰もが等しくあなたの友人であり、親戚なのです。あなた方は、無執着を学んで実践するためにここに来たのです。

人に奉仕している時に雨に降られたら、濡れればよいのです。雨に濡れることなど何でもありません。奉仕をしている最中に死が訪れても、奉仕の手を休めてはなりません。あなたがそれほどまでに固い決意を持っているのであれば、神は死があなたに近づくことを許さないでしょう! あなた方は、「スワミは私に優しくない」と不満をもらします。それなら、スワミのハートを溶かしなさい。切望しなさい! あなたの改心の温かさを、他人の苦痛を少しでも和らげたいという同情心の温かさを、スワミに示しなさい。深まった無執着によって、五感の快楽を求める心が消えてしまわなければなりません。快楽を求める心が消えれば、意識(チッタ)が浄化されます。そうすれば、神がくっきりと映し出され、実体を認識することができます。これによって、平安と心の落ち着きがもたらされます。それはこの上ない至福です。

プラシャーンティ ニラヤムは、全世界の霊的向上〔内なる神性の向上〕の中心地です。ここには世界中からやって来た信者たちがいます。ですから、あなた方の犯すいかに些細な間違いや過ちも、世界中で話題になります。あなた方の振る舞いは模範的なものでなければなりません。すべての国々があなた方から教訓を学ぶようでなければなりません。基盤が崩れてはならないのです。あなた方は、強く、不動で、誠実で、素直でなければなりません。また、自分は権限として他人に指示をするよう選ばれたのだなどという傲慢を患ってもいけません。

あらゆる年齢層の人、さまざまな健康状態、経済状態の人、学識や知性のレベルが多様な人が、プラシャーンティ ニラヤムにやって来ます。さらに、ここ、プラシャーンティ ニラヤムは、他に行く所のないあらゆる人にとっての避難所でもあります。どんな人でも門外漢のように扱ってはいけません。どの人も私を守護者と支えとして有しているということを、覚えておきなさい。どんな人にも、そして、どんな人の前でも、怒り、悪意、妬(ねた)み、慢心を抱いてはいけません。徹底して謙虚でいなさい。人間の善良さを信じなさい。

修行の規律を真面目に守りなさい

ここは、あなた方にとって、素晴らしい、良い学校です。ここを発つ前に成功を収めなさい。この学校には、先生は一人しかいません。その先生は私です。私には、マネージャーも秘書も、社長も会長もいません。私自身が模範であり、リーダーであり、導き手なのです。私は誰にも強要しませんし、誰からも利益を得ることはありません。それでも私は、導き、教えるために働くのです。もし私が活動を停止したままでいれば、世界の歯車はどうやって動けるでしょう? ステージ、演壇、防水カバー、シェッド、貯水槽、給水ポンプなど、ここでの一切の最も細かなことにさえ、私は気を配っています。自分のこともすべて自分でします。ですから、私はあなた方のセヴァを必要としていません。もしあなた方がここに集まる人たちにセヴァをするなら、それは私に至福(アーナンダ)をもたらします。私はその至福以外、食事を必要としません。

私は至福の化身(アーナンダ スワルーパ)であり、私の本質は至福です。至福は私の印です。バーガヴァタ、ラーマーヤナ、バガヴァッドギーター、マハーバーラタに記されている、命令(アージュナー)、規律、霊性修行は、何世紀もの間、読まれ、暗記されてきましたが、守られてはいませんでした。今、無形(ニラーカーラ)なるものが人間の姿をとって降臨したからには、あなた方自身の解脱のために与えられた指示を守ることに真剣になりなさい。恩寵という甘露を差し出された時、それを投げ捨ててはなりません。

ハヌマーンは、シーターの居場所を捜し出すよう命じられ、疑問を差し挟むことなく無条件にそれに従って、成功を収めました。ハヌマーンは旅の危険性を計算して躊躇(ちゅうちょ)したりはしませんでした。ハヌマーンは、高度な冒険に選ばれたことに得意になって熱弁をふるったりしませんでした。ハヌマーンは、耳を傾け、理解し、従い、勝利しました。そうすることでハヌマーンが勝ち得たラーマドゥータ(使者/ラーマの召し使い)という名によって、ハヌマーンは不滅の存在になりました。あなた方は、サイ ラーマ ドゥータ(ラーマであるサイの召し使い)という名前を得なければなりません。忍耐力と自制を身に付けて、優しい良い言葉を使いなさい。自分の一つひとつの行いを、私が好むかどうかという尺度で点検しなさい。

「スワミはこれをよしとするだろうか?」

と自問するようにしなさい。これこそが苦行(タパス)であり、その中であなた方は手ほどきを受けるのです。それは、このダシャラー祭の十日間だけの苦行ではなく、一生続く苦行です。あなたが自分の家や自分たちの村に戻っても、この修行を続け、他の人々の道を照らす明るい灯火になりなさい。

私はあなた方の次の二点を最も高く評価します。
1.沈黙。

神の声が聞こえるのは、深い沈黙の中においてのみです。できるかぎり小さな声で話しなさい。できるかぎり言葉少なく、できるかぎり優しく話しなさい。けれども、ささやき合うようなことをしてはいけません、なぜなら、陰で誰かの悪口を言う時にだけ、人はひそひそと話をするからです。私の耳に届かない離れた所で大声で話してもなりません。そのような、私から離れた場所などないからです。
2.ナーマスマラナ(唱名)。

別のどのような務めをしている時も、神の御名を唱えていなさい。神の御名を、あなたのあらゆる活動の永遠なる背景としなさい。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C33