サティヤ サイババの御言葉

日付:1968年9月23日
場所:プラシャーンティ ニラヤム
ダシャラー祭連続講話②より

新たな日へと死にゆく

今日は、サティヤ サイ病院の二十周年記念式典です。進行役は医科大学の学長であるゴアが務めます。この式典には、インドの各所から集まった大勢の帰依者が参加しています。病院の役員たちが、年間の入院患者と外来患者の治療状況や、その他の発展の様子を詳細に報告します。けれども、その報告は、「健康を維持するのは何のためか?」、「肉体の一番よい使い方は何か?」という根源的な問いかけとは無関係です。なぜなら、感覚、知性、感情、記憶力をすべて備えている肉体は、ゴールへ向かうための道具であり手段である馬車だからです。いかなる時も、馬車の主人は馬車よりも重要です。馬車がつねに整備された状態で、使いやすく、修理されていなければならないのは、主人のためです。

寿命は、命を与えた創造主である神の手の内にあります。寿命は、食べた物のカロリーや注射した薬液の量、薬を処方した医師の技能に比例するものではありません。体調不良と死の最大の原因は、信心の欠如と恐れです。アートマ〔内在の神〕という、変化も属性もなく、減少も老衰もなく、衰弱も損失もないものに集中するなら、人は死に打ち勝つことができます。ですから、最も効果のある治療法は、アートマ ヴィッディヤー(真の自己である魂の知識)を注射することです。

浄性を回復させる行為だけに熱心に取り組みなさい

死は、どこでもいつでも容赦なく、確実に獲物に忍び寄ってきます。病院でも避暑地でも、映画館や飛行機、潜水艦の中でも、死は獲物を追いかけてきます。実際、誰も死の手から逃れること、避難することはできません。神のみが、命を与える者であり、命を守る者であり、命のたどり着く所です。死について考え込んではなりません。死は人生の中の一つの出来事にすぎません。すべての命の主である神、肉体という枠組みの中に存在する神について考えなさい。生活の中でずっと神を意識し、呼吸すること、話すこと、歩くこと、稼ぐこと、消費することといった、あなたの活動のすべてを神に捧げなさい。なぜなら、そうしたあらゆる活動をあなたが行うことができるのは、神のおかげであり、神によってであるからです。病気になったり医者にかかったりするのは、不自然なことであり、堕落です。ひとたびあなたが自分を神へ捧げれば、あなたはよくなります。病気などありえません。

食習慣を規制しなさい。舌の貪欲を抑えなさい。浄性(サットウィック)の食べ物、すなわち清らかな食べ物だけを食べなさい。気晴らしは浄性のものだけにしなさい。そうすれば、体の病と精神の病から逃れることができます。中傷、損失、失望、挫折には、勇敢に、落ち着きをもって耐えなさい。そうすれば、精神的に落ち込んで苦しめられることはなくなります。言っておかなければなりませんが、あなた方の誰かが苦しみを受けている時、私は嬉(うれ)しく思います。なぜなら、それは自分の知性と価値観をはっきりと示すために、その人に与えられたチャンスだからです。

ハリシュチャンドラ王は次々とひどい災難に遭いました。貧困〔一つ嘘をつけば困難を避けられたが真実を貫いてヴィシュワーミトラ仙に王国を譲って無一文になった〕、追放、債権者からの迫害〔ヴィシュワーミトラ仙にさらに謝礼金を求められた〕、それから〔謝礼金を稼ぐために〕王女と息子と自分の身を売って奴隷となり、その結果、主人からベナレスのガート〔川岸の沐浴場〕の火葬場の料金徴収係という落ちぶれた仕事を割り当てられました。しかし、ハリシュチャンドラ王は決して屈することも挫けることもなく、不正に屈しないという決意を貫きました。

ナーマスマラナはサーダナだと考えなさい

神の御名は最もよく効く強壮剤です。神の御名はいかなる病気も寄せつけません。ナーマスマラナを、暇つぶしや一時の流行、予定表に組み込まれた不愉快な時間、毎日こなさなければならない苦しい割り当てとして取り組んではなりません。ナーマスマラナはサーダナだと考えなさい。はかないものへの執着を減らすため、そして、自らを浄化し、自らに力を与え、生と死の輪廻から自らを解放するために、真剣に取り組むべきものとして考えなさい。すべての面において時間と変化の足かせから自らを救う手段として、しっかりとナーマスマラナにしがみついていなさい。恐ろしい病気に対しては頼りない治療法に思えるかもしれませんが、ナーマスマラナは万能薬なのです。

この急を要する義務を逃れるための共通の言い訳は、今は忙しすぎてスケジュールがいっぱいなのでナーマスマラナをする時間がない、というものです! 避けられないという理由で百もの仕事の負担に耐えることができるなら、ナーマスマラナという追加の務めはそれほど嫌なものでしょうか? 百を背負っている人は、間違いなくもう一つ背負うことができます。さらに言えば、ナーマスマラナは行事のスケジュールの一つではなく、土台となる絶え間ない活動です。ナーマスマラナは、呼吸と同じく、重要で不可欠なものとならなければなりません。舌には砂糖と同じように歓迎され、睡眠や食べ物や水と同じように、幸福な人生の根幹でなければなりません。この永続する一つの仕事は、百の仕事すべての負担を減らし、それらをもっと明るく、もっと価値のあるものにするでしょう。毎日、神を思いながら起床しなさい。毎日、神の御名と共に過ごしなさい。そして、神の御名の中にある神の栄光を思って床に就きなさい。

人生は長い一つの試練であると知りなさい

あなたは床に就き、それから目が覚めて日付が変わったことに気づきます! あなたは一日分老いました。死が一歩近づきました。橋の下にはたくさんの水が流れています。それと同じように、あなたが眠りに就くと(死という眠り)、大きな変化が起こります。あなたは新たな日に目を覚ましますが、古い癖と習性は新しい体にも引き続き影響を及ぼします。人生は長い一つの試練です。物事がまったく順調に進んでいると思える時も、このことを忘れてはなりません。いつ何時、道は泥沼に変わり、空は暗くなり、幸運は離れていくかしれません。

マーヤーのベールを切り裂く英知の剣を得なさい。ゴールへと向かう旅の間、できるだけ早く真と非真を識別しなさい。もし目が、心に映るすべての中に神を見るという果てしない歓喜を引き出す助けとならないならば、目が見えないほうがはるかによいでしょう。もし耳が、汚く不快な音の世界にあなたを引きずりこむならば、耳が聞こえないほうがはるかによいでしょう。五感によって官能的快楽に陥ってはなりません。五感は、あなたにとって本当にためになることのために働いて、あなたの欲望と食欲を昇華させなければなりません。それが健康と幸福を確実にする唯一の方法です。

サイババ述

翻訳:サティヤ・サイ出版協会
出典:Sathya Sai Speaks Vol.8 C34